象と蝶

七瀬夏扉@ななせなつひ

第1話

 おそらくこれを書き上げる頃には、そして誰かがこの文章を読む頃には、僕は誰の手も届かないところに、誰の目にも触れないところにいると思う。だから、この文章が完璧でなくても、もしかしたら途中で終わっていたとしても、肩を落としたり、この野郎なんて罵声を浴びせたりしないで欲しい。

 

 そんなことをされたら、僕はかなり気が滅入ってしまうだろうし、とんでもなくやれやれって気持ちになってしまうだろうから。

 

 僕としては、今まで大量の文字を書いてきたわけだけれども、自分のことに関しては一切、一行たりとも、行間の間にすら出さずに、徹底的に自分と言う物を排除し、排斥して生きてきた。それに正直なところ、僕には僕自身を語る言葉と言うものを持ち合わせていなかった。

 だからこの文章は、純心無垢な少女が初めて書いた恋文のようだと思って読んでくれると、僕としてはありがたい。

 話は変わるけど、僕はよく空を見上げるんだ。チューブの絵の具をそのまま塗りたくったような、濃くて、厚くて、重々しい青色の空。白くて分厚い積乱雲が、翼を広げた白鳥のように風に流れてやってくる。そんな空を僕はいつ頃からか見上げるようになった。

 具体的なことを言えば、宮崎駿の映画なんかで描かれる綺麗な空だ。そう、女の子が降ってくるんだじゃないか、そんなことを予感させてくれる空が僕は大好きだ。だからと言って、実際に女の子に空から降ってきて欲しいわけじゃない。こうは言っても、結構常識的な人間だと自分では思っているし、女の子がいきなり空から降ってきたら、僕はどうして良いのか分からずに、慌てふためいてしどろもどろしてしまうだろうから、そこはご愛嬌。

 

 これから僕の話をするわけだから、別にプロローグ的なものはいらないと思うけれど、まぁ、この文章をプロローグだと思って読んで欲しい。

 文章を沢山書いてきたといっても、物語を書くのは初めてだし、事実だとしてもこれは僕にとっての物語だから、なるべく物語らしく書きたい。そして文学的娼婦になったつもりで僕はこれを書こうと思っているから、そのつもりでお付き合い願いたい。


 今から僕が語る物語は、僕が大学生四年生の頃の話だ。

 大学生の頃の僕はお世辞にも優秀な学生ではなかったし、それ以上に人間としてもかなり不出来な人間だったと思う。不完全、欠陥だらけ、ポンコツ、未完成、未成熟、そんな言葉を並べれば、ああ確かに、そんな風に思い浮かべられる人間が僕だ。

しかし、だからといって今現在の僕が模範的、優等生的、優良な人間かと言えば、それももちろん違う。

 あの頃から、僕は本質的には変わっていないように思う。

 幾分か狡賢く、強かに、用心深くはなり、そのことで僕をずいぶん悩ませ、苦しませたりもした。

 それでも、僕という人間は基本的にはあの頃のままだ。

 夏休みの朝顔は今もベランダで枯れたまま。

 そんな僕が嫌でも何かを感じずには、その場所に留まっていてはいけないと、身に染みて思い知らされた人生の一瞬の、ほんの数ページの話が、今から僕が語る物語だ。

 

 今こうしても思い返してみても、僕の人生において、それ以外に語ることなどは一切見つからなかった。そう言い切ってしまうと、これを読んでいるあなたは、僕の人生がとても薄っぺらくて、ずいぶん空っぽな人間なんだと、同情的な気分になってしまうかも知れないが、それは違う。僕だって多くの人が当たり前のように経験し、体験した。愉快で痛快で、もの悲しくて、ほろ苦い経験、体験はいくらでもある。喜劇も悲劇もいくらでも演じてきたつもりだ。それでも僕がこの話以外に何もないと言うのは、つまり人間の一生において――ああ、それを長いか短いかと仮定するかは別の問題にして欲しい、それはまた別のテーマだと僕は常々考えている――人が本当に語るべきことなど、ほんの数ページしかないということ何だ。

 あなただって他人の嘘と誇張で塗りたくられた自慢話や、幸福に溢れたばら色の話、延々と鉛色の空が広がり、じめじめした空気が漂うような陰惨とした話なんか聞きたくないだろうし、僕だってしたくない。もしそんな話をしている奴がいたら、こう言ってやると言いと思う。


「その話に何の意味があるんだい? そんな話がしたいなら猫の小便でも入ったカクテルを出してくれるバーにでも行くんだな」


 多くの人は度肝抜かれて、鳩が豆鉄砲を食らったような顔になり、それ以上何も言えなくなってしまうから。これは僕の実体験だから間違いない。

 という訳で、人が自分の一生の中で本当に語るべき意味のある話など、ほんの数ページしかないということは分かって貰えたと思うし、そう信じている。

そこで、ようやく僕は今から物語を始めるわけだが、些か僕の物語へとハードルが上がった感は否めない。

 が、まぁ仕方ないだろう。

 舞台は東京の田舎町。

 東京で田舎町というのも少しおかしな話だと思うだろうが、東京にも田舎と呼ばれている場所は存在する。明確な地名を出してしまうと、少しばかりばつの悪い気分になる人もいるだろうから、地名は割愛させて貰う。

 とにかく東京の田舎町だ。

 季節は夏休み。

 唸るような暑さばかり続き、水害の多い夏だった。太陽はこれから巻き起こる激しい時代のうねりを予期していたかのように燦々と猛威を振るいつくし、ゲリラ的な豪雨が各地を襲い、土砂崩れや浸水がバケツをひっくり返す子供さながらに好き放題にやっていた。

 時代まで必要かどうかはわからないが、一応明記しておく。

 中国が大国に上り詰め、ギリシャが国家的な危機を迎えていた。

 それだけ言えば分かるだろう。そんな国際状況を見て、僕の友人の一人は憂慮の表情を浮かべてこう嘆いていた。


「老子、孔子を生み出し道徳の国から道徳が失われ、アテナイの時代から続く哲学の国から哲学が失われてしまった」


 言い得て妙だったが、その友人はまとも大学にも行かずに毎日酒を浴びるように飲み、手当たり次第に女の子に手を出していた。金持ちの放蕩息子で、単位すら金で買えると本気で信じているような男だった。僕はそのことについて、日本の古くから伝わる勤勉さと清貧の心を失った日本人が直ぐ近くにいることを、ずいぶん嘆いたものだった。だからそんな彼がその後の人生で、国許の地方議員に出馬立候補して当選した時の僕の気持ちを表す言葉を、僕は未だに自分の語彙の中に見つけられずにいるから、これ以上この話はしないでおく。

 僕は二十一歳で、二十二歳をその年に迎えようとしていた。

 一応は就職活動中だったが、多くの人はそれを終えていた。

 あの頃、この長い氷河期の氷を打ち砕かなければいけない厳しさと過酷さに、多くの学生達からは深く、濃い溜息が零れ落ちていった。

 賢い人間ならば、前もって砕氷船のチケットを買っていただろうし、こずるい人間ならば、賄賂でも渡して何とかその船に乗り込む手段を見つけていたので、僕のようにトンカチとアイスピックを片手に、氷河期の氷に挑むような無茶はしなくて済むだろうだけれど、前述の通り僕の優秀な生徒でもなく、不出来な人間だったので、そんな入念な準備などもちろんしてはいなかった。

 しかし、今思い返してみても、僕は焦っていなかったように思う。将来を心配してさえもいなかった。もちろん周りへの体面やポーズとして、そう言った雰囲気を出していたりはしたが、心の底からそのことを気にしてはいなかった。何とかなると確信していたし、事実今までも、そしてこの文章を書いている今日まで何とかなってきた。

 多くを望まず、身の程さえ弁えていれば、それ相応のお鉢が回ってくるのが人生だ。


 大学四年生の暑い夏休み。

 僕の物語の始まりであり、終わり。


 ここで長く書きすぎたプロローグを閉じようと思う。どうせ推敲などしないだろうから、全体から見て大分おかしなバランスになってしまっているかもしれないが、そこはやはりご愛嬌。


 先ほども書いたとおり、これは穢れを知らない処女が、始めて秘め事をする時のような文章なのだ。だから文章の中に不安や怯え、痛みなどがあっても多めに見て欲しい。


 さぁ、いい加減に幕を開けよう。

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