No By Myself

箱津瑞幸

No By Myself

【No by myselfーfeat.「Changes」】


ずっと好きで、大好きで。

好きで好きで仕方なくて、だからこそ身を滅ぼした。


一方的に好きだっただけなのか、利用されていただけだったのか。私にかけてくれたたくさんの言葉はすべて嘘だったのか。自問自答はやがてどす黒く淀み、底なしの泥沼のような思考の淵へ沈んでいく。

やがて生まれてくるのは、心をずたずたに裂かれるような悲しみと行き場のない怒りと、自分への強烈な嫌悪感。その負の螺旋にどっぷりはまっている自分も大嫌い。悲しみに沈んでいる自分も大嫌い。


嫌い嫌い嫌い。


それなのに、涙は止まらない。この涙がどの感情から溢れてくるものなのかも、もう分からなくなっていた。

分からないまま、嗚咽をこらえ唇を噛み、まぶたを腫らしながら迎える朝、何度も、何度も。

褥から何とか這いずり出て、疲れなんてまったく取れていない身体を湯船に浸して、思考を持ち上げようと今日も試みる。

濡れた身体のままで鏡の前に立つ私は、裏切られやつれた哀れな女。

沈みきった顔に化粧を塗りつけ服で擬態をして、周囲が見慣れた「私」という個体を作りだして、ようやく出て行く。


ーーもう、疲れてしまったんだけど。


光は射すのにまるで暗闇にいるような朝を迎え続けて一ヶ月。

ちょうど男友達と会う約束があったことを思い出した。それを思い出せた自分に、ほっとした。やっと余裕ができたんだ、と密かに喜んだ。

会う予定の友人は昔、私が音楽をやっていた縁で巡り会った美しい獣。

その頃から変わらずに呼び習わしている癖で、私は今でも彼のことを本名ではなくアーティスト名……というか、あだ名に近い感覚で呼んでいる。


夕方、午後6時過ぎ。平日の古町、割烹料理店にて。私たちくらいの年齢で行くのにはやや敷居が高いが、いい店だ。

彼の所属先の事務所が経営をプロデュースしているところと聞いた。落ち着いた店で、いかにも大人の雰囲気と言った感じ。

駅前のハワイアンダイニングや古町のビールバーもいいけれど、たまにはこんな店はどう? とあちらが言いだしてくれた。


先に入って、麒麟山の本醸造で冷やを一合、ホタルイカの沖漬けをつまみにひとり飲む。

『連れが来るので座敷でお願いします』と言っておいたので、そのまま座敷で静かにやる。1時間ほどして、戸口で大将の『いらっしゃいっ』という声が聞こえた。


「よ」

現れたのは、予想通りの影。すっと手を上げて、晴れやかに微笑んだ。私も釣られて手を上げる。

「よう」

「お疲れ。待ったでしょ」

「待った待った。あ、すいません、もう一合。冷酒で真野鶴の純米、お願いします」

私はからになったガラスの徳利を掲げて、お運びさんの持ってきた盆の上に置く。

「俺ももらおうかな」

「だめ。あんたは最初、軽いやつにしな。あと何かおなかに入れなよ。どうせお腹空いてるんでしょ?」

「へへ、お見通しだなあ」


満面の笑みで目を細める痩せぎすの男は、最近さらに痩せたようだ。多忙だもの、知っている。

もともと食事は大好きなのだが、たくさん食べても太れないという女性には夢のような(と言ったら皮肉に聞こえるだろう)体質だそうで、少しでも忙しい日々が続くと周りが心配するほど痩せてしまう。

困ったものだ。そんなところは、昔からちっとも変わっていない。

けれど、彼の細い身体から発せられる声は類い稀な美しさを持つ。

時に野性的でもあり、身近な私でさえ恍惚とするほど魅力的だ。その狂おしい熱にあらがいがたく、身も心も魅了される者は多い。


さて、さしあたりは、この痩せた身体に熱を灯そう。どこかで『食事は戦い』だのなんだのと言ったらしい。

食べることに興味のない人間はつまらない。セックスに興味のない大人と同じくらいつまらない。

美味しく食べて、愛しいひとと寝て、それに生きがいを感じずに何が人生か。どうせ生まれてきた身分、死ぬまでその楽しみを満喫せずに何が人間だろう。

恋に破れても腹はすく。

死にたいほど悲しくても眠くなる。

生理現象の声に耳を傾けてこそ人間。悲しいかな、しかしそれが何よりも愛しい。


「じゃあ、何がいいかな」

私がメニューを開くと同時に、彼はどっかと座敷に胡坐をかいて、鮮やかなブルーのブルゾンを脱いだ。

ふわりとかすかに汗の匂いがする。少年が泥だらけになって遊んできたような懐かしい香りに、思わず口角が上がるのを感じた。


「えーとね、俺、生ビールと、くわいの茹でたのと、のどぐろの焼いたのと、ごま豆腐」

「じゃあ私、それに女池菜のお浸しと寒ぶりのしゃぶしゃぶ三人前」

「お、おごり?」

にやっとその形のいい唇を愉快そうにゆがめて彼はうそぶいた。

「あんたの方が稼いでるでしょうが。……ま、たまには私がおごりもいいかもね」

「ありがと。じゃ、そういうことで。次は俺が払うから、とりあえず飲もう」

「うん」


うるいのお浸しと里芋の煮っ転がし、えごの酢味噌和えの突き出しを彼は豪快にがっつく。それを眺めつつ、手酌で真野鶴をガラスの杯に注ぐ。

手酌も女のおごりも許される、気の置けない大切な仲間のひとり、それが彼だ。

「ビール来たよ」

「おう」

「じゃあ、乾杯」

「かんぱーい。お疲れー」


かちん、と宙で種類の違うグラスがぶつかって鳴る。その玉響の鐘の音に、しばし酔いしれる。私たちは忙しく語らい、食べ、飲んだ。

彼は、酔うのは好きだが酒豪というわけではない。それゆえ、かけつけのビールから日本酒二合を楽しんだ後、後に残りにくい焼酎に変えていた。

紅乙女。胡麻焼酎だ。冬はお湯割りが、彼のたしなみ。


いろんな、くだらない話をした。

いつも日本中を飛び回っていて、一体いつ寝ているのかというほどなのに、彼の「くだらない」話題は事欠かない。

仕事の話は一切、しない。それは私も同じだけど、私よりずっと忙しいはずの彼の話は、私よりずっと充実していた。

私にはそれがとても心頼もしく、また一抹の寂しさを覚えるものでもあった。


ああ、この人は私の手の届かない人になってしまったんだ、と。

こうして話していても、私と彼との間には大きな隔たりがあるように思える。

いつまで私はこうして、うじうじと悩んでいるのか。比べて彼はどうだろう? と、自分がまた、嫌になった。

そんな感情を笑顔と酒精で隠して、気づけば2時間ほども飲んでいた。

旬の料理をあらかた食べ尽くし、酒も一通り飲んでしまった、というところになって、切り出したのは彼の方だった。


「そろそろ行こうか」

「うん」

「……飲んだねえ」

「うん」

「これからどうする?」


どちらからともなく言いだして、これから何か甘いものでも、という話になった。

「夜中でもやってるの?」

「まだ10時前だよ。喫茶店ならどこでもやってるよ」


提案されたのは、古町モールの中にある狭くて古い喫茶店。彼は言った。素朴なケーキと丁寧に淹れられた珈琲が美味いのだと。

「でも、もうすぐ閉店しちゃうらしいんだ。だから今のうちに行っておきたいかなって思って」

「そこまでタクシーで行く?」

「酔い覚ましには歩きでしょ」

「そうね。そうしよっか」

その喫茶店を知ってはいたものの、私はかつて行ったことがない。いつの間に覚えたのかと、無意識に視線が遠くなる。

ごちそうさま。丁寧に礼を言って、全額をカードで払った。会計は安くもないが、高くもない。良心的な店だ。また来ようと約束して、寒風が肌をさする古町通を二人で歩いた。


「寒いね」

「……うん」

「どうしたの」

「うん」


どうしたのって言いたくなる。彼は、今日はトレードマークとも言えるサングラスをかけていない。その姿はこの街のどこにでもいそうな、とっぽい兄ちゃんだ。

カリスマ性(というともはや古臭いが)なんてかけらもない、ありふれた細身で童顔の青年に見える。

メディアでのあのたたずまいは彼なりのポーズであり、ひとつの『戦略』なのだということを思い知らされる瞬間だ。

そんなことを考えながら、横顔をちらちら盗み見る。どこか落ち着かない様子の影と歩幅を合わせていた。

あれだけ喋ったのにまだ足りない気がするのは、この男がやはり、気の置けない友人だからだろう。

アスファルトの青みを帯びた黒を、敷き詰められた煉瓦のくすんだ赤を順々に眺めながら道は続く。それは、私にとって安心できる以外の何物でもなかった。

ふと彼が視線を前に向けたまま、ぶっきらぼうにつぶやくのが聞こえた。


「ねえ。手、貸して」

「え?」


再び問う暇もなく、手を取られブルゾンのポケットに突っこまれた。

突然のことにどぎまぎと声を失っていると、息を継ぐ暇もなく言葉を放り投げてきた。


「別れたんでしょ」

「……ええ?」

「だから、別れたんでしょ、って聞いた」

「誰とよ」

「……苦しいんでしょ。今」

「え……。くるしい……?」



それでやっと気づく。頬に流れる冷たいものに。

私は泣いていた。声もなく、感情すらも置いたままで。

けれど私が泣いていたから、彼は私の心の動きに気づいてくれたのだ。私は、戸惑いながら濡れた頬に手をやることしかできなかった。

一重の瞳が至近距離でこちらを見つめているのが、酔いもどきの涙の向こうに滲んだ。


ーーそんな目で、見ないで。

私は祈るように、彼の瞳を見つめ返す。でもその願いが叶えられることはなかった。


「ずっと、見てたよ」

「……何を」

「お前のこと」


ブルゾンの中で強引につながれた手が、もっと強引に、ぎゅうっと握られた。


「……ふざけないで」


私はその手をふりほどいた。飛びすさるように距離を取り、涙を払ってきっと睨みつける。

彼の瞳は寂しそうな色味を帯びて、揺れていた。もの言いたげな唇が開かれる前に、急いで言い重ねる。


「酔っ払ってるからって、……許さないわよ」

「酔ってるからじゃない」

「説得力ないわよ」

「……確かに」


自嘲気味にかすれた声を立てて、彼は小さく笑った。

そんなふうに悲しそうに笑わないでよ。あんたはそんな複雑な表情ができる人間じゃなかったくせに。

いつの間にか大人になっていた彼のことを、私は見くびっていたのかもしれない。

そう、少し年下の男に身体以外は何もかも許していい気になっていた私は、今見事に足をすくわれてしまっていた。


じり、と長い影が歩み寄り、手が差し出された。


「ほら」

「な……何よ……」


目の前のそれを、凝視せざるを得ない。細くて長い指、しなやかな腕。この手に幾度慰められ、励まされたことか。

けれど、私は。


ーー耐えなくてはいけない。この惑乱を。

ーー誘いに乗ってはいけない。これは、ただの気の迷いなのだから。


痛いくらい唇を噛んだ。顔が冬の冷気にではなく強ばるのを隠しきれない。

私の表情を読んだか、向かい合わせの顔がしかめられ、歪むのを見てしまった。

皮膚を切る冷たさの中で、身のうちの何かが燃えるように熱い。滾り込み上げてくるものが、今にも噴き出しそうで怖かった。


もしこの肉の薄いあたたかい手を取ったなら、私の中の行き場のない思いはどうにかなるのだろうか。

そう思いついて、すぐに心の中で首を振った。


ーー駄目だ。


ここから逃げなくてはと思っていた。ずっと、ずうっと前から。この掌から逃げなくては、私は変われないと思っていた。

いつまで経っても彼に頼りっきりじゃ、駄目だと思った。目の前で約束された安らぎを放棄して、危機に身を委ねることで変われると思い込んでいた。

私は、私を今更否定なんてしたくなかった。大切だった人から否定されて、自分の過去から否定されて、他に私の心の行くあてなんてどこにもない。


「馬鹿言わないで!」


馬鹿を言っているのは私だ。それでも事実から目を逸らしたくて、後ずさった。


すとん、と音と同時に身体が揺らぐ。

落ちるような衝撃。


鈍い痛みが足首に走って、同時に彼の叫ぶ声がした。

応えようとしても隙はなく、意識は冬の空に消えていった。


――変わりたかったのよ。

――分かってる。

――ずっと、ずっと変わりたかった。でも変われなかったの。

――大丈夫。お前は、変われるよ。


……あったかい……。

一度は棄てた安息がここにある気がした。

ああ、変わるって、難しいことじゃないんだ。認めること、自分の中の何かを受け容れることも、変わることにつながるんだ。

自分の中の、面倒くさい、我がまま、自分が大嫌い、そういう感情も自分だと認めること。

それも、変わることの第一歩なんだ。


「……気がついた?」


どんよりした闇の底から、意識が徐々に戻ってくる。聴覚が戻り、ついで無機質な匂いがした。

うっすら目を開けると、目に飛び込んできたのは白。

白い天井と、白いカーテン。未だ靄のかかった頭で感じるのは、明快な疼痛。


「あれ……私……」

「軽い脳しんとう。と、捻挫。……でもびっくりしたよ。何もないとこでいきなり、後ろから転ぶんだもの」

「そっか……そうだったんだ。ごめん、酔っ払ったみたいで……迷惑かけたね……」

「そんなの、いいから。気にすんなよ」


そう言って片方の眉根をちょっとひそめたものだから、どうしていいか分からなくなって、話を逸らした。


「……ここ、病院?」

「うん。今、夜中の二時。痛くなかったら、このまま帰っていいって」


確かに足は痛いけど、我慢できないほどのものではない。違和感があって後頭部を何気なく探ったら、大きなたんこぶができていて、ぷっくり膨れていた。


「痛い?」

「……ちょっとだけね。でも大丈夫。ありがと」


ゆっくり起き上がって、視線をシーツに落とす。

さっきの、あの会話は何だったのだろう。無意識が見せた幻か、それとも私が実際に呟いていたのだろうか。

私は、誰よりも変わりたかった。この目の前で穏やかに微笑み続ける人から逃れるために。

でも変わるということが、受け容れることと似ているのならば、私は変われるかもしれない。

恐怖を飛び越えて、真実を飲みこむこと。

だとしたら……。


私は彼の名前をおそるおそる、呼んだ。


「どうした?」

「私……変われる?」


唐突にも聞こえるその問いに、ふ、と彼は微笑みを深くした。ああ、その微笑み。

私はこれが欲しくて、でも自分の中でそれを否定して、変わることさえも拒絶したのだ。


「変われる。お前が望めば、……いくらだって」

「……そっか」

「うん。大丈夫だよ」


夢の中の繰り返し? よく似た言い回しの運びに、既視感を覚える。


「……怖い」

「怖くないよ」

「ねえ」

「なに」

「手……。握って」


勇気を振り絞ってそう言うと、私の右手をその両手で包み込んでくれた。

短い動作の間、その後も、お互い無言だった。けれどこのぬくもりは存在を、感情を、何よりも雄弁に物語る。何かが氷解していく。すべてが腑に落ちていく。

胸を咳き上げるものがあって、危うく嗚咽を洩らしそうだった。

乾いた手の甲、ささくれだった爪の生え際。こんな手だったんだと、しみじみと眺める。……ずっと見ていたのに、私は彼の何も知らなかった。

欲しがっていたはずの掌の些細な造作さえ。


「明日、遊びに行こう。どっかゆっくりできるところでさ、いっぱい話そう」

「……いいの?」

「いいさ。そんで俺におごらせてよ。昨日行けなかった喫茶店も、行こうよ」

「……うん……」


いつの間にかまた、泣いていた。

目を合わせられない、恥ずかしくて。

けれど、私のそんな感情さえもお見通しのように、彼は手を握り、無言で寄り添ってくれている。


小さな灯から目を逸らしてしまった私を許してくれる?

まだ間に合う?

夜が明けたらーー聞いてみよう。


I wanna change,I’ll change,I gotta change.

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No By Myself 箱津瑞幸 @misaki_baco2

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