第18話 貴女より私の方がトムの事を好きなんだから!

 有栖川亜梨沙は大富豪である有栖川龍之介の一人娘で、高校二年生です。


 亜梨沙はそれなりに美少女ですが、胸が小さいのを気にしています。


 小さいどころか、えぐれていると思っています。スタイルに関してはかなり悲観的です。


 ですが、男子達の多くは亜梨沙と付き合いたいと密かに願っています。


 そんな亜梨沙の邸に新しく執事が来ました。


 その人の名はトーマス・バトラー。執事の本場である英国の出身です。


 金髪で碧眼。その上イケメンで、亜梨沙は完全に一目惚れしてしまいました。


 誰にも言えずにいましたが、親友の桜小路蘭には見抜かれてしまいました。


 亜梨沙はそれに気づいていません。


 更にそんな亜梨沙に追い討ちをかけるように登場したのが、トーマスの妹のキャサリンです。


 彼女も金髪碧眼の美女で、亜梨沙を動揺させました。


 トーマスの妹なのに、何故かキャサリンをライバル視してしまう亜梨沙です。





 その日、亜梨沙達の通う天照学園がある西世田谷区一帯は、前の日の夜から降り積もった雪で一面真っ白になっていました。


 普段から雪にあまり縁がない西世田谷区の住民の皆さんは、家の前の雪をどけるにも難儀しています。


 雪かき用のスコップもない家が多く、ほとんどの舗道は降った雪がそのままになっていました。


「これでは住民の皆さんの生活に支障が出るな」


 早朝出勤をした龍之介はその様子を憂えて、関連企業に指示を出し、西世田谷区の全世帯にスコップと長靴と手袋を支給させました。


 それはまさに神速と言っていいくらいの速さで遂行されました。


 西世田谷区の多くの住民は有栖川グループの企業の従業員で、西世田谷区民の不便は有栖川グループの不便に直結するからです。


「会長、西世田谷区長様からお電話です」


 本社に向かうリムジンの中で携帯電話を秘書が差し出します。


「はい、有栖川です」

 

 龍之介はにこやかに応じます。


「いえいえ、西世田谷の多くの住民は我がグループの従業員ですから。お気になさらず。では失礼します」


 区長は龍之介の対応に感謝を述べたようです。


「除雪車の手配も進んでいるか?」


 龍之介は秘書に携帯を返しながら尋ねます。


「はい。ですが、この雪は都内全体を麻痺させていますので、空いている除雪車がなかなか……」


 秘書は恐縮して応えました。


「東京は雪に脆過ぎる。これからの課題は自然対策と災害対策だな」


 龍之介は腕組みをして目を閉じました。


「はい」


 秘書は頭を下げて応じました。


 


 龍之介がこれからの東京のあり方を思っていた頃、娘の亜梨沙は庭に積もった雪を見てテンションが上がっていました。


 パンチラ寸前の赤チェックのプリーツスカートと黒のニーハイソックスはそのままですが、靴はローファーではなく、白のスノーブーツ、ターコイズブルーのブレザーの上にはアイボリーホワイトのダウンジャケットを着込んで、手にはブレザーとお揃いの色の毛糸の手袋をはめています。


「おおお!」


 東京は十年ぶりの大雪で、亜梨沙にとって日本で初めての白銀の世界です。


 亜梨沙は幼い時、龍之介の仕事の都合で英国で暮らしていたからです。


「わーい!」


 まるで小学生のように庭を駆け回る亜梨沙ですが、


「お嬢様、危ないですよ」


 黒いロングコートを着込み、黒革の手袋をはめ、黒のスノーブーツを履いたトーマスが現れたので、


「ひ!」


 思わず硬直し、そのまま雪の上に倒れかける亜梨沙です。


「お嬢様!」


 トーマスが素早く動き、雪に埋もれそうになった亜梨沙を抱き上げました。


 滑り込むようにして亜梨沙を救ったトーマスはスノーブーツもロングコートも雪まみれです。


「お嬢様、お怪我はございませんか?」


 トーマスは抱きかかえられたせいで顔を真っ赤にして放心状態の亜梨沙に尋ねます。


 でも亜梨沙は全く反応できません。


「失礼致します」


 亜梨沙の「異変」を察したトーマスは亜梨沙をお姫様抱っこして、そのまま邸の玄関へと歩き出しました。


 猫さんのパンツが丸見えなのはこの際仕方のない事です。


 それを車寄せの柱の陰からキャサリンが見ていました。


「トム……」


 キャサリンの目はまさしく嫉妬する女の目です。


 


 トーマスはロビーのソファに亜梨沙を横にして、客室から毛布を持って来てかけ、ロビーの奥の暖炉に火を入れました。


 そして雪まみれのコートとブーツを車寄せまで戻って落とします。


「トム」


 その時、キャサリンが声をかけました。


「どうした、ケイト?」


 トーマスは雪を払い落としながらキャサリンを見ました。


「どうなの、お嬢様は?」


 キャサリンはチラッと邸の中を見て言いました。


「大丈夫だ。驚いてらっしゃるだけだよ」


 トーマスはキャサリンが亜梨沙の心配をしたのだと思って答えました。


「そうじゃないわ。お嬢様はもう貴方の虜なのではなくて?」


 キャサリンはニヤッとして耳元で囁きます。しかしトーマスは、


「それはどうかな。わからないよ」


 素っ気ないトーマスの返答にキャサリンはムッとしたようです。


「意地悪!」


 キャサリンはトーマスをキッと睨みつけてから、カツカツとヒールの音を響かせて邸に入って行ってしまいました。


「ケイト……」


 困惑した表情で妹の後ろ姿を見送るトーマスです。


 するとそこへやっと硬直が解けた亜梨沙が来ました。まだ顔が火照っています。


「お嬢様、お加減はよろしいのですか?」


 トーマスはキラッと白い歯を輝かせて言いました。


 硬直が解けたばかりの亜梨沙にはそれはかなりの破壊力でしたが、


(連続して倒れる訳には……)


 根性で堪える亜梨沙です。そして、


「うん。さっきはごめんなさい。コートとブーツが汚れちゃったわね」


 トーマスを見ないで詫びます。傍目はためには詫びているようには見えません。


「それはお気になさらずに。お嬢様にお怪我がなくて何よりです」


 トーマスは再び白い歯をキラキラッとさせて言いました。


 それを通りかかったメイド二人が見てしまい、倒れかけました。


 互いに支え合い、何とか歩いて行く二人です。


「お時間もありませんから、学園までお送り致します」


 亜梨沙がハッと我に返ると、すでに車寄せに亜梨沙専用の白のリムジンが乗り付けられていました。


(トムは何者なの?)


 トーマスの素早さに亜梨沙はそう思いました。


 


「有栖川……」


 雪ダルマの後ろに隠れて亜梨沙が通るのを待ち伏せしようとした早乙女小次郎は、亜梨沙がリムジンで学園に向かったのを見かけ、脱力しました。


 そして急に寒くなったのか、セルリアンブルーのブレザーの上に着ている同色の膝まであるロングコートの襟を立てます。


「残念だったな、小次郎」


 親友の高司譲児が慰めます。


 彼も同じくセルリアンブルーのロングコートを着ています。


「ああ……」


 項垂れて歩き出す小次郎ですが、譲児の異変にハッとし、


「そう言えば、お前また髪を染め直したのか?」


 そうなのです。譲児は何故か金髪を黒髪に染めていました。


 髪型も以前のように七三分けで、黒縁眼鏡です。


「ああ、そうだよ」


 譲児は今頃気づいたのか、という顔で応じました。


「どうして?」


 小次郎が尋ねます。しかし譲児は、


「気分転換だよ」


 本当の事を言わない譲児です。


(蘭さんは、トーマスさんが金髪だから好きになった訳じゃないんだ。だから金髪に戻して勝負しても意味がない)


 人は見た目ではないと結論を出した譲児です。


 


 亜梨沙のリムジンが高等部の正門の前に停まると、たちまち黒山の人だかりができました。


 構成比は圧倒的に女子が多いです。


 その中には坂野上麻莉乃先生もいました。


 大きめのファーがついた毛皮のコートを着て、膝丈のスノーブーツを履いています。


(何だか久しぶりだわ、バトラーさん)


 女子生徒に混ざってウキウキしている麻莉乃先生です。


(やっぱり、里見先生の事は気の迷いよ)


 麻莉乃先生は苦笑いしました。


 運転席からトーマスが現れるとどよめきと溜息が起こります。


 トーマスはそれには全く反応する事なく、後部座席のドアを開き、亜梨沙の右手を取って誘導しました。


 それを見て絶叫する女子生徒も数名いましたが、それでもトーマスは無反応です。


「あ」


 麻莉乃先生は蘭が自分を見ているのに気づきます。


(貴女より私の方がトムの事を好きなんだから!)


 蘭は心の中でそう叫んで麻莉乃先生を威嚇しました。


 彼女はシルバーのダウンジャケットを着て、黒の革の手袋、黒のスノーブーツです。


(貴女にだけは負けないわ、桜小路さん)


 麻莉乃先生も蘭を威嚇します。


「ああ!」


 女子生徒の叫びも虚しく、トーマスはリムジンで走り去ってしまいました。


 亜梨沙はトーマスに握られた右手をボンヤリ眺めながら、校庭を歩き出します。


「おはよう、亜梨沙ちゃん」


 トーマスの「魔力」に比較的かかっていない天然娘の桃之木彩乃が声をかけました。


 彼女はピンクのダウンジャケットを着て、ピンクの毛糸の手袋、ピンクのスノーブーツです。


「あ、おはよう、彩乃」


 亜梨沙はハッと我に返り、応じます。


「おはよう、亜梨沙」


 蘭も麻莉乃先生を威嚇するのをやめ、亜梨沙に言いました。


「おはよう、蘭」


 亜梨沙は、彩乃はともかく蘭が本気でトーマス狙いなのをまだ警戒しています。


(貴女より私の方がトムの事を好きなんだから!)


 今度は亜梨沙が蘭を威嚇します。でも蘭は気づいていません。


 


 里見先生は今日から謹慎明けで出勤しましたが、派手な服装を完全に封印し、黒縁眼鏡と黒のパンツスーツ姿です。


「里見先生」


 保健室へ向かう途中で、三年の男子に声をかけられました。


 里見先生はその男子が美術室で女子といけない事をしていたメンバーの一人だったので、ビクッとしました。


「どうしたの、今日は? 随分お利口さんな格好してさ。それに何日か姿が見えなかったけど、具合でも悪かったの?」


 男子はニヤリとして里見先生に近づきます。


「ちょっとね」


 里見先生は関わりたくないので、素っ気なく応じて歩き出します。


「まあいいや。また美術室使いたいから頼むね、先生」


 男子は下卑た笑い顔で言うと、廊下を歩いて行きました。


 里見先生はチラッと振り返りましたが、何も言わずに歩を速めました。


(何だ、今の会話は?)


 里見先生と話すために彼女をつけていた美津瑠木新之助先生は二人の会話を聞いてしまいました。


(どうして美術室の使用を里見先生に頼むんだ?)


 美術室で何が行われているのか知らない新之助先生は首を傾げました。


(あいつ、バカなのか?)


 そう思ってしまう新之助先生です。


 


 亜梨沙は小次郎の襲撃を受けずにすんだので、無事に教室まで辿り着きました。


(今日は早乙女はいないか)


 ホッとする男子達です。とりわけ貧乳至上主義者達は安心しました。


(有栖川さんのお胸を無礼にも触る早乙女許すまじ!)


 互いにアイコンタクトで決意を確かめ合う主義者達です。


 その時、クラスの女子達がざわつきました。


「どうしたのかしら?」


 亜梨沙と話していた彩乃が入って来た男子を見ます。


「あれ、譲児君?」


 彩乃は首を傾げて尋ねます。


「ああ。おはよう、桃之木」


 譲児は黒縁眼鏡をクイッと上げて言いました。その後ろで項垂れている小次郎です。


「高司君、髪の色を戻しちゃったの?」


 亜梨沙も譲児の「変身」に気づき、声をかけました。


「ああ。これの方が落ち着くんだ」


 譲児は苦笑いして席に着きます。


「そうなんだ」


 亜梨沙と彩乃が異口同音に言いました。


 蘭も譲児の「変身」に気づき、驚いていました。


(どうして元に戻してしまったの、譲児君?)


 何となく決まりが悪い蘭です。


(私が酷い事を言ったから?)


 蘭は譲児に言った事を後悔していました。


(あんな言い方をしなくても良かったのに……)


 謝ろうと思う蘭ですが、その一歩を踏み出せません。


「高司君、がっかりね」


 女子達は口々にそう囁き合い、金髪の譲児を取り囲んでいたのが嘘のように彼に近づかなくなりました。


(所詮貴女達はその程度なのよね)


 蘭は譲児から離れた女子達を蔑(さげす)みました。


(そして私はそれ以下……)


 もう少しで泣きそうな蘭です。


「はい、席に着いて」


 麻莉乃先生がやって来て、ホームルームです。


 


 新之助先生は授業の空き時間ができたので、保健室に行ってみる事にしました。


(今日こそ里見先生を問い質す)


 意を決して廊下を歩く新之助先生ですが、


「先生、質問があります」


 錦織瑞穂が現れました。


 黒縁眼鏡をやめてコンタクトレンズにしたようです。


「な、何だ? 先生は忙しいんだが?」


 妙にソワソワする新之助先生です。


 眼鏡を外した瑞穂は新之助先生もドキドキしてしまうほど奇麗でした。


 その瑞穂が積極的で、頻繁に新之助先生に近づいて来るからもうパニック寸前です。


「麻莉乃先生とお約束ですか?」


 瑞穂はニコッとして尋ねますが、目が笑っていません。


(怖い……)


 新之助先生は引きつった顔で、


「ち、違うぞ、保健室に行こうと思っていたんだ」


「里見先生に会いに行くんですか!?」


 今度は目だけでなく、全身で怒りをあらわにする瑞穂です。


「いや、その、誤解だ、違うんだ……」


 新之助先生は狼狽えて言い訳しますが、本当の事は言えません。


(坂野上先生に何かしたのか里見先生を問い質すって言ったら、また怒りそうだ)


 泣き出したい心境の新之助先生です。


(畜生、美津瑠木め、瑞穂と仲良く話しやがって!)


 その様子を廊下の角からこっそり見ている瑞穂のクラスメートの寺泉学です。


 二人は仲良く会話している訳ではないのですが、瑞穂が好きな学にはそう見えるようです。

 

 


 そして下校時です。


 舗道や校庭に積もっていた雪は午後から顔を出した太陽に照らされてすっかり溶けました。


 亜梨沙達はしばらくぶりに揃って学園の正門を出ました。


「蘭ちゃん、今まで随分忙しかったみたいだけど、何があったの?」


 彩乃が尋ねます。


「いろいろとね」


 蘭は苦笑いして応じます。


「最近、蘭の付き合いが悪いから心配してたんだよ」


 亜梨沙が言います。


「ごめんね。でも、今日からはいつも通り、一緒に帰れるから」


 蘭はニコッとして言いました。


(やっとルルがなついてくれたのよ)


 犬嫌い克服のために飼い始めたチワワのルルとようやく普通に接する事ができるようになったのです。


「何かいい事があったんだ、蘭?」


 亜梨沙がニヤリとして突っ込みます。蘭はいつになくギクッとして、


「な、何もないわよ」


「そうかなあ。ねえ、彩乃?」


 亜梨沙は彩乃に同意を求めましたが、


「え、何?」


 全然聞いていませんでした。


「全く、またジョニデの事を思い出してたの?」


 亜梨沙が呆れ顔で言うと、


「うん。ジョニー様と亜梨沙ちゃんのお邸の執事さん、甲乙つけがたいなって思ってたの」


 彩乃はニコッとして言いました。


「え!?」


 亜梨沙と蘭がまさしく同時に叫びました。


(彩乃がトム争奪戦に参戦するの?)


 蘭が警戒の目で彩乃を見ます。


(彩乃、ジョニデに回帰したんじゃなかったの?)


 心の中で血の涙を流しそうな亜梨沙です。


「どうしたの?」


 彩乃は亜梨沙と蘭が叫んだきり黙って自分を見ているので、キョトンとして尋ねました。


「何でもない」


 亜梨沙と蘭は苦笑いしてまた見事にハモりました。


 


 彩乃が妙な事を言ったので、亜梨沙は動揺したまま、邸に帰りました。


(トムがいない?)


 亜梨沙が帰れば、必ず出迎えてくれるトーマスなのですが、彼女が玄関に辿り着いても姿を見せませんでした。


「お帰りなさいませ、お嬢様」


 代わりにキャサリンが出迎えてくれました。


「只今、ケイト」


 亜梨沙はビクッとして応じました。するとキャサリンがスッと亜梨沙に近づき、


「私はトムとは血がつながっていない義理の妹です。ですから貴女とはライバルです。絶対に負けませんから」


「え?」


 亜梨沙が仰天してキャサリンを見た時、すでに彼女は廊下の奥に消えていました。


(貴女より私の方がトムの事を好きなんだから!)


 亜梨沙は心の中で叫びました。

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