第17話 あなたには絶対に負けないんだから!

 有栖川亜梨沙は大富豪である有栖川龍之介の一人娘で、高校二年生です。


 亜梨沙はそれなりに美少女ですが、胸が小さいのを気にしています。


 小さいどころか、えぐれていると思っています。スタイルに関してはかなり悲観的です。


 ですが、男子達の多くは亜梨沙と付き合いたいと密かに願っています。


 そんな亜梨沙の邸に新しく執事が来ました。


 その人の名はトーマス・バトラー。執事の本場である英国の出身です。


 金髪で碧眼。その上イケメンで、亜梨沙は完全に一目惚れしてしまいました。


 でも誰にも言えずにいます。


 ところが、親友の桜小路蘭には見抜かれてしまいました。


 でも、亜梨沙はそれに気づいていません。


 更にそんな亜梨沙に追い討ちをかけるように登場したのが、トーマスの妹のキャサリンです。


 彼女も金髪碧眼の美女で、亜梨沙を動揺させました。


 トーマスの妹なのに、何故かキャサリンをライバル視してしまう亜梨沙です。




 季節は移り変わり、もうすっかり真冬です。


 吐く息も白くなる早朝、里見美玲先生は天照学園高等部の正門をくぐりました。


 短い赤の革製のスカートに黒のストッキングを履き、チェリーピンクの楕円形の眼鏡をかけ、栗色のロングヘアをポニーテールにしている彼女とは程遠い姿です。


 黒のパンツスーツに普通サイズの襟の白のブラウス、眼鏡は長方形の黒縁です。


 髪型はポニーテールですが、普段より低い位置で結わえています。


 顔は心なしか緊張気味で、目がせわしなく動いています。


 まるで肉食動物を警戒する小動物のようです。


「おはようございます、里見先生」


 そんないつもと違う里見先生を出迎えたのは、学園の創始者でもある天照寺妃弥子理事長です。


 シルバーグレイの髪、チャコールグレイのスカートスーツはいつもどおりです。


「お、おはようございます、理事長」


 里見先生は顔を引きつらせて挨拶を返しました。


「緊張しているのね、里見先生?」


 理事長は優しく微笑んで言いました。里見先生は引きつったままで無理に笑顔を作り、


「は、はい」


 理事長はクスッと笑うと、


「噂に聞いたより、貴女はか弱いのかしら?」


「はあ……」


 里見先生は理事長に自分の心を見透かされている気がして、ドキッとしました。


「電話で伝えた通り、今日は貴女が利用した男子生徒のお母様と会ってもらいます」


「はい」


 理事長の言葉に里見先生は背筋を伸ばしました。手の平にじっとりと汗が滲むのがわかります。


「では、参りましょうか」


 理事長はきびすを返して歩き出します。


「はい」


 里見先生は慌てて理事長を追いました。


 


 その頃、高等部でそんなやりとりがされているとは全く思いもしない亜梨沙は、いつものように父の龍之介に行ってらっしゃいのキスをし、トーマス達に見送られて邸の庭を歩きます。


 亜梨沙は、トーマスとキャサリンが小声で話しているのが気になりますが、そのまま歩きます。


(あの二人は兄妹きょうだいなの!)


 しつこいくらいに自分に言い聞かせる亜梨沙です。


 昨日、トーマスと話がしたいと言って邸を訪れた友人の桃之木彩乃が、


「トーマスさんは胸の大きな女の子は好きですか?」


と訊くと、


「いえ、私はそういう事にはこだわりはありません」


 トーマスのその答えに思わずガッツポーズしてしまった亜梨沙でしたが、


(だからって、トムが私の事を好きだという事にはならない)


 そんな悲観的な思いが頭の中を駆け巡り、落ち込みました。


(ケイトも巨乳……)


 ついそんな事にまで反応してしまう亜梨沙です。


 何故そこまでキャサリンを意識してしまうのか?


 亜梨沙にはそれがわかりません。


(何か理由があるとは思えないんだけど……)


 そして、兄妹の気安さからキャサリンがトムに気軽にボディタッチをしているのを見て、羨ましく思っているだけだと考える事にしました。


(ケイトとトムの距離があまりに近いから、嫉妬してるんだ、私)


 亜梨沙は鞄を肩にかけ直して歩みを速めます。


「おはよう、亜梨沙」


「おはよう、亜梨沙ちゃん」


 蘭と彩乃が合流しました。


「おはよう、蘭、彩乃」


 亜梨沙は挨拶を返しながら、蘭の右手の包帯に気づきます。


「蘭、どうしたの、その包帯?」


「ちょっとね」


 蘭はスッと右手を後ろに隠して苦笑いしました。


「蘭ちゃん、教えてくれないのよ、亜梨沙ちゃん」


 彩乃が言いました。


「別にいいじゃない、何でも。大した事じゃないんだから」


 蘭は苦笑いしまままで言いました。


「でも気になるわよね、亜梨沙ちゃん」


 彩乃はどうしても包帯の理由が知りたそうです。


「そうだね。私達、心配だから訊いてるんだよ、蘭」


 亜梨沙は蘭の顔を覗き込むようにして言いました。


「それはありがとうって言っておくけど、教えられないから」


 蘭はそう言うと二人より速く歩き始めます。


(チワワに噛まれたなんて、絶対言えないよ)


 蘭は、犬に慣れるために飼い始めたチワワのルルとの距離を詰めたい一心で、ルルに懐かれようと努力しているのですが、とうとうルルに噛まれてしまったのです。


 幸い傷は浅かったのですが、歯形がくっきりと残ってしまったので、亜梨沙達に気づかれないように包帯を巻いたのです。


(彩乃はともかく、亜梨沙には犬を飼っている事も知られたくない)


 クラスの女子達が卒倒するほどのイケメンになった高司譲児をきっぱりと振り、トーマス狙いに絞った蘭なのです。


 しかし、その蘭も、彩乃がトーマス争奪戦に参戦しそうだという事を知りません。


「おっはよう、有栖川!」


 いつものようにセクハラ魔神の早乙女小次郎が後ろから亜梨沙のお尻を揉みました。


「何するのよ、変態!」


 亜梨沙の強烈な往復ビンタが小次郎に炸裂し、彼はその場に倒れ伏しました。


「バカ!」


 亜梨沙は先を歩く蘭を追い越し、高等部の正門を走ってくぐりました。


「ああん、蘭ちゃん、亜梨沙ちゃん、待ってよお」


 彩乃がテテテと駆け出し、二人を追いかけました。


「蘭さん……」


 譲児がその後から現れ、小次郎を助け起こしながら、歩いて行く蘭の後ろ姿を見ていました。


「あ……」


 その時、譲児は正門の先にある通用門から出て来る母子に気づきます。


(あれは……)


 譲児にはすぐにその二人が誰なのかわかりました。


(母親と来ていたのか? 何があったんだろう?)


 それは蘭を襲った三年男子とその母親でした。


 二人は譲児に気づく事なく、反対方向へと歩き出しました。


「どうしたんだ、譲児?」


 事情を知らない小次郎が尋ねました。


「ああ、いや、何でもないよ」


 譲児は作り笑いをして応じると、小次郎を押して歩き出しました。


 


 一方、里見先生はまだ理事長室にいました。


 黒革張りのソファに小さくなって座っている里見先生です。


 以前の彼女とまるで別人のようになってしまっています。


「貴女がどれほどの事をしてしまったのか、よく理解できましたか、里見先生?」


 理事長は向かいのソファにゆっくりと座り、微笑んで言いました。


「はい。一人の人間の将来を変えるような事をしてしまいました……」


 黒縁眼鏡の奥の奇麗な瞳には、涙がユラユラと溜まっています。


「貴女を解雇するのは簡単です。でも、私はそんな甘い人間ではありませんよ」


 理事長の顔が厳しさを宿しました。里見先生はそれを悟り、顔を上げて背筋を伸ばしました。


 涙が両の目から溢れて眼鏡を伝わり、頬を流れ落ちます。


「貴女には一生を懸けてそれを償ってもらいます。いいですね、里見先生」


 理事長は里見先生をジッと見たままで言いました。


「はい」


 里見先生も理事長を真っ直ぐに見て応えました。


「訴訟はしないとおっしゃってくれたあのお二人に感謝するのは当然の事として、この件を穏便に処理して欲しいと言ってくれた高司譲児君にも感謝しないとね、里見先生」


 理事長はまた微笑んで付け加えました。


「はい、理事長」


 里見先生は眼鏡を外してハンカチで涙を拭いながら言いました。


 


 坂野上麻莉乃先生は、職員室を出て教室に向かいながら、チラッと見かけてしまった里見先生の事を思い出していました。


(里見先生、謹慎が解かれたのかしら?)


 しかし、一緒に歩いていたのは理事長だったので、もっと悪い状況になったのかも知れないと思う麻莉乃先生です。


(私、どうして里見先生の事なんか心配しているの?)


 自分で自分の気持ちがわからなくなる麻莉乃先生です。


 そんな麻莉乃先生を心配そうに見ているのが、美津瑠木新之助先生です。


(麻莉乃先生、元気ないなあ)


 新之助先生は麻莉乃先生と里見先生の間に何があったのかは知りませんが、麻莉乃先生が元気がないのは里見先生のせいだと思っています。


(今日こそ里見先生を問い質そう)


 彼もまた、里見先生が学園に来ているのを見たのでした。


「先生、早くしてください。また授業に遅れるつもりですか?」


 そんな新之助先生をハッとさせる声が聞こえました。


 三年の錦織瑞穂です。


 彼女は新之助先生から逃げるのをやめ、きっちり話をしようと決心したのです。


「に、錦織……」


 むしろ新之助先生の方が狼狽えています。


「ほら、急いで、先生!」


 瑞穂は新之助先生の背中を押しました。


(麻莉乃先生が巨乳で押すなら、私は若さで押すわ!)


 もうすぐ三十路の麻莉乃先生にはないフレッシュさで戦おうと思う瑞穂です。


 そもそも麻莉乃先生は巨乳で押してはいないのですが、瑞穂にとっては仮想敵国同然なのです。


「お、おう……」


 新之助先生は瑞穂に告白同然の事をされたせいで、瑞穂に触れられるのが妙に嬉しい自分に驚きますが、


(振り向いてくれない麻莉乃先生より、俺を見てくれている錦織の方が……)


と思いかけます。しかし、


(いや、それはダメだ! 教師が生徒と付き合うなんて許される事じゃない!)


 年齢は麻莉乃先生の方が上ですが、考え方が古いのは新之助先生の方です。


「美津瑠木、いつかぶっ飛ばす!」


 そんな二人を廊下の角から見ているのが、瑞穂に恋しているクラスメートの寺泉学です。


 学は右手をギュッと握りしめ、新之助先生を睨みました。


 


 譲児は教室に入ると蘭を探しますが、蘭は譲児が自分の方を見ているのに気づくと、ツイと視線を外してしまいます。


 譲児にはそれがショックでした。


(やっぱりあの時のキスは一時的なものだったのか……)


 蘭が襲われているのを助け出した時、首に抱きつかれてされたキスは、お礼にしてはかなり感情が籠っていたと思った譲児なのですが、そうではなかったと思わざるを得ません。


 そんな譲児の気持ちをまるで理解していないクラスの女子達が、雪崩を打って彼に群がりました。


(桜小路さんはやっぱり有栖川さんのお邸の執事さん狙いなのよ)


 ホッとしている女子達です。


「蘭ちゃん、譲児君と喧嘩でもしたのかしら?」


 相変わらず鈍感な彩乃が呟きます。


「違うと思うよ」


 亜梨沙は呆れながら言いました。


(高司君はトムには敵わないけど、相当なイケメンよ。そんな高司君を振って、トムに狙いを定めるなんて、蘭は本気なのね)


 亜梨沙はまた緊急発進指令スクランブルをかけそうです。


(ううう、有栖川……)


 思いとは違う行動をとってしまう小次郎も、悩める十代です。


「はい、皆さん、席に着いて。もう授業始まってますよ」


 麻莉乃先生が入って来て、亜梨沙達の妄想は終了しました。


(貴女には絶対に負けないわ、麻莉乃先生)


 蘭はルルに噛まれた右手を擦りながら、麻莉乃先生を睨みました。


 


 里見先生は理事長室を出て、廊下を歩いていました。


(どうしよう? 理事長は解雇するつもりはないみたいだし……)


 クビならクビでいいと思った里見先生でしたが、状況はそれを許してくれないようです。


(麻莉乃先生……)


 残れるとなると、また麻莉乃先生への思いが高まってくる里見先生です。


「あ」


 里見先生は、廊下の先を歩く瑞穂と新之助先生を見かけました。


(貴方には絶対に負けないわよ、筋肉バカ)


 里見先生は学園に留まる事を決意しました。


 里見先生はそのまま帰ったので、新之助先生は里見先生と話ができませんでした。


 


 そして、下校時になりました。


「じゃあ、急ぐから」


 またしても蘭は授業が終わると逃げるように教室を飛び出して行きました。


「もう、つれないんだから、蘭ちゃんは」


 彩乃がプウッと頬を膨らませます。


(やっぱり桃之木は可愛い)


 それを見て心が揺れる小次郎です。


「帰ろうか、彩乃」


 亜梨沙が鞄を肩にかけて言いました。


(でも、有栖川も捨てがたい)


 根無し草のように揺れ動くどうしようもない小次郎です。


 


 亜梨沙はまた彩乃が邸に寄って行きたいと言い出しはしないかと警戒しましたが、


「今日はジョニデ祭なの」


 いつもの彩乃に戻っていたので、ホッとしました。


(彩乃ったら、トムの良さがわからないのね)


 亜梨沙は思いました。


 他の女子がトーマスに会いたがると気を揉み、気がないとそれはそれでムカつく亜梨沙は完全に意味不明です。


 邸の門をくぐって庭に入ると、十二神将ドーベルマン達が嬉しそうに駆け寄って来ます。


「只今、みんな」


 亜梨沙は彼女達に近寄りましたが、突然十二神将達が怯えたように逃げ出しました。


「え?」


 ふと振り返ると、キャサリンが外から帰って来たところでした。


「お帰りなさいませ、お嬢様」


 キャサリンはトーマスに負けないキラッと歯が光る笑顔で言いました。


「只今、ケイト」


 亜梨沙は十二神将がキャサリンを恐れて逃げたとは思いません。


「今日は数学を復習致しますね、お嬢様」


 キャサリンはニコッとして言いました。


「はい」


 亜梨沙は十二神将とは違った意味でキャサリンが怖いのでした。


(またあのスパルタ?)


 思わず身震いする亜梨沙です。


「では失礼致します」


 キャサリンは亜梨沙にお辞儀をして、庭園の方に歩いて行きました。


(あなたには絶対に負けないんだから!)


 亜梨沙はキャサリンの後ろ姿を見て思いました。


「お帰りなさいませ、お嬢様」


 そこへトーマスが不意打ちのように現れました。


「わ、ト、トム!」


 心の準備ができていなかった亜梨沙は、まともにトーマスの笑顔を見てしまい、気絶しそうになります。


「お嬢様!」


 倒れかけた亜梨沙をトーマスが素早く支えました。


「お加減がお悪いのですか、お嬢様?」


 トーマスに抱きかかえられた亜梨沙は信号も負けるくらい赤くなりました。


「へ、平気だから!」


 亜梨沙は慌ててトーマスの腕から放れ、玄関へと走って行きました。


「お嬢様!」


 心配したトーマスが声をかけますが、亜梨沙は玄関の中に消えました。


「大丈夫のようですね、お嬢様」


 トーマスはキラッと歯を輝かせて呟きました。

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