SnowShine.

箱津瑞幸

SnowShine.

こめかみに浮いた汗が急速に冷えていく。絡めた足の指先は、すでにかじかんだようにぎこちない。いっぽうで俺は、素肌を舐める冷気を拒もうともがいていた。寝返りを打った拍子に、長い髪がひとすじ、俺の頬に貼りついた。それをそっと払うのがくすぐったくて、思わず目を細めた。指先を触れさせるのも、腕を伸ばすのも、もはや物憂い。俺は疲れ切って、眠りの世界へ深く深く落ち込もうとしていた。

それを覚醒の世界へ刹那に引き戻す、か細い声。


問う声に、俺は答えなかった。

もし答えれば、この世界が崩壊していきそうだったから。世界は今、完全なもので完璧に構築されていたから。ひとたび何かすれば、その瞬間に端から壊れていきそうで、怖かったのだ。だから眠るふりをして、なにも返さないで。ただひたすら、寒がる振りをしてその体をやにわに抱きしめた。

息の詰まるような呼吸音がして、彼女もまた、俺の体に腕を回す。

それきり部屋は無音と冷気に満たされて、今度こそ、俺は眠りの世界に落ちた。


愛じゃない。

恋でもない。

情でもない。

ならばなんだというのだろう。

そんな生ぬるいものではない、とだけは説明できるが、ならばこの感情は一体。


俺だけが求めて、甘えて、進みたい道を強いて、それなら、こんなのはただのエゴでしかない。信じてくれと言いたい、一緒にいてくれと求めたい。けれど俺が、彼女の元からいなくならないという約束などできない。

身勝手に過ぎる、けれど俺の本当の、嘘偽りのない気持ちはそういうことだった。


目もくらむような強い光ではない。

たとえるならそれは、夏の黄昏のようなはかなさ。

花曇りの日の、雲から透けて見える太陽のようなおぼろげさ。


けれどそれがなかったなら、俺はどうやって道を歩けというのだろう? 闇に継ぐ闇のようなこの先を、手探りではもう、進むことすらできやしない。

彼女を知って、失ってしまった。

ひとりで暗い夜を歩む、一見孤高のようでいて、実はただのひとりよがりな身勝手さを。淡くおぼろげなその存在は、俺にとって、闇夜を照らし導いてくれる、山の端の月明かりのようなものだった。


俺は今、ひどく怖がっている。

もう二度と、一人では闇夜を進むことができなくなってしまったから。

どんな光よりもやさしくやわらかな灯火を得た今は、真の闇に戻ることなど、できなかったから。だから、俺が失うことを怖れるこの存在は、世に言う「愛情」などという甘ったるく、生やさしいものではない。命の一部分であり、生きる糧であり、この先を生きていくためのひとつの方法だった。


縛ることはできなかった。身も心も、枷をはめることはできなかった。だから追い詰めるでもなく、囲い込むでもなく、俺はただ、祈り、希っていた。たったひとりで、密かに。今までも、きっとこれからも、ずっと。もはや形の無いものへ手を合わせるような、そんなきわめてあやふやで、だからこそ俺にとっては何よりも信じられるものだった。


この思いが、いつまでも変わらず続いていきますようにと。


すべては変わり、流れ、死んでいく。だから俺は、その想いの「延命」を願っていた。いつだって自分の中にある、懼れと、やるせない悲しみを噛みしめながら。感情に嘘はつけない。感覚はこの上なく主観的なものでありながら、すべてを支配する。俺はそれをよく知っていた。だからこそ、俺の中の「感覚」が変わってしまうことーーこの思いが褪せて消えて行ってしまうことを、何よりも恐れた。


雪が、明るかった。

カーテンを引いた隙間から洩れる光は、確かに夜明け前のものだった。

喉が渇いて、俺はそっとベッドから抜け出した。


彼女はやさしい寝息を立てながら、眠っている。

少しだけ、安心した。


夜明けはまだ、ずいぶんと遅い。時刻自体は変わらず朝を残酷に示すが、この時期の夜明けは遅い。このまま夜が明けないかと、微かに不安になるほどだ。

閉ざされたような頑として冷たい空気と、あらゆる音を吸い込んで静まりかえる街並み。どろりと粘度の高い夜空。


それでも雪があれば、救われたような気分になる。月など出なくとも、その白さがわずかな明かりさえも反射して、路を明るくしてくれるから。

夜明け前の空から、もったりと重たい牡丹雪が降ってくる。降り積もる雪が、路上をまた新しく染めていく。この光景を眺めることの安堵感は、いったい何だろう。清廉な白であり、鮮烈な冷たさをかたどった冬の天恵。この地には何よりも深く、親しみ深い存在だ。


ああ。

まるで、それは。

暗闇を包みこむように匂い立つそれは。


そっと目を閉じると、雪明かりが瞼の裏にまでにじんでいた。


容赦なく肌を切りつける烈しさも、無音の武骨さも、今は、ただ。

俺にとっては安寧の終着点のような気がしてならなかった。

ここにいて、俺は生きて、死んでいく。間違っていなかったと思える。


雪の中で今、街は沈み、夜明けが確かに来るとは言い切れず、けれど俺はそれでもここにいることの安寧を想う。


そして強く感じている。彼女は、俺にとって雪のようなものだったのだと。眠りのただ中にいることを明確に示す安らかな顔を眺めながら、その思いを深く深く、噛みしめた。雪は烈しく、けれど確かに静謐に充ちていた。それはいつまでも変わらないだろう。俺が変わっても、雪は変わることなく、俺に降り積もり、俺の行く先を照らすのだろう。


その貴さはきっと何物にも代えがたい。他で得ることのできないもの。

代わりのないもの——。

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SnowShine. 箱津瑞幸 @misaki_baco2

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