追憶編
そうして私は五十年近くを、レティーシア様と名乗ったその人の元で魔道の教えを授かった。
レティーシア様は天使ではなくて吸血鬼と名乗っていたわね。でも、私にとっては天使様に違いはないのだから、些細なことでしたわ。
魔道を教えていただいた五十年は血反吐を吐くような、いいえ。文字通りに血反吐を撒き散らす毎日だったかしら。
今思えば私はきっと天才だったのだと思う。レティーシア様が「魔道だけの才能なら妾をも越えているであろうよ」と、おっしゃっていたのだもの。
ああ、勘違いしないでね? 魔道の才能なんて、ようは習得の速さだとか操る術に長けるだけなのよ。
それを活かすには膨大な知識と、それを扱う下地がなければ無意味も同然。
数千年もの間私は今まで魔道一筋で来たけれど、それでもレティーシア様には及ばない。
その深淵を覗き込めば覗くほど、レティーシア様がどれだけ深くその深淵に身を浸していらっしゃるのかを痛感するばかり。
習い始めのときはそれが悔しくて、無理もいっぱいしたわ。
その度に教えてくれたのが、“深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ”という言葉だった。
当時はよく分からなかったけれど、今なら分かる。魔道とは諸刃の剣。その強大な力は、一度手綱を手放せば一瞬で自身を飲み込んでしまう、そんな魔獣に等しき危険な力なのだと。
そうして五十年で私は呆気なく人の領域を飛び越えた。
文字通り“越えた”のよ。老いた体はレティーシア様と出会った日にまで若返り、脆弱な肉体と魂はより強固なものへと変化し、精神はそれに見合ったものへと昇華する。
口ではとても言い表せない感覚だったわ。まるで狭い檻から解き放たれたかのような解放感。世界はこんなにも小さかったのかと錯覚してしまいそうな、そんな万能感。
後で聞いた話しでは存在としての格が昇格したのだと教えて下さったわ。
そして私はその力でもって、嘗て私を陵辱し、民の多くを屠りさった国に復讐の牙を解き放った――――
私の眼前には憎き国の、その首都の姿があった。周辺諸国を貪欲に飲み込み、肥え太った姿は臭いのない腐臭を漂わせているようにも見える。
力を手に入れた。血反吐を吐き散らした五十年の修行の経て、私は人を越えてアウターへと至った。
寿命と言う楔を引き千切り、人の観念に捕らわれない精神。そして魔神にも匹敵する強大な力。
それら全てが今は私もの。天使様と、そうレティーシア様に言うと眉を顰めてしまうけれど、天使様からのお墨付きでもある、私の実力は。
「さぁ、アリシア。そなたが只人であれば耐えられる筈も無い日々を経て得た力。それを解き放つ日が来たのだ。妾達は天外たる存在者、人の法則など何一つ気にする必要は無い。が、只一つ……復讐者は復讐を果たしたのと同時、また復讐される者へと転じるのを忘れるでない」
轟々と首都の遥か上空、魔術によって宙に静止するアリシアとレティーシア。
復讐の成就を前にレティーシアが口にする言葉。それをアリシアは黙って聞き取る。
「死者は語らぬ。復讐とは所詮それを成す者の自己満足でしかない。ゆえに、今より行われるは
そう言って静かに口を閉じたレティーシアはそれ以降喋る事は無かった……
復讐の成就は決まっている。これは通過儀礼のようなものであり、避けられない結果である。
レティーシアの言葉は歯止めではあらず、心構えを説くに等しい。
すぅっと、アリシアの肺を空気が満たす。今より歌われる魔術は、広範囲“洗脳”魔術。
その本能を解き放ち、理性と言う鎖を風化させ砂とし消し去る禁術――――
「いきます」
瞬間、理性を消し去る魔の歌が首都を包み込んだ。
――縛られた魂への命題として遍く人に問う
――真摯な解を嘲笑せよ悲劇と喜劇の幕よここに
――番犬は主命に従い愚かな侵入者に撲殺される
――王者として君臨せし百獣の王は肉を枯らして平らげて
――子兎は温かな蛇の腹で夢を見つつ親兎を待ち
――陸に上げられた小亀は子供の無邪気によって踏み潰された
――蝉の幼生はその長き時を閉ざされた箱の中で羽化の夢を見る
――生の意味を問う者よ詐欺師の真実に耳を傾けよ
――死の意味を問う者よ聖典の矛盾と事実を理解せよ
――輪廻転生の門は神の怠惰に意味を投げ捨て
――魂を運ぶ死神の真摯な仕事は意味を成さず
――悪魔の知識は狡猾な詐欺師によって奪われる
――人よ生命よ笑って踊って野を駆け唱和せよ
――今やどんな倫理も論理もそなたの前では砂の城
――英雄は屍の頂で今日も賛辞と名誉で笑って酒を飲む
――悪鬼は断罪を求めて今日も聖堂で懺悔の祈りを奉じる
――選定の剣を引き抜きし王は精霊と共に涙で剣を濡らし
――妻を取り戻そうとした吟遊詩人は約束を違えて水泡と帰す
――生を受けし赤子は誰に知られる事無く冥府へと舞い戻る
――人よこの祝福の賛歌を聞け善と悪の無価値を耳として
――その紡ぎし生は剣と武の本質によってのみ意味を成そう
――生まれし生は剣を取り血と怨嗟で真実を知るだろう
――人よ生命よ笑って踊って野を駆け唱和せよ
――今やどんな倫理も論理もそなたの前では砂の城……
あっと言う間だったわよ? まるでドラゴンが人を踏み潰すような、そんな圧倒的なまでの力の差。
私が肥え、太り、腐敗したその国を滅ぼすのにそう時間は掛からなかった。私が当時歌った魔の歌は首都を包み、理性を失った獣成り下がった者達は、同じ人をまるで餌を見るようなめで襲い掛かった。
あっと言う間に伝播した狂気は一夜で首都を地獄と変え、夜が明ける頃には誰もかれもが屍を晒していた。
目的の一つを達成したあと、私はレティーシア様が描く理想の国の手助けとなるべく奔走する。
それは私にとってもまた悲願であったのだから、なんの問題もなかったわ。
そして、数百年後。私は大いなる国家、“ヴェルクマイスター”の誕生とともに、栄光あるレティーシア様の始まりの七人の眷属として迎い入れられた。
新たな名、トレメール・トゥルース・アリシアとして――――
回想が良いところで終わったとき、私の魔術師としての感覚が素早く空間の揺らぎを察知した。
ドクン、と。心臓が一際大きく鳴り響く。待ちに待ったお方の御帰還である――
「ヴェルクマイスターよ! 妾は帰ってきたぞッ!!」
ああ……姿を現したレティーシア様は吸血鬼。いいえ、吸血姫としての真の姿を遺憾なく発揮していた。
可視化するほどに膨大で、禍々しい程に真紅に染まった魔力光がその御身からゆらゆら立ち上り、漆黒の一対の翼は限界まで広げられ、その美しさに思わず頬が赤くなるのを自覚してしまう。
世界で最も美しい瞳――少なくともそう私は思っている――はすべてが真紅に染まり、解放された威厳(カリスマ)に私の子宮がきゅっと疼くのが分かった。
どうやらレティーシア様は無意識で解放しているらしく、その後の一挙手一投足に目が離せなくなる。
私達七人でそうなのだから、背後の有象無象どもは魂まですら魅了されていることだでしょうね。
その後掛けられた労いのお言葉に再び私の女が疼くのを感じる。
私の返礼がやけに熱ぽかったのは仕方がないわよね。
その後、儀礼的なやりとりが終わったあと家臣団は国へと戻っていった。
最後まで残った私達も名残惜しかったのだけれども、仕方なく戻ろうとしたとき――
「アリシア、一時間後に妾(わらわ)の執務室に来い。そなただけに話しておかねばならぬことがある」
「はっ、はい! 仰せのままに」
その言葉が私の耳に響いた瞬間、思わず声が裏返ってしまったのは許してほしい。
だって、まさか直接お声をかけてもらえるなんて思っていなかったし。ましてや私だけに話しがあるなんて……
謁見の間から立ち去った後、六人全員から羨ましげな言葉や嫌味が飛んできたけれど、私はそのすべてを軽く受け流した。
私の頭にあるのは今からどうやって一時間もの時間を潰そうかと言うことと、どんな服装でお会いすればいいのだろうかの二点のみであった――――
――――コンコン……コンコン……
レティーシアが軍備に関する大まかな指示を出すため、一枚の白紙につらつらと何事かを書き込んでいたとき。
執務室の扉が静かに何者かの来訪を告げた。
「構わぬ、入るがよい」
「失礼いたします。レティーシア様、お呼びに参上致しました」
この時間に来るのは呼んだアリシアのみであろうと、予想をつけていたとおり、扉から姿を現したのは十四~十五歳程の少女。
アリシア本人であった。着ている服装はなにやら気合でも入れてきたのか、彼の世界のゴシックロリータと呼ばれる類のものであり、装飾に使われている宝石や紐からは魔力の波動が感じられる。
その着衣だけであらゆる魔術補助を補佐する一品だと誰が知ろうか。
レティーシアが執務用の机の数歩前、その位置で膝を折って頭を垂れる少女。アリシアに視線を向ける。
「顔を上げるがよい」
「はい」
言われたとおりにアリシアの面が上がる。頭の左右の二本のロールが揺れ、青色の瞳が期待に輝いているのをレティーシアの瞳は捉えた。
さて、どうしたものかと思う。何を思っているのか、どうやら途轍もない期待を寄せられているらしい。
今回告げる内容は確かにアリシアを満足させるだろう。しかし、それが必要かと問われればレティーシアとしてもやや首を傾げざるをえないのだ。
しかし、呼んでしまった今。なんでもないと追い返すのは流石に躊躇われる。
「そなたを呼んだのは向こうの世界でちょっと気になることがあってのことよ。今回とある依頼、クエストと向こうでは呼ばれているものを受けることになったのであるが……その内容がちょっと気がかりなのだ」
「それでその依頼にアリシアを?」
「そう急くでない。別にそなたを代理に立てようという訳ではないのだ。ただ、その内容が時空の歪みに関しての調査であってな。しかも妾の世界でも類を見ない規模らしい。恐らくは人為的な歪みと見て相違ないであろう」
時空の歪みと聞いてアリシアが苦々しげな顔をする。
小さな物でもときに厄介な生物が現れるそれは、魔術レベルの高いことから時折封鎖のために現場に赴くことがあるアリシアからすれば、あまり聞きたくはない言葉であった。
それもこちらの世界で起こったてきた規模よりずっと大きいと、レティーシアは告げたのだ。
アリシアの脳内では既にその危険性が最大レベルにまで引き上げられていた。
「どうやら理解したようであるな。そう、それ程の規模の歪みを操る相手だ、一筋縄ではいかぬことは目に見えておる。そこで、妾の次に魔術に優れたそなたを保険として随行させることにしたのだ」
「ハッ! 必ずやお役にたってみせます」
「そう構えなくてもよい。あくまで保険程度ゆえな。それと依頼を共にするのは半吸血鬼(ダンピール)であってな、実力はそこそこであろう。これを機に向こうの世界の吸血鬼ともパイプを持ちたい、ゆえに無駄に刺激はしてくれるなよ?」
その言葉にアリシアの表情が少しばかり歪む。この少女はどうも自分の傍に力無き者が侍るのを許せないらしいと、長い付き合いになるレティーシアは察していた。
そしてその思いが嫉妬に近いものであるというのも知っている。魔道という点においてはこのアリシアという真祖の吸血鬼は、レティーシアの愛弟子あるのと同時、娘のようなものなのだ。
もっとも、肌を重ねたこともある仲を母娘と称してよいのかは不明であるのだが。
「……畏まりました」
「まぁそう拗ねるでない。アリシア、そなたが望むならこの先いくらでも妾と道を同じくすることもあろう。妾達こそは始まりから終焉まで見届けし一族なのであるから――」
その言葉にアリシアの頬が緩むが、すぐさま精一杯の精悍さを取り戻す。
といっても、見た目は十四、十五歳の少女である。精々が背伸びをしたという印象は拭えないのが残念であろうか。
レティーシアが一時間で準備を終わらせろと命じれば、戻る時間ももどかしかったのか、態々(わざわざ)転移の魔術を使用してその場から立ち去っていった。
今頃はあたふたと準備しているであろうことを想像して、レティーシアの口元が笑みを形取る。
「レティーシア様、流石に笑ってしまっては失礼かと……」
「ふふ、そうであるな。何、暫く見ておらなんだが、あの娘も変わらぬと思うてな」
それに対して吸血鬼なのですから、そんな僅かな時間で変わられる訳は御座いませんでしょうとエリンシエが述べれば、レティーシアがそうであったなと。
またも面白そうに笑みを浮かべる。それを見てエリンシエの首が不思議そうに傾けられるが、あえて理由を教えずにおく。
レティーシアにとってのこの数ヶ月は、ここ最近の数百年より濃密な時間であった。
己の身を共有している彼の存在や、見知らぬ世界での生活。すべてが斬新で輝きに満ちている。
少なからず己も影響を受けたであろうということは、この過保護な従者に教えることはなかった――――
――――その後、準備を済ませたアリシアを連れ。再び向こうに戻る趣旨をギャンレルに告げ転移。
アリシアがレティーシアの寝室に興奮し、我を忘れれて家捜しした挙句、どこから見つけ出してきたのか下着類まで取り出してきたのには、流石のレティーシアも軽く目眩を覚えたとか覚えなかったとか。
そこで、早朝に迎えに行けばよかったんじゃ? と、思い至り激しい後悔に襲われるのだが、こうなってしまっては致し方あるまいと三人で明日のことを話し会い、これまた仕方なくアリシアと共に床についた。
「さて、それでは学長室に向かうが。アリシア、そなたの身分は?」
「この世界での真祖であらせられるレティーシア様、その御身を守る一族の一人であるアリシア、でありますわよね? 実力は緊急時以外はこの世界の予想される真祖より一段低く、ということで宜しいでしょうか?」
「うむ、それで構わぬ。エリンシエ、今回はそなたを武器として扱うゆえ辛抱してもらうぞ」
「いいえ、本来はこの姿が私の本体なのです。どうぞお気になされませぬように」
エリンシエが魔道書形態のままレティーシアへと返答を返す。
念には念を入れての装備と布陣ではあるが、実際この二人と一冊なら楽にエンデリック学園はおろか、周囲の国を併呑することなど容易いであろう。
アリシアですらその気になれば隕石を生成し、目標地点に落下させる魔術、メテオから、大規模に降らせるメテオレインまで使用出来るのだ。
国崩し程度であれば彼女一人ですら容易く可能である。
「そういえば、アリシア。そなたにこれをやろう」
そう言って何所から取り出したのか、一つの指輪を渡す。
銀と思わしきリングに、漆黒の宝石が嵌められただけの簡素なつくりであったが、アリシアにはそれが宝具クラスの魔道具(マジックアイテム)だと感知できた。
「それを好きな指に嵌めておけ。効果はあらゆる魔法、魔術の使用魔力量の三割減少。使用魔法、魔術の効力一割低下だ」
「さ、三割!? 本当にお借りしてもいいのですか?」
「ん? 貸すとはいっておらぬであろう。そなたにくれてやる、今回の報酬だと思えばよかろう」
その言葉にアリシアの意識が一瞬ふらっと霞む。
明らかにオーバーテクノロジーレベルの魔道具をぽんと、いくら身内とはいえ殆ど無償で渡したのだ、無理からぬことである。
しかもその効力が規格外であるなら尚更であろう。
アリシアの知識では、よくて二割減。しかも条件付きが精々の代物。それでも高レベルのアイテムなのだ。
尤も、渡した装備はゲーム内で“魔力の指輪”と呼ばれた、レア度六の中級者以上なら、誰でも持っている程度のアイテムであるのだが……
「呆けている暇はないぞアリシア」
「は、はい!」
「それでは、何が待つのか楽しみであるが、先ずは学長室へと向かうとしよう――」
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