【3】南方少尉、着任 2

 朝食後、僕らは朝礼に参加すべくぞろぞろと事務棟前に移動した。

 南国の日差しはすでにかなりの熱量を帯びて容赦なく降り注ぎ、高い湿度も僕らを苦しめる。


 急な環境の変化でも、ある程度落ち着いていられたのは、きっと横須賀と同じ、微かな重油の匂いと潮の香りがするからだろう。

 人によっては歓迎しないだろうけど、僕にとっては子供のころから馴染んでいる、港そのものの匂いだ。



 僕は事務棟の日陰で礼服の上着と制帽、白手袋を身につけたけど、その途端礼服はサウナと化し、脳が煮えるのも時間の問題だった。


 早速もうろうとしつつ、事務棟裏の広場にある朝礼台まで移動したけどもうダメ。更にダメ。ダメすぎる。

 視界はうつろになり、何も考えられない。


 朝礼はすでに始まっていて、難しい訓示が耳の右から左へと流しそうめんのように通過していく間、僕は額に流れる汗を何度も帽子を取っては白手袋の甲で拭った。


 ……何の拷問だよ。もう発狂しそう。


『それでは、南方少尉、橘准尉、壇上へどうぞ』


 ――来たー! どうしようどうしよう。


 脈拍数が一気にレッドゾーンへと吹き上がる。


「いくよ」

 みなもが小さく言うと、朦朧としている僕の手をぐいっと引っ張った。

 僕とみなもが手を繋いで壇上に上がると、一斉に拍手が沸き起こった。


(み、みんな僕のこと見てる?)僕はみなもに小声で尋ねた。


(前見ちゃダメ)そう言うなり、みなもは僕の帽子の鍔をぐいっと下げた。


「威、挨拶しろ。さっき教えただろ」

 下の方から難波さんの声がする。


 さっき? 何か言ってたっけ? いやー全く記憶にございません。つかムリ。


(く、くるしい……)


 今度は息が苦しくなってきた。足元もフラついてきた。

 このままじゃ本格的にヤバい。というか、死ぬ。


 僕はなるべく下を見ながら、マイクを手に取った。


『あ……お、おはようございます。南方威……です。こ、この度は、兄がご迷惑をおかけして済みません……でした』


 ギョワ~~っと、バリバリにハウリングを起こすマイク。

 数秒、皆が静まりかえったかと思うと、今度はクスクスと失笑が聞こえてきた。


「いや……あの、そういうのじゃなくてだねぇ、少尉」

 慌てて壇上に昇ってきたおじさんが、僕に耳打ちした。


「でも……」

 だって何言ったらいいか分かんないじゃんか。

 生徒会役員だってやったことないのに。


『バスッ!!』


 意識が飛びそうになった瞬間、みなもが平手で僕の背中を全力でブっ叩いた。


「ぐふぉっ……」僕は呻きと一緒に肺の中の空気を吐き出した。


 衝撃で心臓が肋骨を破って飛び出しそうになり、肺がペタンコになりかけた。

 僕はひどく咽せ、そのおかげで抜けかけた僕の魂はなんとか肉体に戻った。

 お帰り、僕の魂。


「おいおい、お嬢……」と難波さん。


「いいの、これで」堂々とみなもは言い切る。


 これが、僕がこうなっちゃった時の正しい処置。

 それは間違いないんだ。でも痛い。


 会場がざわめいている。当然だ。


『あ、すいません。大したことありませんので……。そ、それでは、今後ともどうぞよろしくお願いします』


 僕はそこまで言い切ると、深くお辞儀をし、お立ち台から飛び降りて逃げるように建物の中へ駆けていった。



 僕は事務棟一階ロビーまで行くと、クッソ重たい上着と帽子と軍刀、そしてシャツをソファの上に脱ぎ捨て、トイレで頭から水をじゃぶじゃぶかぶった。


 冷たい水が僕の脳をクールダウンしてくれる。と同時に、苛立ちと後悔が僕をペタンコにしようとする。


 もうヤダ。


 地元に帰りたい。


 マジ帰りたい。


 兄貴マジ殺す。ぜってぇ殺す。


 びしょ濡れの髪から水を滴らせながら廊下に出ると、みなもが憮然とした顔でタオルを持って待っていた。


「これ。髪、拭きなさい」

「おう」


 僕はみなもからタオルを受け取った。


「まあ……しょうがないけど。私がフォローしといたから」

「ごめん、みなも……」


 着任初日にやらかして、僕の気分は、もうこれ以上ないくらいにさんざんだった。


 ぐったりしながら玄関ロビーのソファで頭を拭いていると、難波さんが渋い顔をしてやってきた。僕のせいで難波さんの立場、悪くなっちゃったかな……。


「難波さん……ごめんなさい」


 僕は難波さんに謝った。これで済むとは思えないけど。


「あ、何のことだ? それよりこれ、お前宛のメッセージだ」


 ……え? 怒ってない? 杞憂だったのか。


 それはそうと、なんだろう?

 難波さんは、やたら折り目のついた紙の切れ端を僕に渡した。


 ――――ッッ!!


 僕は我が目を疑った。


 そして次の瞬間、僕はそれを思いっきり握り潰した。


 頭の血管が膨れあがって、目玉がパンパンになった気がした。そして――――


「……どうしたの? 威」


 頭の中で何かがプツリと切れた。


「く、く、くっそがあああああああああああああああああああああ――――ッッ!」


 僕は叫ぶと同時に、目の前のソファをひっ掴んで入り口にブン投げた。

 ソファはまっすぐ飛んで厚いガラス戸を粉砕し、表に止まっていた車の窓に刺さった。


 大きな物音で、あちこちから人が何事かと集まってきた。


 僕は難波さんに羽交い締めにされて、そして……その先は覚えていない。






 メモにはこう書いてあった。


『威へ 俺は旅に出る。国はお前に任せた』






 ――――琢磨、マジぶっ殺す。

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