謀られた黄昏Ⅰ - Silvery eyes

 第二波が来る気配はない。

 俺はその場からゆっくりと起き上がると、周囲を観察する。

 ただ静寂が支配する空間。粉砕された家具。床には人工的に着色されたカラフルな点が散らばっていた。あれは……薬か?

 冷たい外気が入り込んでくる。壁には巨大な風穴が開き、ぎりぎりのところで建物はその骨組みを保っていた。

 もともと強度には不安のあった建造物の残骸だ。外に出るのは危険だが、崩れるのも時間の問題だろう。

 街の中央部の建物には、地下の空間が残されていたはずだ。彼女だけでもそこへ逃がさなければ。

「リュシュカさん」

 まだ床に伏せたままの彼女に声をかける。彼女はゆっくりと顔を上げ──そのまま身体を起こした。

 蒼ざめた表情。震える声で、俺に訊ねた。

「アニタは?」

 彼女の位置からその扉の向こうは見えない。俺は押し黙り──静かに首を横に振った。

「どいて!」

 予想外の力に押され、『それ』を彼女の視界から遮っていた俺の身体はすこし横にずれた。

「アニタ……?」

 かすれる声。止める間もなく彼女は扉だった場所に駆け寄り、数十キロはある鉄製の分厚いその残骸を片手で床から引き剥がす。

「アニタ」

 彼女は崩れ落ちるようにその場へ座り込んだ。

 俺はしばらくその様子を見つめていたが──そっと近寄り、肩に手を置いた。

 故人には申し訳ないが、今はその死を悼む時間がない。

「建物が崩れるかもしれません。外へ出ましょう」

 彼女はゆっくりと首を左右に振った。

「嫌」

「ここを離れます」

 無理を承知で彼女の傍に屈んでその手を掴む。反射的に引かれる腕。

「だって、アニタが」

「リュシュカさん!」

 俺は強引に彼女の身体を引き寄せると、軽く頬を叩いた。

 大きな瞳。驚きと何かが混ざりあった表情。──怯え。

 俺は叩いた頬に、掌を添える。

「済みません」

 そのまま、動かない彼女を抱き寄せた。

「……マットさん……?」

「お願いします」

 彼女を抱く腕に力をこめる。

「俺は、目の前にいる人を見捨てることだけはできません」

 ……まして、それがあなたであるならば。心の中で、そっと言い添える。

 どのくらいそうしていただろうか。短い時間のはずだが、それはとても長く感じられた。

「──なさい」

 胸許に落ちた震える声で、俺は腕の力を解いた。

「ごめんなさい……」

 俺はゆっくり首を横に振る。

「あなたが謝ることじゃない」

 立ち上がり彼女の手を引くと、頭を臨戦状態に切り替える。

 今の砲撃に使用されたものは、対物ライフルの類か。威力が桁違いではあるが。

 敵がもしこの場所に千人近い人間がいることを知っていて、かつこちらの殲滅を狙っているとしたならば、今の砲撃で全て決せられるとは思っていないだろう。

 この予測が正しいのなら、今度は弾幕の網から逃れた人間を掃討に来る。ここまで包囲を縮めるのに1時間程度はかかるとして……30~40分の間に可能な限りの生存者と合流し、少しでも安全な場所まで誘導しなければ。躊躇している時間はない。

「リュシュカさん」

「はい」

 彼女はかつての同僚だった女性の姿に目を落とし──ベッドの残骸からシーツを引き抜くとその身体にそっとかける。

「──行きましょう」

 そして、今度は俺の目を見てしっかりとそう言った。


 外へ出て、まず今後の行動を打ち合わせることにする。

「リュシュカさんには生存者の確認と誘導をお願いします」

「けど……」

「恐らく襲撃者は『Kitten』がここにいることを知っているんです。ここにいる者達のなかで一番の脅威──あいつらに合わせてこの攻撃を仕掛けてきた」

 弾倉の数を確認しながら続ける。

「だから一番危険なのはあいつらの許です。そちらには俺が行きます」

 彼女がはっとした顔で俺を見た。

 その顔がゆっくりうつむき……不安そうな表情に変わる。

「分かりました」

「お願いします。気をつけて」

「……マットさんこそ」

「大丈夫ですよ」

 安請け合いに過ぎるかと自嘲気味に思う。だがそのようにしか返事のしようがない。

「あの……」

「はい」

 返事とともに顔を上げた途端──

「あの、私……あとでマットさんに訊ねたいこととか言いたいこととか山のようにありますから」

 大きな瞳が俺を睨みつけていた。

「だから、その──戻ってこなきゃだめですから」

 それだけを言うと、彼女は街の中央へと走り出す。

 一瞬呆気にとられ──

「はい」

 敬礼して、俺は宿舎の方へ駆け出した。



   ***



「無様だな」

 ラングが呟く。

「何か仰いましたか、ヘル・ラング」

 近くに座る体格の良い男が問い返す。

 ここは上空1万メートルを周回飛行し続ける巨人航空機の中。AI制御の無人戦闘機40機に守られる、欧州圏の軍事的力の要でありその脅威によって欧州全土を結びつける楔であった。

 ラングの視線は正面にある2つのモニターのうち『空白地帯』と呼称される場所の状況に固定されていた。

「無様だと言った」

 鼻白んだ男の表情に構わず、ラングは言葉を続けた。

「こんな無粋な火器の力を借りねば攻撃すらままならん。レベル4以下のアクセラは、私の理想からかけ離れたクズだ」

「これだけの戦闘能力を持つ兵士をしてあなたは『クズ』と仰るのか?」

 男がその言葉を聞き咎める。

「そうだ。捨て駒に使っていただいて結構だよ。……あと一月あれば、『ゼニスゼア』がロールアウトしていたものを……」

「『ゼニス……』なんです?」

「君には知る権利がない。私はデータを持ち帰れればそれでいい。『例』の準備もあるのだろう? さっさと突入させたまえ」

 意に介する様子もなく、ラングが言い捨てた。男は不快そうにラングを見たが、すぐ近くのオペレータに訊ねる。

「状況開始までは」

「あと5分30秒です」

 腕時計をちらっとみて、男はフロアの下士官に通達する。

「こちらの用意は整った。地上のクーデター部隊に通達せよ」

 動き出す周囲に構わず、ラングはモニターの様子を凝視し続けていた。



 当初『実行者(エグゼキュータ)』開発のイニシアティヴをとっていたのは第一種だった。世界的遺伝子工学の権威であるヴィルヘルム=ミラー博士を顧問に迎え、精力的にその開発を推し進めていた。

 その権威は『ヒュゲルベル実験』と呼称されたある計画の失敗により失われることとなる。

 2年前の7月20日、その実験は開始された。

 code*Aと称されたそれは、ヒトの持つ自己再生能力を極限まで高めることのできるヒト染色体未発現因子『A』の開放にあった。選び抜かれた優秀な素地を持つ験体に『アクセラ・ヴィラス』とよばれる特殊なプログラム・ベクターを植えつけ、DNAを後天的に書き換えることで、ヒトの能力を遥かに超えた兵器としての人類を作り出す──

 験体には『餌』としてヒュゲルベルに集められた政治的難民どもを与え、その成果によりcode*Aは『アロラウワ』に対抗する兵器として量産されていくはずだった。

 しかし験体は誰ひとりとして生き残らなかった。

 後天的にDNAを書き換えられた人間達は理性を失い暴走し、制御できないヒトならざる『何か』へ変貌していた。

 結果、験体の処分は注目すらされていなかった第三種が推し進めるcode*E──『Kitten』に委ねられ、その成功によりイニシアティヴは第三種へと移動する。ヴィルヘルム=ミラー博士の娘と称するあの『人形』が『Kitten』の指揮を行っていたというのだから、皮肉以外の何者でもあるまい。

 権威を失った第一種のメンバーは徐々にその数を減じていくことになる。

 私はそんな第一種に残った一人だった。

 行くあてがなかった訳でもcode*Aに固執した訳でもない。

 私にはかつてのcode*Aを基とし、独自の理論を加えた新たな『アクセラ構想』があったのだ。

 『Kitten』が持つ『特性』と呼ばれる能力は偶然による部分が余りにも大きい。能力を開花できなかったテストタイプは見切りをつけられた時点で『執行者(パニッシャー)』と呼ばれる正体不明のアンチ・ヴィラス・ユニットにより消却される。何百体と作られながら、実用に耐えられるとされたのはわずか7体にすぎない。だが私の『アクセラ構想』なら、優れたモノが生まれる確率こそ同じながら、切り捨てるモノですらこうやって有効に活用できる。どちらがより有益であるかなど、一目瞭然なはずだ。

 『ヒュゲルベル実験』で使用された素体は既に成長する余地のない成人男子だった。だからこそ書き替えられたDNAを受け付けず拒絶反応を起こし、自滅していった。ならばたった一人、厳選した成人前のヒトのDNAの書き替えを行い、生き残った素体をクローニングすればいい。

 こうして、code*A'と名づけられたその計画は開始された。

 強引に推し進め動き出したその内容に人員はさらに淘汰され、第一種にはcode*A'に賛同する若い研究者達だけが残っていくこととなる。

 面子などどうでもいい。ようやく彼女達『アクセラ』が、地を駆け空を舞う日が訪れたのだ。

 見ているがいい。

 この理論だけが『あの存在』に打ち勝てる唯一の真理なのだと、ここで証明してみせる。



「少将」

 地上、首都中央付近の路地裏。

「『ヴァルハラ』より状況開始が伝達されました」

「……わかった」

 連絡する声に携帯電話で返事をしたのは、若い青年将校だった。

 その傍らには、銀髪の少女が一人ボディースーツに身を包み佇む。さらにその周囲には若い兵士達が10数人彼を取り囲むように立っていた。

「0930を持って地上部隊の作戦を開始する。──『理想を我が手に』」

「理想を我が手に」



   ***



 机の上には2枚の写真がむき出しのまま並べられていた。

 アヤはじっとそれを見つめている。

 昨日送られてきた報告メールの中に、ラング博士がリュシィと言い争っていたという旨の記載があった。

 カタリナ=バウアー。彼女は以前からリュシィを敵視している節があった。後からの入局であるにも関わらず昇進を抜かれたということもあるだろうが、それに対してリュシィ自身に何の感慨もないというところが気に障るのだろう。

 仕方がないことだ。リュシィは何も望んでいない。第三種に来たのも、私の要請に応じてくれただけなのだ。

 だからこそ何とかしてやりたいという気持ちはあるのだが、そこで私が口を出せばそれを『ひいき』と感じる者も少なくないだろう。

 普段なら頭痛の種だが、今回のその報告に添えられたデジタルデータに別の価値が見出された。

 純白と見紛うばかりの銀髪と赤い瞳を持つ少女。恐らく先天的な色素欠損──アルビノだろう。手前にいるスーツ姿は第一種のロベール=ラング博士と思われる。

 一緒に並べられたもう一枚の写真には瓜二つの少女。ただしこちらはプラチナブロンドの髪と青い瞳の持ち主だ。

 この写真は第一種で撮影されたものだと言われている。データを採取中なのだろう、白い貫衣をかぶり椅子に腰掛けて何かを待っているような様子だ。

 イーリヤ=リヒテル。ロシアのとある政府機関が長年に渡り秘匿し続けた数少ないcode*Aの手がかりのひとつとされている。

 4年前にその短い生涯を閉じ、先天性の不治の病と引き換えに人ならざる能力を持って生まれたとされた少女──

 アヤは机の受話器を取るとすぐに出た研究員に訊ねる。

「定時連絡は?」

「まだ来ていません」

 眉をひそめる。

「おかしいわね……」

 定時連絡が入ってきたら、すぐ電話を回すように今朝一番でスタッフに周知を行っていた。

 だが6時間ごとに入るはずの定時連絡は予定時間の午前9時を30分すぎた今も入ってきていない。

「催促しますか?」

 訊ね返す研究員に、否と答える。

「私が入れるわ」

 アヤは携帯電話を取り出しボタンを素早く押した。無機質な信号音ののち、『圏外』のメッセージが流れる。

 携帯電話をたたみ、デスクの受話器をとり短縮番号を押す。反応は同じだ。

(──まさか)

 軽く唇を噛み宙をにらみつける。

 アヤは受話器を叩きつけるように戻すと立ち上がった。

 デスクの電話は非常用の衛星回線に繋がっている。それが通じないということは、何らかの強力な通信妨害が行われている可能性が高い。

 廊下に出て、再び携帯電話を取り出し別の番号を押す。

 コール音はしばらく鳴り続け──10コール目で応答が帰ってきた。

「はい」

 しばらく黙り込んだ後、訊ねる。

「……グウェン?」

 沈黙が問いを肯定していた。アヤは息を吐く。

「ということはあのバカはいないのね」

「──アヤちゃんか」

「……お互いいい年なんだから、『ちゃん』はよして」

 いらついたようにアヤが言い捨てる。

「悪い、ついな。あいつも間が悪いな、こんなときに限って……」

「……ほんとに、こんなときに限ってね」

 大きく息を吐く。

「この電話は、あいつに頼まれて預かっている。ということは、何かあったってことなんだな」

「『空白地帯』と連絡が取れなくなったわ。──おそらくここも時間の問題ね」

「あそこには確かヒュゲルベルの生き残りがいたな」

「ええ」

「大事な証拠だ。生き残ってくれればいいんだが」

「生き残ってくれないと困るわ」

 彼は狂言事件まで引き起こして、『こちら側』に確保した身柄だ。

 同時に画策されていた、リュシィを第三種の前線から引き離すという目的が遂行できなかったのは誤算だったが……

「部隊を『空白地帯』とそちらに向かわせる。それまで何とか──」

 警報が鳴る。同時に繋がっていた携帯の通話が不快なノイズとともに切れた。

(──始まったわね)

 アヤは携帯電話をそのまましまい込むと自分のオフィスに戻り、安全用のパッキンのついたスイッチを外す時間も惜しいとばかりに殴りつける。押し込まれたスイッチが小さく鳴った。

「館内全員に告ぐ。状況『C-2』。マニュアルに従い迅速に行動するように。ただし、無理なら抵抗せず投降しなさい。命までは奪われないはずよ。同時に現時刻を以って全職員の解雇を通達します。

 今までありがとう。みんな、死なないで。──以上」

 声を張って一気に言うと、息を吐く。

(襲撃者が人道的措置をとってくれれば、だけど)

 唇を噛む。完全に後手に回った。読み間違えた自分の無能さに吐き気がする。

 『空白地帯』にはKittenがいる。こちらの制圧に要する数十倍の戦力が注ぎ込まれているに違いない。出向いた関係者のほとんどは死ぬ。

 少なくとも私はヴァルハラには行けまい。

 やるせない気持ちを抱えたまま机の引き出しから護身用の銃を懐に入れた。役に立つとも思えないが、気休めくらいにはなるだろう。

「──私も行かなくちゃね」

 アヤは静かに自室を出ると扉を閉め……自らはマニュアルに逆らい、建物の奥へと向かっていった。



   ***



 首都ベルリン。

 会議室の扉が乱暴に押し開かれた。

「……失礼」

 その声で、室内のほぼ全員が振り返る。

 十数人の男性達。

 ざわつき始めた室内を、奥から現れた青年将校の一言が鎮めた。

「なかなか熱中した議論のようで。結構なことです」

「何だね君は」

 入り口付近に座っていた男が誰何する。

「ガードマンは何をしている」

「眠っていますよ。二度と起き上がることもないでしょうが」

 スーツ姿の何人かが途惑った表情を見せ──互いの顔を見合す。

「──フレドリヒ=オットー少将」

 その中から一人の議員が歩み出る。

「……祖父の名をかって英雄気取りか。残念だが、我々は安っぽい理想に酔う若造共の言いなりになるほど脆弱ではない」

「さすが、国を動かす者の気概はそうでなくては」

 薄く笑う青年将校の前に少女が立った。

 歩み出た議員の手首を掴む。

「ですが、抵抗は無意味です。──やれ」

 少女の細い手が議員の手首の上を掴み上げる。

 一瞬鼻を突く異臭と閃光。

 次の瞬間、議員の手は肘から下が無くなっていた。

 会議室に絶叫が響き渡る。男は失われた自身の腕を押さえ、転げまわる。室内にいた他の人間は凍りついたようにその少女の手許を凝視している。

 少女の指先が鈍く光っていた。

「……何をした……?」

 静寂を上ずった声が破る。

「あなたは抵抗しないのですか?」

 少将はうっすらと笑った。

「別に止めはしませんよ」

「答える気はないということか」

「言ったところで、あなたたちに何ができるとも思えません。──それに私は臆病者ですから、手の内をさらすようなことはしませんよ」

 その背後で、秘書と思しき男が奥にいる一人に耳打ちした。

「第三種、繋がりません。通信妨害です」

 失意が伝播する。

「──仕方あるまい。我々も投降しよう」

 中心人物とおぼしき人物が苦渋の表情で宣言した。



   ***



 そこから数キロ離れたとある場所。その少女は白い息を吐きながら堅牢なゲートの傍に立っていた。

「見つけた」

 第三種研究所正門前。

 癖の強い赤毛のショートカット、眼鏡の向こうから覗く大きな瞳は幼さを残しながらも知性の高さを伺わせる光を宿している。

「着いたよ、『ベリファ』」

 彼女は後ろを振り返った。

 キィ……と声とも金属の軋みともつかない音がする。分厚い帆布のようなものをかぶった巨人が彼女の後ろにつき従っていた。

「ここで待機」

 毅然とした声で命令すると、巨人はその言葉に従うように動きを止める。

 彼女は正門を入ると、ガラス張りの玄関を覗き込む。

「誰か、いませんか」

 ロビーと思わしき空間にその声は小さくこだまして消えた。

「おかしいな……今日だったはずだけど」

 彼女は胸ポケットから携帯端末を取り出し、スケジュールを確認する。

 じっと小さな画面を凝視し、蓋を閉じる。

「仮に僕のメモがミスだったにしても、人の気配が全くないのは少しおかしい。……静かすぎる」

 彼女は巨人の許へ戻る。そして。

「『ベリファ』、来い」

 叫ぶと再びゲートへと走り出す。

 巨人は軽くその身を震わせると、無数のモーター音を響かせながら少女の後ろを追うようにゆっくりと動き出した。



 人気のない廊下を、あたりを見回しながら歩く。

 少女と『ベリファ』の足音だけが通路に響いていた。空気中に混じる微かな鉄錆めいた匂いが彼女の精神に爪を立てる。

「……止まれ『ベリファ』」

 軋んだモーター音が静止すると静寂はその色を更に濃くにじませる。

 少女は自分も立ち止まり、耳を澄ました。

 遠く──いや建造物の奥で乾いた破裂音がする。

 軽く眉をひそめると少女は音のするほうへ足を進めた。巨体が後ろに従う。

 角を曲がったとたん、靴の爪先が何かにひっかかった。

 少女はその障害物を凝視する。

 鉄錆の匂いをより濃くまとったそれは、壁にもたれかかった女性だった。手には何も持たず、頭上の壁には赤く描かれた複数の直線。

「……嫌いだな」

 言葉は自然に唇から零れた。

 いつだって僕らは理不尽を押しつけられ、踏みにじられる。

「『ベリファ』、行くよ。……そこで眠ってる人は踏まないようにね」

 命じながら少女は進行方向をきっと見つめる。

 その先には二度と目覚めぬ人々の姿がオブジェさながらに連なっていた。



   ***



 俺と子供達が寝泊りしていた建物は寝床があった1階部分が破壊され、2階部分の形をぎりぎり残したまま下に沈みこんでいた。

 子供達は一旦建物の瓦礫の中に埋もれたが、自力で抜け出したと言っていた。

 どうやって抜け出したかは、時間がないこともあって訊いていない。とりあえず他のメンバーと合流することが先決と考えたのだ。

 中央の地下空間へ戻ってくると、中では討論の真っ最中だった。

「先刻の攻撃で機材のほとんどが損壊させられたわ。いったいどうやって……」

 片方は確かカタリナと名乗った女性。もう片方はリュシュカさんだ。

「以前から考えていたことがあります。この理論が正しければ──」

「机上の空論だわ!」

「──あの」

 俺は先に子供達を入れると、そのあとを続くように階段を降り……リュシュカさんに声をかけた。

「……マットさん!」

 リュシュカさんが振り向く。

 カタリナ嬢の言葉がそれを止めようとするかのようにかぶさった。

「話はまだ終わってないわ。あなた、その考えが正しくって、ここに生き残ったメンバーがちゃんと生き残れるって保証が出来るの?」

 改めて中にいる人数を数える。ざっと50名強か。

「保証はできません。ですが──」

 リュシュカさんの声は少々弱めだ。

「だったら時間の無駄でしょう。タイムに『盾』を張ってもらって篭城したほうがまだ」

「それこそ無駄だと思いますよ」

「何故!」

 カタリナさんの攻撃的な口調がこちらを向く。

「向こうの思惑が、ここにいる人間の全滅にあるからです」

 俺は再び階段に足をかけた。

「どこへ行くの?」

「ダメ元の抵抗に」

「待ちなさい」

 カタリナ嬢が俺を引き止める。周辺の女性達もざわめき始めた。

「勝手な行動は困るわ」

「そうよ。あなたを雇っているのは第三種、つまり私達なのよ」

 俺は振り返る。

「……やるかやらないか」

 まっすぐ、彼女らを見やる。

「やるなら誰が。──時間の無駄です。全滅したいなら別ですが」

「何を……!」

「このままでは死ぬのを待つだけです。動いても同じかもしれませんが──生き残れるかもしれません」

 言いながら、心の中で苦笑する。

 『無為には死にたくない』──その気持ちが死へと向かう意識に反して、俺を生き永らえさせてきたというのに。

 だが、俺は俺の願いに他人を巻き込むことを許すことができない。

「あなた、何を言っているのか分かっているの……?」

 呆然としたようにカタリナ嬢が言う。

「軍人はそういう生き物ですよ」

 口の端に笑みを浮かべる。

 だが女性達の眼は頑なに俺の言葉を拒否し続けていた。

「わかりました」

 俺は息を吐く。

「あくまでも議論の上というのでしたら、なるべく早く決めてください。──俺はそれまでの間、何とかここを保たせましょう」

 再び発生したざわめきを無視して、俺は再び地下空間の入り口を開け、地上へ出た。

 砂となった瓦礫が風に乗って飛んでくる。風の音の合間に静寂が漂う。

「待ってください」

 背中から聴こえた声に俺は少し慌てて振り返った。

「リュシュカさん……」

 リュシュカさんが子供達を連れ、後ろに立っていた。

「何しているんです!」

「私に考えがあるんです」

「何が……」

「『動けば生き残れるかもしれない』……でも、あなたはその中に自分自身を入れてはいないでしょう?」

 反論しかけた俺を、彼女はまっすぐ見つめる。

「生きるか死ぬかだもの、今更遠慮なんかしないわ」

 返事に窮する俺に、彼女は続けた。

「言ったでしょう? 私はあなたに言いたいことがあるの……だから、勝手に消えられたら困るのよ」

 一歩ずつ、近づく彼女。

「でも今はその話をする時じゃないわ。だから、一緒に生き延びましょう」

「それは……命令ですか?」

 ようやく搾り出した言葉に、彼女が微笑む。

「それがお望みでしたら」

 ああ。──この人は、何となく俺の精神(こころ)の在り方に気づいているのかもしれない。

 敵わないな。俺は苦笑で彼女に応えた。

「──『Kitten』を起動します。あの子達の指揮官に貴方を任命するわ」

 彼女はミントを手招きして呼んだ。そして、俺に手を差し出す。

「マットさん、これからミントにあなたの脳波を登録します」

 差し出された指先に触れる。彼女は微かに笑って、躊躇する俺の手を固く握った。

「ミント」

 彼女の言葉にミントが無言で頷き、彼女の手と俺の手をとる。そのまま軽く目を閉じた。

「……俺は何をすれば」

「目を閉じて。意識を開いて」

「開く……?」

「私達に意識を向けるような感覚で」

 軽く目を閉じる。

「──Shift」

 リュシュカさんの言葉がすっと意識に滑り込む。

 指先から入り込んでくる『熱』が神経を揺さぶりこじ開け、腕を通じて脊髄を蹂躙し全身に行き渡る。

 それは、先程危機を知らせたあの意識に酷似していたように思えた。

 言葉にならない意思が細い流れから暴力的な奔流へ変わる。

「……」

 叫びを上げたくなるほどの不快感。喉にこみ上げる声を抑え込む。体温が途轍もない勢いで上がっていくのがわかる。

 限界だ。──そう思った瞬間。

「……Anfang」

 彼女の次の言葉とともに、その力の奔流は徐々に細くなり──規則正しい力の流れへと変わっていった。

 彼女とミントの手が離れる。

「ミントは彼の指示があるまでこのまま待機」

 頷いたミントの瞳は、普段の深緑を湛えず、ただ無機質な白銀のそれに染まっていた。

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