黒い森Ⅱ - Engage the slaughter girl

 黒く閉ざされた森のほぼ中央にその建物はあった。

 手入れされることもなく、訪問者に勝手に使えとばかりに放置されたかつては瀟洒な雰囲気を持っていたであろうログハウス。

「……」

 だが、その扉は無惨にも打ち砕かれ、煙の匂いを漂わせている。

 ……完全に廃棄された無人の施設だと聞いていたんだがな。

 クレイグは注意深く周囲を調べ、──そして息を吐いた。

 鍵など当然跡形もない。扉があったであろう位置をくぐり──立ち込める匂いに顔をしかめる。

 血と硝煙の匂い。薄い闇の中に転がっている人らしき影を3つ認める。そのうちの一つに近付き──ブーツの先で仰向けに転がした。

 そのままクレイグは屈み込み、その『死体』を観察する。

 背中に弾が貫通した跡はなく、腹部は20cm近くえぐれ──銃弾を打ち込まれたであろう個所が焼け焦げていた。

 抵抗の気配もなく、即死させられている。炸裂弾の類か……しかし。

 対人用低速炸裂弾は殺傷力の高さに反比例し、その内部構造の複雑さから飛距離が出ず貫徹力も極端に低い。効果を確実に上げる為には目標から10m以内に接近使用する必要があり、戦闘という状況における実用度は限りなく零に近い。ただし体の中央部に命中すれば確実に絶命させられるし、四肢のどこかに命中すれば、破壊力に物を言わせ、その部位を確実に体から分断させられる。

 つまりこの死体の『生成者』は、最初から銃撃戦を考慮していないということだ。

 銃弾が確実に命中する至近距離まで発見されずに接敵する自信があるのか……それとも。

 クレイグは立ち上がり、部屋を見渡す。奥まった角の床から微かに零れる光を見つけ、ゆっくり歩み寄った。

 地下に繋がる階段があるのか。

 しばらく息を止め、耳を澄ます。──人の気配がないことを確認するとクレイグはおもむろにその階段を下り始める。

 高さにして2階分ほどの距離を降りると行く手を遮るように存在する扉と対面した。

 ログハウスに似つかわしくない、油圧ロックされた耐圧扉。そこに取り付けられた開放鍵は指紋認証のようだった。

 扉の先に進む方法を思案し……ふと、床に転がっているある物体に気がつく。

 ちぎれた人間の腕。恐らく外の兵士を瞬殺した何者かが扉を開放するのに死体から拝借したものだろう。

 クレイグはその腕をじっと見つめ──

「……悪いな」

 一人ごちるように言うとその腕を拾い上げ、認証センサーに人差し指を押しあてた。

 油圧シリンダーの駆動音と共に左右に開放される扉。

 その先には人間の死体が道なりに点在していた。



   ***



 ゆっくりと、量産された死体を手がかりにして廊下を進んでいく。

 廊下を何度か曲がるうちに、鋭敏な聴覚が同方向を先行する足音を捕らえた。時折乾いた破裂音がそのなかに混じる。

 足音は思ったより軽い──『襲撃者』はかなりの小柄らしい。いや小柄と言うより、これは──

 クレイグは進む速度を速め、『襲撃者』との距離を縮めていく。

 『襲撃者』の進むテンポは変わらない。クレイグが跡を追っていることに気付いていないようだ。足音と破裂音は徐々にその音量を増し──

 廊下の突き当たりの角をまがると、『襲撃者』の姿が目に飛び込む。

 はっとしたように振り向き、銃を向ける『襲撃者』。ほぼ同時にクレイグも銃を『襲撃者』に向け──

 瞬間息を呑む。……その姿は10歳にも満たないであろう少女のものであったから。

 その僅かな隙を少女は逃さない。無表情のまま彼に向けた銃の引き金を引く。

 クレイグの意識は呆然としたままだ。だが、彼の本能とでも呼ぶべき戦場における動体反射は表層意識とは別に身体を恐るべき速度で旋回させ銃弾を避けさせる──その勢いを殺さず少女に接近し、同時にその少女の手にはあまりに巨大すぎる銃に向け人間に頚椎を一撃で粉砕できるほどの速度をもって手刀を叩き込む。

 銃は少女の手を離れる。クレイグはそのままもう一方の左手で少女の手首を掴む。

 床に低い音を響かせ落下する銃。その音から推測される重量は──7~8kg。クレイグは少女の持つ銃が尋常なものでないと悟る。

「……やめておけ。俺にその気がなくても、銃を向ける相手には条件反射で反撃しちまう」

 クレイグは掴んだ手首をそのまま垂直に持ち上げる。少女の身体は簡単に宙に浮いた。

 瞬間少女は白銀の縦長に伸びた瞳孔をきっと見開き、身をひねり空いていた手でクレイグの腕を掴む。そのまま身体を上方に回転させ、クレイグの頚椎に恐るべき速度で蹴りを入れる。が、その一撃さえもクレイグの右腕がその速度さえ凌駕する神速をもって受け止めた。だが。

 ……何て蹴りだ──その強烈な力に顔をしかめる。

 骨の表層を砕かれたか。袖の内側には至近距離でのパラペラム弾の直撃さえ止めるプロテクターを仕込んであるというのに。

 少女はその隙を逃さず自らの背中に手を回し引き抜く。再び現れた手には先ほど弾いた物と瓜二つの巨大で禍々しい銃が握られていた。

 こいつ !?

 クレイグは掴んでいた少女の身体を壁面に向かって咄嗟に放り投げた。

 そのまま壁に叩き付けられる直前──少女は身体を回転させた。

 人間にはなしえない獣のような動きで壁に蹴りを入れ、身体の跳ねる方向を変えその体勢からクレイグに向かって銃をポイントする。

 だが、その時既にクレイグの銃の焦点は少女に合わせられ──引き金は絞られていた。

 少女の目が大きく見開かれた。クレイグは我に帰る。

 ──少女の身体はまだ中空にある。彼女はその弾を『避けられない』──

 少女の身体に銃弾が接近する──と。

「危ないですね……子供に本気を出しちゃいけませんよ、大尉殿」

 いつの間にか、書生風の青年が少女の身体を抱きかかえるように立っていた。銃弾は少女がいたはずの壁面に突き刺さり停止していた。

 だが、クレイグは咄嗟に叫ぶ。

「──よけろ ! 」

 ……鈍く、耳障りな音が鳴り響く。少女が自分の身体を抱きかかえた青年の腕を軸に、逆上がりの要領で首筋に蹴りを入れたのだ。

 青年の身体が壁に叩き付けられる。その隙に少女は青年の腕を脱し、クレイグに再び銃の狙いを定め──躊躇する。

「!!」

 クレイグが壁にもたれかかった青年──アルフレッド=ジーリングの傍に駆け寄っていた。あの音は間違いなく首の骨が折れた。この少女の力を考えれば、絶対に助からない。

「……あいたた、た」

 だが、その予想はジーリングの気の抜けたような声で覆された。

「……」

「ひどいな、助けてあげたつもりなんですがね」

 苦笑いしながらジーリングがゆっくり身体を起こす。

「……お前」

 クレイグは呆然として呟く。

「何とも……ないのか」

「そりゃ痛いですよ」

 ぬけぬけと答えたジーリングに、クレイグは掴みかかる。

「いや、今確かに首の骨が折れたはずだ。生きていられるわけが……」

「気のせいでしょう。首の骨を折られて生きている人間なんていませんよ」

 わざとらしく首をさすりながら、ジーリングは立ち上がった。

 クレイグは息を吐き──微笑うジーリングの襟元を突き放す。

「……貴様、魔法遣いじゃなくて不死者だったのか」

 ジーリングは肩をすくめて。

「さり気なくひどいこといいますね、大尉殿」

「貴様には言いたい事が山のようにあるんだがな」

「──貴方達、一体何なの」

 クレイグとジーリングは少女の声に視線を遣る。

 少女は床にぺたんと座り込んでいた。

 手に持った銃は標的を定めず、床に銃口を向けたまま──2人を見上げるその眼は白銀のそれでなく、柔らかい茶色に変わっていた。

「何だと言われてもな……」

「まあ、不法侵入者みたいなものです」

「……お前な」

「何か間違いましたか?」

「……いや」

 少女はそんな2人のやり取りをおとなしく聞いていたが、

「仕事があるの。だから……」

 立ち上がり、スカートの裾をはたく。

「『仕事』?」

 クレイグはその少女の言葉に違和感を覚えた。

「仕事。なのに貴方達が邪魔をするから」

「……別に俺はお前の邪魔をしに来た訳じゃない」

 その返事に少女の眼が丸くなり──表情が歳相応のそれに変わる。

「銃を向けたくせに」

「お前の方が先だったろうが。正当防衛だ」

 素直な問いに、クレイグは居丈高に答えた。

「お前の用事も何者なのかも知らん。俺は俺の用事でここに来た」

「……そう」

 クレイグの言葉を聞いて、少女の表情がふっと柔らかくなる。

「なら、貴方達は殺さなくていいんだわ」

 安堵を含んだ瞳は──とてもこれまでの『死体の量産者』とは思えないほど穏やかだった。

「ちっ、やりにくいな」

 クレイグはぼそっと呟き──

「おい」

 再び少女に向き直った。

「何?」

 クレイグは少女から叩き落した銃を拾い──単刀直入に訊ねる。

「このバカでかい銃。堅気のもんじゃねーな。どこで手に入れた」

 少女は押し黙る。

「おい」

 沈黙を続ける少女に、クレイグは詰め寄る。

「──答えるつもりがないんなら、こっちにも考えがあるん」

「銃ってそもそも堅気なんですかね」

 それまでクレイグと少女の会話を傍観していたジーリングが口をはさんだ。

「黙れ魔法使い」

 水を差されてクレイグが背後を睨みつける。

「俺は、そこのお嬢ちゃんに聞いてるんだ。……どうなんだ」

「……あなたもそもそも『カタギ』なのかしら」

 問いに問いで返した少女の言葉にクレイグは言葉を失い──頭を抱える。

「……こいつ」

 二人の様子を見て、ジーリングが思わず吹き出した。

「一本取られちゃいましたね」

「──もういい」

 クレイグは大仰に息を吐く。

「……ねえ」

 少女が口を開いた。

「何だ」

「私も、聞いていい?」

 クレイグは怪訝そうに、ジーリングは興味深げに少女を見つめる。

 少女は自分の正面にいる男2人をまっすぐに見上げて訊ねた。

「……私って、弱い?」

 クレイグとジーリングはお互いの顔を見合わせ──交互に答える。

「化け物だな」

「非常識なくらいに」

 少女はそのまま2人の顔を見つめていたが……やがて溜息と共にぽつりと呟いた。

「貴方達に言われても説得力がないわ」

 そのままくるっと後ろを向く。

「……おい」

 少女は駆け出した足を止め──クレイグのほうを振り向いた。

「まだ、用があるの?」

「そう急ぐなって」

「言ったでしょ。時間がないの」

「一休みするくらいの時間はあるだろ」

 クレイグは少女に拾った銃を差し出してにやっと笑った。

「お前の仕事を手伝ってやる。だから、お前も俺の仕事を手伝え」

「……手伝いなんかいらない」

「まぁそういうな。お前のターゲットは『人間』だろ。……俺のは『モノ』だから」

「……」

 クレイグはその場に座り込んで少女に視線を近づけて訊ねる。

「聞かせろよ。──お前の標的は誰だ?」

 無論素直に答えると思って訊ねた訳ではない。だが。

「……『グスタフ=ボッシュ』という人」

 その名前はすんなりと少女の口から紡ぎ出された。

 ──ターゲットに対する秘守義務はないということなのか。

 色々な思惑が頭をよぎったが、それについて顔には出さず、

「そう言うことか。……道理で」

 残りの弾倉の確認を行ないながら、クレイグが呟いた。

「グスタフ=ボッシュがここにいるのか」

「……誰なんですか」

「軍の情報局の幹部の1人だ。正体は『蝙蝠』だがな」

「『蝙蝠』?」

 きょとんとした顔で少女が聞き返し──少し困ったように言う。

「分かるように言って」

「嬢ちゃんは『蝙蝠』は知ってるか?」

「……哺乳綱翼手目の総称で」

「生物図鑑みたいな回答だな」

 言いかけた少女の言葉を制止して、クレイグは言葉を継ぐ。

「ネズミにも似てるし鳥にも似てる。古巣にいれば味方の振りをして鳥のそばにいる時はそちらに愛想を振る」

「……スパイ行為ですか」

 ジーリングの言葉にクレイグは頷いた。

「最終的にはネズミのそばにも鳥のそばにもいられなくなったということだ。……ただこいつが」

 とクレイグは少女を指さして言う。

「こいつが殺した連中はそんなこと知らされちゃいないだろうがな」

 ジーリングが納得したように頷く。

「……どうして貴方達にそんなことがわかるの?」

 ただ一人少女が得心が行かないのか、途惑った表情のまま訊ねる。

「国の庇護の許ぬくぬくとしている腰抜け共だからさ。──だからこそ自分の保身には熱心だ。奴がやらかした事実を知っていれば、大人しくついてくる訳がない。恐らくこいつらはボッシュが適当に捏造した命令に、ただ部下としてついてきただけだろう」

「つまり私が殺した人間達は、何も知らされていないのね」

 少女の瞳が微かに曇る。そんな彼女の様子をジーリングはじっと見つめていたが……やがてクレイグのほうを振り返り訊ねた。

「──この国の軍に何か思う処があるようですが?」

「奴らとは確執がある」

 廊下の向こうを見やり、クレイグはいまいましそうに言葉を吐く。

「優秀な部下が何人も殺されている。奴らの無能さと、利己の為に」

「……」

「戦争を生業にしている以上俺にも部下達にも覚悟はある。だが……『ヒュゲルベル』の件は許し難い」

「『ヒュゲルベル』……」

「『消えた戦役』だ。──あまりにも不自然過ぎた」

 クレイグは息を吐く。

「仇をとるとか、そういう訳じゃないが──事がグレーになっているのはどうも戴けない。生存者を取り込んだりはしてみたが、2年経った今も何が起こったのかははっきりしない」

「……」

「ボッシュはその作戦の支持者の1人だ」

 身構える少女。その様子を横目で見て、クレイグは苦笑した。

「そう怖い顔するなって。お前の獲物を横取りする気はねぇよ。……ボッシュも単なる駒の1つに過ぎない」

「どうしてそう断定できるんです?」

 興味深げにジーリングが訊く。

「どう考えても軍だけではなしえない『何か』を行なっていたからだ」

「……」

「死んだ部下達の死体を秘密裏に回収し、検死を行なった」

 しばしの沈黙ののちクレイグは大きく息を吐いて……言葉を続けた。

「死因は確かに多大な外傷によるものだが──部下達の細胞は、通常の人間のそれとは全く違うものに変質していたのさ」



   ***



 ジンジャーがこの場所を発ってから数時間後。

 俺は今後の訓練の予定について話し合うためにカフェテリアでリュシュカさんを待っていた。

 既に夕食に指定されている時間から3時間程。カフェテリアの中はまばらに人が座っている程度だ。

「ごめんなさい、こんな時間まで」

 やがて現れた彼女は申し訳なさそうに言いながら俺の正面の席に座った。俺は軽く笑って応える。

「いえ、仕事ですから」

 実際、最初は臨時職員として雇われる予定だった俺には覚えなくてはならないことが山のようにあるのだ。

「先に目を通してもらえます?」

 そう言って書類の束を渡された。先頭から順にページを繰る。ざっと目を通し──

「……『ヒュゲルベル』」

 目に止まった地名を、俺は無意識に呟いた。

「……ああ、確か明星草が群生しているので有名な処ですね」

 返ってきた言葉に、意識が深く沈みこむ。

 ──『明星草』。

 頭の中に浮かぶ、風に揺れる白く儚げな野に咲く花。一面に咲き誇り、月光を受けて昏き空に光を跳ね返す。

 やたらと大きく聴こえる自分の呼吸と動悸。見えない敵に斃されていく仲間。白い花びらに降りかかる赤。

 目の前を覆う紅色のフィルター──

「……マットさん?」

 唐突に侵入してきた声に、意識を強引に戻される。

 途惑ったように俺を見つめている彼女。

「──すいません」

 脳に浮かぶ映像を懸命に追い払う。……あの記憶に触れるモノは、未だに俺の精神を切り刻む。

「大丈夫ですか? 顔色が」

「ええ」

 そうは伝えたものの、浮かんだ映像は生半には脳の視界からは離れない。

 彼女は心配そうに俺の顔を覗き込んでいたが──いきなり机に広げていた書類をかき集めた。 そのまま書類を抱えると机のこちら側へ廻ってきて、俺の手首を無造作にとる。

 予測し得ないその行動に、つい反射的に腕をひいた。

「……あ」

 軽く驚いたような彼女の顔。

「すいません……あの、大丈夫ですから」

 罪悪感を感じ──咄嗟に謝った瞬間。

「こら」

 細い指が俺の額を軽く突ついた。

「……」

 呆然と目の前の彼女を見つめる。彼女は微笑って──

「ごめんなさい。……でもその様子じゃ『大丈夫』とか言われても信用できないです」

「いや……ですが……」

 そんな俺の言い分を聞いているのかいないのか、彼女は再び手首をとる。

「たまにはお姉さんの言うことも聞くものですよ、マティアス君」

 悪戯っ子のような笑顔で握る彼女の手の力は意外に強く──いや、実際にはそれほど強くなかったのかもしれないが、その時の俺は抵抗らしい抵抗もせず、リュシュカ=ミラーという女性の望むままに従おうと思ったのだ。

 放心……していたのだろうか。

 その時見せた彼女の笑顔は、きっと『本物』であっただろうから。



   ***



「そこに座っててください、すぐ戻りますから」

 それだけ言って、彼女──リュシュカさんは部屋を出て行った。

 連れてこられたのは、ラボの職員の建物の一室だった。

 勧められたはいいものの、ベッドにすぐに腰掛けるのも躊躇われて……俺はその部屋をぐるっと見回した。

 左右対称に配置されている壁際に寄せられたベッドと小さい机。だが片方のセットは使われていないようだ。

「……あら」

 扉の開く音。

「『座っててください』って言ったのに」

「すいません」

「顔色まだ良くなってませんよ……きゃ?」

 こちらに向かってきた彼女の身体が唐突によろけた。

「あぶな……」

 俺は反射的に彼女の身体を受け止める。その身体を抱きかかえた状態で後ろに倒れ込み──目の前に火花が散った。

 彼女の身体を抱えたままベッドの上で肘をついて身体を支えたものの、その向こうの壁に頭をぶつけてしまったようだ。

「あたた……」

 自分の頭を無意識にさする。現状を把握するのに少し時間がかかった。

 痛みを訴える声に驚いたのか、彼女が慌てて起き上がる。

「──マットさん、大丈夫ですか!?」

 上から彼女の声がする。

「へ、平気です……」

 眼を開けた途端、合わさる視線。大きな瞳。吸い込まれそうな深い茶色──

 ……俺は唐突に我に帰る。

 まずい。……この姿勢は非常にまずい。

 同時に彼女もそれに気がついたのか、慌てて身体を離した。

「ご、ごめんなさいっ」

「──いえ」

 俺は身体を起こす。

 彼女は脱げたヒールを拾って履いた。

 ああ、床の板に踵がはさまったのか。室内とはいえもともと廃屋だ。木の床はかなり老朽化している。

「……」

 机のそばに置いてあった小さな椅子。彼女はそれを引いてきて、ベッドの脇に置いた。

 そのまま腰掛けて……小さな声で言う。

「横になっててください」

「しかし」

「顔色悪い上に頭ぶつけたんですから」

「……」

「大人しく言うこと聞きなさい」

 ……その顔がうっすら朱く染まっていたのは多分気のせいではないだろう。強気の言葉は照れ隠しなのだと悟って俺は大人しく靴を脱いで横になった。

 そのまま、目を軽く閉じる。

 正直な処、脳内に浮かんでいた映像は先程頭をぶつけた瞬間に吹っ飛んでしまっていた。

 ……聴こえたかもしれない。

 先程までとは意味の違う、激しい動悸を……聴いていたかもしれない。

 彼女がよろけた瞬間、俺は彼女の身体をかばうために……彼女の頭を抱え込んだ。俺の声に驚いて飛び起きるまで、彼女の頭は俺の胸の上にあって。

 その瞬間の鼻をくすぐる淡い甘い香りと、呼吸と、柔らかい感触に気がついた時──心音が跳ね上がった。



 ──ひやりとした感触を、額に感じる。

 閉じていた瞼を開く。 額に乗せられたものに軽く触れる。……固く絞られたハンカチ。

「……気休めですけど」

 彼女が俺の視線に気がついたのか、こちらを向いて微笑う。



 心の奥底で囁く声が、湧き上がる想いに警告を与える。

 望むな。お前にその資格はない、と。



「有難うございます」

 俺は彼女に笑い返して──再び目を閉じた。

 彼女の視線に微かなくすぐったさを感じながら。



 囁く声に俺は答える。

 ……彼女の笑顔が見たい。そう願うこと自体は罪ではないだろう……?

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