第5話 あの日③
その瞬間の双玉の心持ちを言葉で表すなら、”拍子抜けした”というのが一番近いだろう。と、同時に彼女の中には疑問もわいていた。
すなわち、『何故そのような要件を、人払いしてまで本人に告げる必要があるのか』である。
この時代、
双玉については、その身の上から少々複雑であるが、それでも対外的には、彼女の婚姻の決定権を握るのは、健在である彼女の祖父か、あるいは先ほど
事実、当主の方には、適齢期になる双玉にと、十月の
形式的には父
それどころか、ある程度条件の釣り合った者であれば黙認するといった素振りさえみせていた。
だからこそ、双玉は状元となった楊倩に嫁す夢を持てていたのだ。
もちろん、そのような内情を宰相が把握していた可能性がないとは言えないが、いくら条件が釣り合うと言っても、相手が皇帝となれば流石に事が及ぼす影響の大きさも、範囲も、違いすぎる。
当主も双玉一人の勝手な決定に従うことはないだろう。
双玉にしても、当代の宰相が持ち込んだ話で、当主が彼女の後宮入りを決めたのであればそれを拒むことなどできはしない。
目的は不明だが、もし単純に双玉と二人になることが目的なのだとしても、この話題の選び方はあまりにもまずい。勅命であるならばともかく、内内の打診ならば、水家の立場を考えれば諾否の選択はまだこちらに残されている。本人の一存で決めかねる旨の返答をすれば、双玉は容易にその場を脱し得る。
つまり、宰相はここでわざわざ当主を追い払ってまで双玉と二人の場を作って、この話をする理由が何一つない。
誰だって、少し考えれば無意味だと感じる行動を何故、朱子毅ともあろうものがとったのか。
その疑問が顔に出ていたのかどうか。
「……一介の
「話は最後まで聞け」
相手の思惑はともかく、さっさと宰相の面前から辞そうとした双玉の言葉は途中で打ち切られることになった。
「重要なのはここからだ。お前には、皇帝を篭絡してもらう」
頭蓋の
さて、これで事態が想像を大きく超えて深刻なものであるのが、双方の共通認識となった。
篭絡という言葉は、宰相が、自国の皇帝に対して
ましてそれを、初対面の信が置けるかも分からない小娘に発するなど、気でも触れているのかという所業である。
「……」
双玉は、ただ沈黙した。言葉を発せないほどの衝撃ゆえにではなく、状況を把握できないのに安易に口を開いて、それが致命的な行為となるのを恐れたのである。
「
朱子毅は、先ほどの不遜な態度とは打って変わって真面目な顔をしていた。その言葉には押し隠された熱が感じられる。
「確かに、皇帝とはそれを許された者であるし、皇上のご下命とあらば我々臣は何をおいても、それを果たすのが務めである。けれども、お前はそれに疑問を持たないか?皇帝ならば、何をしてもいいのか?民を守り、民を栄えさせてこその、皇帝ではないのか。それが、天帝より凡界の統治者として遣わされた皇帝たる者の責務ではないのか!後宮にこもり女色に溺れ、政事には無関心。そうかと思えば、民の血により贖われた金子を、気まぐれな我欲の為に湯水のように費やす!おかげで国庫は冷え込むばかりだ。今はまだいい。私を始め、先帝の遺臣が多く、我が朝廷に大きな揺るぎはない。しかし、それもいつまで続くか!」
吼えた宰相は自らが座す椅子の椅囲に拳を叩きつけた。傍らの卓上の茶杯がかたりと倒れる。
「しかしながら、皇上は私どもがいくら諌めても行動を変えようとはなされない。諫言をなした、得がたき忠臣の幾人が、それが元で身の破滅を招いたことか」
悲痛な面持ちでの訴え。朱子毅の噛み締めた唇は色をなくし、握られた拳は小刻みに震えていた。
その姿はまさに国の
「もはや皇上は、われら朝臣の言など聞き入れる耳をもたぬ」
顔を伏せ、血を吐くような声を絞り出す彼の気迫は目をみはるものがあった。
「だからお前が必要なのだ」
勢い良く向けられた瞳は爛々と輝いている。それが明らかに狂気を孕んでいるのを認めて、双玉の背に怖気が走った。唐突に、目の前にいるこの人物が何やら得体の知れぬモノに見えてきていた。そんな彼女を尻目に、宰相は熱に浮かされたように続ける。
「皇帝を篭絡しろ。事が取り返しのつかぬ方へと転がる前に。祥国九千万の全てが今お前の手にかかっている。場面は全て整えてやる。近々、皇上の選花の部隊がこの地にやってくる。全権を持つ宦官には話をつけてある。お前が参加すればあとは良いように取り計らってくれる」
「恐れながら、閣下」
「なんだ」
気づけば一方的に進む話の中で、どうにか流されまいと切り口を探していた双玉は、話の切れ目にやっと口を開く事ができた。
ここが最後の反機と覚悟して、密かに衣装の下の足を踏みしめ、双玉は意を決して、反駁を試みる。
「閣下が我が国の行く末を案じ、民のためにあろうとするのは、その一人として感謝申し上げるところ。ですが、天帝の代行者たる帝王のお考えなど、
朱子毅が先ほどまでまくし立てていた主張は、すこぶる真っ当なものに思える。しかしながら、双玉はあまりにも短時間で印象が二転三転する宰相に違和感を覚えていた。
何より、これに巻き込まれてはならないという強い予感が彼女を支配していた。
「いいや、お前にも、水家の当主にも受ける以外の途はない」
「それに見覚えはあるか」
朱子毅が双玉に投げてよこしたのは、大振りの玉佩。それを灯火に透かして見た双玉は眦を釣り上げた。
「……お爺様に何を」
灯火に透かしてみれば白色の光の中にいくつもの黒点が見えた。間違いなく最上級の
高位の貴人始め、余裕のあるものであれば、佩玉するのがこの国の習わしであるが、それでも、彫玉される題材には一定の制限がある。
神話上の瑞獣などがその例であるが、中でも代表的なのは五霊獣。すなわち、龍、麒麟、鳳凰、天禄、霊亀。
このうち龍は皇帝に付き従うものとされ、龍の意匠はあらゆる品に関して、皇帝のみがこれを用いることができる。
その他の四獣に関しては、玉佩に関してのみ制限され、皇帝がその腹心たる臣に下賜するのに用いるのが習わしだ。
みだりにこれらの瑞獣を使用した場合、その玉匠は両手を切られた上で放逐となる。
禁制品の墨玉に、霊亀の玉佩。
双玉も幼い頃に数度見たきりだが、この玉佩は耀光が先帝に下賜されたものだ。
—–—–—–常に身におび、手放すはずのないものだ。
「何も。今の所はな。刑部の獄にいるだけだ」
「っ。なぜお爺様が捕らえられているのです」
危うく感情に任せて叫びそうになるのを寸でのところで双玉は堪えた。
「なに、実は少し前に、中書省の
朱子毅の話を聞いた双玉は息を飲んだ。朱子毅は軽く言っているが、明らかに、ことはそんな簡単なものではない。
大逆の罪にかかわることだ。
仙を尊び、玉帝を至上とするこの国で、その代行者たる皇帝に逆らうとは、すなわち天に反することに他ならない。
実行はもちろん、未遂でも着手があった時点で、一族郎党連座で公開の斬首刑に処される。さらに悲惨なのは、死骸はまとめて晒され、転生がかなわぬように、呪を施した後、鼠の餌にされることだ。
「さすがに大師ともあろう人が、外敵の誘致をするとは、私も何かの間違いだろうと思う。けれど、事が事だから、念のためにここまで兵を連れて出向いたわけだ。おあつらえ向きに、今日は水家のものが一人残らずここに集っていると聞いたしな。今頃ここはとうに囲まれているぞ。」
「大師は免死の金牌を持っているが、それをお前に使うそうだ。だから、お前だけここに残した。逃げてもいいぞ。よかったな、いい祖父をもって」
「朱子毅!!!」
頭では、もうわかっている。逃げ道などもはや残されていない事を。祖父は謀反を企てることなど絶対にしないし、たとえしていても、そのようにすぐに証拠を押さえられるほど間抜けなやり方はしない。
つまり、その気になれば、朱子毅はいくらでも罪名を捏造できるという事だ。
ならばもう、すべてを救うためには———確かに救ってくれる保証すら実際にはないが———それでも一縷の望みにかけるなら、双玉は朱子毅に従うしかない。
現実味がなさすぎて、時が凍ったようにも思える中、双玉はぐわんぐわんと鳴る耳と、揺れる視界に耐えかねて一歩後退する。へたり込むのを意地でこらえて、一言だけ聞いた。
「なぜ、わたしなの」
激情に駆られた双玉に名を呼び捨てられても、なんとも思っていないように鷹揚に笑っていた朱子毅は簡潔に告げる。
その、朱子毅の顔を、双玉は生涯、忘れる事はないだろう。
「お前が、漣耀光の孫で、水碧生の子だからだ。水双玉」
その瞬間、楊倩の横で花嫁衣装に身を包み、笑いあう、あったはずの未来が黒く塗りつぶされていくのを双玉は幻視した。
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