第4話 あの日②

 来訪の言付けを任せた下男が戻り、扉の中へと促される。単なる伝令であったらしい平氏は、足早にその場を去って行った。向かっていった方向からして、行き先は広間に備えてある隠し部屋だろう、そう、双玉は当たりをつけつつ、しずしずと室内に踏み込んだ。

 

 広間で双玉を待っていたのは、見覚えのない人物だった。

 とはいえ、従伯父おじが上座を明渡あけわたしているのであるから、それなりの立場にある人物だと、双玉は意識を切り替える。それが一呼吸に満たない内にできるのが、水家のむすめだ。望むと望まざるとに関わらず。

従伯父おじさま、従姪めい双玉、参りました。」

「おお、やっと来たか。待ちわびたぞ。朱宰相、こちらが私の従姪めいの双玉です」

 従伯父おじが告げた待ち人の名は、予想以上に大物のものだった。

水碧正すいへきせいが一女、水双玉と申します。」 

 あえて簡潔に述べ、礼をした双玉に、思いのほか、気安い声がかけられた。

「そう畏まらなくて良い、面を上げて下さい」

 よく響く、深みのある落ち着いた声。指示通りに双玉が頭を上げると、宰相と視線がかち合う。ほんの一瞬、宰相の瞳が揺れた。しかし、双玉がそれに違和感を覚える前に、彼は笑顔を顔にのせた。

 かくて、後に祥国全土を巻き込んだ歴史の転換点たる舞台の重要な配役となる二人、最後の宰相———朱子毅と、傾国の妖妃ようひ————水双玉の出会いはここになされた。

 運命は巡り、人の子は踊る。当人達の思惑を複雑に孕んで。


 そんな、後世から振り返えれば史学者垂涎の記録的な出会いであっても、この時点でそれを知る者はなく、従って、特に何事もなく時は進む。


 底の知れない笑みを浮かべ、黙ったまま、とっくりと双玉を眺めていた宰相がやっと口を開いた。

「……たしかに。たしかに」

「朱宰相、いかがなされました」

一人、小さく頷く朱子毅に、水家当主が問う。

「いや、なに。少し感慨にふけってしまいました。こちらのお嬢さんは、今年幾つにおなりで?」

「十六になります」

当主の返答に、更に大きく首肯した宰相は、独り言のように、つぶやいた。

「そうですか、もうそれほど経ちましたか……」

「宰相、それは?」

何やら意味深な発言を繰り返す朱子毅に、当主が一歩踏み込んだ。

「彼女のお父上はかつての私の盟友でしてね、貢院こういんでは大分世話になりました。かの年は、私と水兄すいけいともう一人で三甲を分け合ったのですが、いやあ、あの頃は愉快でした。毎晩のように酒を交わし、我が国の未来について夜が明けるまで議論していましたね。懐かしい。今の私があるのも、あの時に彼らと語った理想があるからです」

「さようでしたか。まさか愚弟と朱宰相そのような接点があったとは」

当主の目には今しがた得た情報の価値を計ろうとする色があった。即位して五年になる未だ年若い皇帝はお飾りで、ほぼ宰相の意向で朝廷は回っているというのは、ある程度、情に通じる者であれば周知の事実である。

敵対勢力には容赦なく剣を向け、鉈を振るい、手段を選ばず尻尾をつかませずに蹴落としていくその手腕は、聞こえてくるだけでも辛辣かつ残忍で、目の前の柔和な表情を浮かべる男の印象とはあまりにもそぐわない。もちろん、一端いっぱしの商人である彼は、人の見た目と中身が一致していると信じるほど素直な性格ではなく、事実、彼の商売人としての勘は四十代にしては若々しく、抑えた覇気を身にまとうこの宰相の、容易に掴めない、何とも言えぬ得体の知れなさを感じ取っていた。

つい先日、朱子毅と朝廷を二分していた対立派閥の長が、謀反の咎で牢に叩き込まれ派閥が瓦解したことで、ついに天廷で彼に逆らう者は誰一人として居なくなったという、届いたばかりのからの報も、この分では事実だろうと、頭の中で彼は記録に付け足す。


「私は任官が地方で、長いこと中央を留守にしていましたから。……結局、水兄の最期にも居合わせることができませんでしたし。未だにそれについては後悔してもしきれない」

朱子毅は声を落として、やや俯いた。

「愚弟も、閣下にそのように気にかけていただいて幸せでしょう。あれの死は私にとっても痛い思い出です」

場がしんみりとしたところで、調子を変えるように当主が聞いた。

「ところで、朱宰相、我が従姪に話とは……」

神妙な顔をしていた朱子毅が思い出したように、顔をあげた。

「ああ、そうでした。申し訳ないのですが、先にお嬢さんと二人で話しをしたいので、少し席を外していただけませんか」

「それは構いませんが」

「なに、そう長くはかかりません」

躊躇した当主であったが、すぐに決断した。

「では、隣室におりますので、話が終了したら、下人に言付けて下さい」

「ええ。承知しています」

返答に笑みを一層深くした朱子毅が、軽く付け加えた。

「そちらと、そちらとあちら。あと、ここの方々も忘れずにお願いしますね」

広間の天井、右方の壁の一角、後方の壁に流れるように視線をやったあと、右の踵でトンッと足元の床を鳴らす。

告げられた当主の顔にこそ変化はなかったが、立ち上がろうとしていた体の動きは明らかに止まっていた。先ほどから黙ったままその場で仔細に観察をしてた双玉は、そうした二人のやりとりを眺めながら、朱子毅に対する警戒を更に一段引き上げた。もっとも明らかに役者の違う相手に対して、それがどれほど役に立つかは本人ですら疑問に思っていたが。

能面のように変わらない表情を顔に張り付かせた当主だが、胸の内では朱子毅に出し抜かれて腸が煮えくりかえっているということは双玉には手に取るようにわかっていた。

間違いなく、そこかしこに潜ませた手の者が居たからこそ、ここで双玉と宰相を二人にすることを彼は了承したのだ。一度口に出してしまった上、こちらが先に札を伏せていた以上、今更条件が違うと反故にすることもできない。明らかに彼の手落ちだ。

立ち上がった当主は、手のひらを独特の調子ちょうしで五度打ち鳴らすと、更に握った手の甲を他方の手で二度叩く。

「それでは私は暫し失礼します」

「ええ、お手数をかけて申し訳ない。できるだけ手短に済ませます」

そのまま当主は、一度も双玉の方に視線をやることすらせず背を見せて退出していったが、先ほどの撤退の合図にそれとなく混ぜられた全権委任の符丁を受け取った双玉は、敗軍の殿しんがりを務めねばならない己に、一気に気が重くなるのを自覚していた。



「さて、双玉とやら」

広間に二人しか存在しないのを確認して、朱子毅の雰囲気がガラリと変わる。先ほどの物柔らかな君子然とした様が嘘のように、眼光鋭く目の前の小娘を睥睨へいげいした。さながら獲物を狙う獣のような笑みが口元に広がる。

「はい」

獲物たる小娘であるところの双玉は、抑えることをやめた威圧感に気圧されぬように丹田に力を込めると真っ向からそれに対峙した。

そんな彼女の精一杯の虚勢を吹き飛ばすかのように、とてもゆっくりと、愉快で仕方がない風に、朱子毅は告げる。

「単刀直入に言おう。お前には後宮に入ってもらう」




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る