ハヌーレン嬢の冒険

みずの

外に出ましょう


 私は世の中を知らなすぎたと知ってしまった。


 お父様がご友人を連れてきて、流れで私にも挨拶する機会があった。彼は私の丁寧な礼儀作法に関心したのか、私を一人の淑女として扱ってくれた。そこまではいい。

 問題は彼に抱き抱えられていた子供の方である。お父様は私にその子の面倒をみてくれと頼んだ。お父様の面子もあったので断るという選択肢は端からなく、私は特に考えることなくその無理難題を引き受けてしまった。


 二歳ほどの男の子、名をレイニと言うのだけれど、彼は私にとって、良く言えば新しい経験をさせてくれて、世界の見解を改めるきっかけとなった。しかし私の実感からすれば、実際のところは、いつまでも私の中に残るトラウマである。


 世話をする、ということの意味は分かっていた。しかし、二歳ほどの子供をとなると、事は別物である。。流行りの詩を歌ったり、有名な役者の真似をすることはできた。当時の私も、それで喜んでくれるものと思っていた。勘違いしていた。

 しかしそれらはどれも知識のある大人達に向けた芸であり、知識を持たないものにとって私の披露した芸ははただの音声の連なりであり、風貌や仕草が変わっただけでしかない。

 その時レイニは大いに喜んでくれた。何の知識はなくても綺麗な音色は分かるし、姿が変わるのは面白いらしい。だが、詩は悲恋を詠んだものであり、その姿は華やかな踊り子のものである。思う反応とは逆に大笑いされては、私も立つ瀬がない。


 芸のバリエーションがなくなった私が頭を抱えていると、レイニは私のことを「おねーちゃん、ぷよぷよ!」と呼んで顔やら胸やら触りまくられて引っ張られて叩かれて、酷い目にあった。固くないことは認めるが、私にはハヌーレン・ランジットという名前がある。せっかく私に頼んでくれたお父様の顔に泥を塗るわけにもいかず、子供のすることとだと我慢してなんとかやりすごしたものの、その出来事によって私は、自分の知識の幅の狭さを痛感させられた。

 私の知る世界はこの家と、余所のお屋敷と、遠くに在るいくつかの劇場と……それを繋ぐ馬車の中だけ。あまりに狭い行動範囲に、しかしその中で衣食住と娯楽が満たされている現状とそれに満足していた私自身に、私は打ちひしがれたのである。


 


 その日の夜のこと。ご友人もレイニも帰り、私は日課である湯浴みをしていた。広い浴槽の傍らには、付き人であるユヒが待機している。ただ湯に漂っているのも暇なもので、無表情極まりないユヒに雑談を持ちかけることにした。縁から身体を持ち上げ、タイルの冷たさを感じながら問いかける。


「……ユヒは、外に出たことある?」

「ありません。私もお嬢様と同じように、物心ついた頃には此処にいて、お嬢様の御付きとして働いてきましたから」

「……そう、よね。知っていたわ」

「お嬢様、しっかり湯につからないと疲れが取れませんよ」

「はいはい」


 湯浴みの余興に聞いてみたけれど、私の期待する応えは無かった。無いことも初めから知っていた。ため息に似たものを吐き出して、全身を湯船に沈める。身体の方は溶けてしまいそうなほど気持ちいいけれど、頭のもやもやは湯気と同じように無尽蔵だった。


 暇がてら、うちの家族のことを想う。


 お父様に頼んでみても、自由に外に出してくれるとは考えにくい。過保護と言われて間違いないが、私を大事にしてくれることに不満はない。お父様の仕事は順風満帆であるからこそ、私は不自由ない生活どころか、こうして香草と花弁を浮かべた薬湯につかっていられるというものだ。


 お母様……母は、私の記憶には無い。お父様の仕事が軌道に乗り始めた頃に、病気を患ったらしい。お父様は遠まわしな表現で優しく教えてくれた。母は「疲れてしまった」のだと。今は山奥の空気の綺麗な療養所で、穏やかに暮らしていると。

 私は知っているわよ。それ、気が狂ったって言うんでしょ。


 姉がいる。けれど、どうやら母らしさを受け継いだ部分が多かったらしく、家にはいるけれど寝込みがちである。何度か会ったことはある。とても美しく華やかで、儚い雰囲気の美女だった。お父様曰く、母によく似ていると。

 でも病弱。外見たことなんて、あるはずない。


 生まれたばかりの弟がいる。母が長期療養中なのに、生まれたばかり。

 野暮なことは聞くもんじゃないわよ。


 さて、私の親類がことごとく私の外出に反対、もしくは何も思わないことにより、どうやら私の軟禁はまだしばらく続くようである。


 


 そんなこと、これはレイニと遊んで私の精神の狭さが露呈したことであり、複雑な家庭事情がどうのこうのと言う話ではないことに重点を置きつつの、そんなことがあってから、私はさらに熱心に勉学に励み、窓の外を眺めるようになった。

 見下ろす町並みはさほども続かず、街とそのさらに外を隔てる壁に遮られる。その先は本当に、私にとって未知の領域であった。馬車から外を眺めることを、私は許されていない。

 それどころか、庭に出ることすらもできない。

 外に出れば、私の綺麗なドレスが泥に塗れてしまう。汚れることに関しては私自身が気にすることではないのだけれど、外に出たのがバレてしまうのは問題であった。お父様に知られてしまっては、その先どうなるか分からない。


 窓の外を眺める私を、お父様が眺めていることに気付いた。


「ハヌーレン、何か気になることがあるのかい」

「いいえ、お父様。今日は特別に夕陽が綺麗だったものですから」

「……そうか。橙に照らされる君も綺麗だよ、ハヌーレン」

「ありがとうございます、お父様」

「君は、」


 そう、これは何度も聞いた、お父様の褒め言葉。


「君は私の最高傑作だよ」


 私はそれに答えず柔らかく微笑んで、再び眼下に広がる街に、ああいや、外に出たいという願望を知られてはいけないと、今度こそ沈みゆく夕陽に目を向けた。見えるのは橙に照らされる街並みとは違った、視界を閉ざすように入ってくる西日だった。


 私は、最高傑作なんですって。

 その褒め言葉にいっぱいに微笑んで、舞いあがっていた頃が自分にもあったと、懐かしくさえ思える。その頃の私が、今の私に繋がっていることは知っているし、今この瞬間に、誰よりも優秀で、誰と会っても褒められるハヌーレン・ランジットが、確かに存在している。皆に愛されるハヌーレンは、最高傑作である。しかし褒められているのは私の造られた外側であり、作法であり、人と話す時の愛嬌である。それはきっと人形の私で、生きている私ではないのである。


 生きている私は外を出歩いてみたい。

 人形の私にはそれが許されていない。


 そんな憂いを帯びた表情も、お父様は綺麗と言ってくれるのだけれど。

 それを嬉しいと思えるような私は、既にそこにいないのである。


 


 その日の夕食を終えて、湯浴みの時間。私はさらにユヒに問いかけた。


「ユヒ、あなたは外に出たいと思わないの?」

「……私は、ここしか知りませんから」

「此処しか知らないから、此処でずっと暮らしていたいの?」

「外には悪い人間や恐ろしい魔物もいると聞き及びます。私は身を守る術も十分に持ち合わせておりませんし……外は、怖いです」

「………………怖い、かぁ」


 確かに、お父様から外出の許可がおりないのはは危険だからという理由だったはずである。どのように危険かは、教えてくれなかったけれど。


 教えてくれなかったからこそ、危険が具体的に何か分からない。そんなふわふわした危険よりも、私の場合は好奇心が勝っていた。私だって、作り話と現実の区別はついている。本で読んだような通り魔の猟奇的な殺人や、街中での魔法合戦など、現実では起こらないのである。街の音は今日も静かで、血生臭さや派手に崩れ去る建物は一つも見受けられない。


「……ユヒ」

「いけませんよ、お嬢様」

「何も言っていないじゃない」

「言わなくとも分かります」

「何も一緒に逃げだそうなんて思っちゃいないわよ。ただちょっと協力……ううん、見逃してくれれば十分、」

「いけません」


 取りつく島も無い。


「お嬢様はどうしてそんなに外に拘るようになったのです?」

「………………」


 きっかけはあの、レイニという子供に出会った時からである。

 しかし元を辿ればお父様が私を人形扱いするところから始まっているような、私が生きていることの証明が欲しかったような、きっとどこか生き物の根源的に在る自由を求める、過度な拘束を嫌う本能のような。

 ともかく今は、もっともな理由が必要な気がしたわけで。


「レイニという子供が来たことがあったでしょう」

「……私は知りません」

「ともかくその子供を見返してやりたいのよ! 笑われるんじゃなくて、笑わせたいの!」

「何やらご執心のようですね」

「べ、別にそんなんじゃ……ない、けど?」


 こんなのが恋の始まりだっていうんなら、私はそれを全力を以て諦めようと努力するわ。


「ともかくユヒ! いざって時に私の邪魔をしないこと、いいわね!」

「………………」

「これは命令よ」

「………………はい」


 そんなやりとりをしたのが一月ほど前。

 そうしてお父様から、あのご友人、そしてレイニがまた来月に遊びに来るという話を聞いたのが、今現在というわけである。


 


 その日は偶然に、そう偶然にも、午前中にお父様が出かけるのが窓から見えてしまったので、少しばかり大胆に行動することにした。家での生活に必要な物は全て置いて、私はついに、外に世界に踏み出すことにしたのである。

 きっと大丈夫よ、日が暮れるまでには帰ってくるもの。なんて自分に言い聞かせて。


 ベッドの分身を頭すら見えなくなるまで布団で覆ったら、私は誰にも気付かれないような変装をして家の階段を下りていく。家の中なら変装がばれてしまう可能性も十分にあるので、極力誰にも見付からないように。


 お行儀よく玄関から出るはずもなく、私は経路として一階廊下の窓を選んだ。乗り越えるにはちょっと高いけれど、ここで躊躇っている場合ではない。見付かったら十中八九、今後の暮らしに響く。


 記念すべき第一歩は、庭の芝生。

 今まで歩いていた床とは違って、柔らかい。土の感触、草の感触、空気の感触。全てが家の中では味わえないもの。私は感動していた。


 いや、と再び気を引き締める。

 ここで私の冒険は完遂ではない。さらに遠く、まず初日の計画としては、日が暮れるまでに家に帰ってくるという時間制限があるのだから、そう遠くまではいけない。ちょっと街の雰囲気を楽しんで、あの高い壁の向こうを覗いて、それから帰ってくる、このくらいで手一杯といったところか。


 身体を窓より下の壁にくっつけて、どこか正面の門以外から脱出できる道を探す。どこから見られているか分からないし、庭を掃除しにきた人に見付かることだってある。さっさと家から出なければ。

 私の家の中での行動範囲外にあたるのでよくは覚えていないが、滅多に使われることのない裏門があったはずである。もっと入念に下調べ……といっても廊下の窓から覗くくらいしかできなかったと思うけれど、はっきりと場所が分かっていれば作戦も立てやすかったろうに。

 今回は時間がなかっただけに、タイムロスが大きいのは仕方ないと思おう。


 さて、身を小さくしながらも壁伝いに歩き始めてしばらく。それは何者に守られることもなく、忘れられたようにひっそりと、しかし明らかにどう見てもそれは出入口であり、私の心境からしてみれば意外にあっさりと、裏門というものに辿りついてしまった。垂れ下がりそうなほど茂った蔦を湛えるアーチの先には、その奥に続く平らな石ではないでこぼこ道が、弱々しい鉄柵の向こう側に続いていた。


「外というものは、意外と、」


 独り言の途中、唐突な身震いが私を襲う。振り返る。

 そこには、壁、そして見上げると窓、その窓の奥には、私の付き人であるユヒが確実にこちらを向いて、窓拭きの手を止めていたのである。


 じっと見詰め合うこと数秒。

 自分が今、ここからは熱い自画自賛が山積みになっているが、どう見ても完璧な変装している。誰一人として私が、あの上品で物腰落ち着いた礼節をわきまえるハヌーレン・ランジットであるということを見抜けはしない。

 それではランジットの屋敷に存在している私は、屋敷の者たちの目にどう映るかと言えば、存在しているはずのない者であり、ただの不審者であり、討つべき侵入者である。


「………………」

「………………」


 見詰め合う、私とユヒ。しかし私は諦めず、じりじりと裏門へと後退……いや、この場合は目的地が門の外なのだから、後ずさりしながら前進する。バレてしまったから逃げようとしている侵入者を装えば、なんとか見逃してはくれないだろうか。


 ふい、とユヒがそっぽを向いた。よく知った誰かに呼ばれた風であり、わざと視線を逸らした風であり、もしかしたら私の変装を見破って、それが私だと気付いた上で、いつぞやの約束を忠実に守って、見て見なかった振りをしてくれたのかもしれない。


 その偶然か厚意か分からない一瞬の隙を逃すことなく、私は門へと駆けだし、そして無事に屋敷の外に脱出したのである。


 


 時間と太陽の方向から察するにそこは、いつも見下ろしている市街地とは逆方向であった。私の家が街のど真ん中にあるわけではないのは知っていたけれど、これほどまでに近くに緑の生い茂る林道があったとは知らなかった。頭上にさわさわと揺れる葉のおかげで、屋敷から見付かる可能性はほとんどなくなっている。その事実を想うほどに私は上機嫌になっていった。


 自由。

 自由である。


 身体を伸ばせば届く範囲に大きな樹がある。ごつごつとしていて整っていない。地面だってそう。踏み心地は悪くて、固いところと柔らかいところが混じっていて、気を付けていないと躓いてしまいそうになる。建物の中に居る時よりも近くで聞こえる鳥のさえずり、そして何かも分からないモノの奇妙な鳴き声。すぐそばで感じる、緑の匂い。


 それらが本当に、私が外の世界に出ていることを実感させてくる。


 門を出てしばらくも歩いていないけれど、振り返れば屋敷の高い階層部分が木の葉の隙間から見えるほどの距離の地点には、細い道の両脇に小さな石碑。自然の力に圧倒される林の中での人工物は目を引いたが、特に綺麗な彫刻がされているわけでもなく、武骨で質素な立方体の石だった。


 たぶんこれは目印で、考えてみればここからが本当の外なのかも、という推測に思い当たった。自然の林だと思っていた今までの道は本当はランジット家の敷地内で、この石碑から先が、誰のものでもない本当の自然……なの、かもしれない。生い茂る緑に境目はなく、見た限りでは何も違いはない。


 私はまた一つ息を吸い込み直して、それじゃあ今度こそ軽い散歩にでも行きますかといった風でその石碑を越えて林を歩きだした。


 深い森というわけでもなく、獣道というわけでもない。石畳の舗装はされていないけれど、人が通った形跡が全くないわけでもない。柔らかい土のところには一本の車輪の痕跡があって、この道が頻繁にではなく時々に、まだ使われていることを示していた。


 林の中は緑の影で暗いけれど、遠くには光が見えている。林を抜けたところは街ではないにしても、我が家の位置関係からすれば、林の境界に添って歩いていけば、いつか街に着く可能性が高い。まだ日が昇りきってないからには、往復の時間を十分に取ったとしても、街の中を散策するくらいはできるはず。


 私は意気揚々と、


「……んぎゅっ」


 急に先に進む力を失う。自分がいつもの目線よりも低く、地面が近い。体勢を整えようとしても、上から何者かに抑えつけられていて起き上がれない。気付けば私は、前のめりに倒れ、倒され、頭と背中を押さえつけられていた。


「ちょ……っと、誰! 私を誰だと思ってるの!」

「お前、誰だ?」


 高く軽い子供のような声で、私の上の何かが答えた。しかし抑えつける力は緩むことはなく、それは私一人の力ではどうしようもないくらいに強い。私は今、自分の非力さを地面に頭を打ちつけながら知ることになった。


「向こうに見える屋敷の娘、ハヌーレン・ランジットよ! 分かったら私から手をどけなさい!」

「あれがお前の家か。ならば此処はお前の家ではないな」


 ざくり。

 身体の中心に異物がすんなりと入ってくる、強烈な感触。


「そして付けくわえるなら、此処は僕らの縄張りだ」


 遠くなる意識の中、林の見えなかったところから多くの魔物が姿を現すのが見えたような気がした。ぎゃり、と変な音がして、身体の一部が失われる音を間近に聞きながら、しかし痛みを伴うこともなく、それはきっと既に私がそんな身体の一部が無くなる状況すら、それよりも大事なことに集中しなければならない差し迫った状況に置かれていることを示していて、私は今、命の危機に瀕していて、私の外側から鋭い牙が深く内側へ、遠くで見ていた魔物たちも次々に近くに寄ってきて私の、


 びちゃびちゃと液体の飛び散る音が、聞こえたような気がした。それが本当に聞こえていたのかを証明する術は無い。それを認識する物体はもう、生物ではなく塊であり、同時に魔物の餌でしかないのだから。


 そうして、ハヌーレン・ランジットは自宅近くの林で魔物に襲われて死んだ。


 


 


「ハヌーレンよ、起きているかい?」

「………………」

「ユヒの姿が見当たらないんだが、見なかったか?」

「………………」

「ハヌーレン?」


 お父様が布団を少しめくる。

 入りこんでくる光が一層に強まったことで寝てもいられなくなり、私、ハヌーレン・ランジットは身体を起こすことにした。


「………………お父様………………すいません、少し休ませていただいて」

「なっ……大丈夫なのか、ハヌーレン」

「ええ、もうずいぶんよくなりましたから」

「そうか……起こして悪かったな。まだ寝ているといい」

「では、お言葉に甘えます。お父様は優しいですね」


 私は再びベッドに脱力して、休養の続きを取ることにする。


「……ハヌーレン、ユヒを見なかったか?」

「あ……ごめんなさい、彼女は、」


 一つ私はそこで間を取って、そして続きは当然、風のように軽やかに。


「お腹が空いた時に食べてしまいましたわ」


 彼女の名誉の為に言っておくけれど、不味くはなかった。美味しくもなかったけど。


「……そうだったのか。また新しい子が必要になるな」

「ごめんなさい、お父様の手を煩わせるよなことをしてしまって」

「いいんだ、ハヌーレン。お前が元気になってくれるなら、それが一番良い。召使いなどいくらでも創り出せるさ」

「ありがとうございます、お父様」

「それじゃあハヌーレン、今夜はゆっくりと休みなさい」

「はい」


 お父様は私の頭を一つ撫でると、部屋を出て行った。


 出て行ったのを確認して一分という長く短くしっかりとした間を取って、はーぁ、と一つ私は長いため息を。


 失敗したと軽く首を横振った先にあったのは、私の肖像画である。

 物語『湖の主の一人娘』のヒロインの人魚の容貌を真似た、私の姿。青く透き通る肢体は自由に形を変えることができ、躑躅ざくろ色に輝く核がある限り、身体の大部分を失っても再生できる、世間一般で言われるところのスライム。

 それが、お父様の長年の研究の末に生まれた、ハヌーレン・ランジットの正体である。


 朝早くに遣わした私の記憶を全て分けた分身は、お父様が帰ってくる日暮れまでに姿を現すことはなかった。私自身も分身した私も、一つに統合して記憶の共有を行う利点を十分に承知しているのだから、どうしても帰還できない事態に陥ったと考えるのが自然であろう。強い意思と記憶能力を持っているとは言え、傍から見ればただのスライム、既に息絶えている可能性も十二分にあった。


 分身に使った魔力を補うために、同じスライム種であったユヒと合体して乗っ取ってみたものの、私に使われている魔力は相当なもののようで、失敗作のついでに造ったスライム程度では私の失われた半身を補うには不十分であった。スライムの研究に没頭しているお父様が、私に思いを寄せ、最高傑作と言うのも本心であり、真実の言葉なのであろう。


 そしてその代償として、私はベッドで人型を保つこともなく、だらりと垂れているのである。もちろんベッドを濡らさない程度には粘度を保ってはいるのだけれど。


「うーん……外は、思っているより危険なのかしら」


 どうやら私は、逃げ帰る暇も与えられずに死んだらしい。いや、死んだと決まったわけではないし、それを確かめる術もないのだけれど、すっかり夜になってしまったし期待するのは止めにする。第一回の外出は失敗して、何の成果も得られなかった。それが今私に分かるただ一つの明らかな結果である。


 私が屋敷の敷地内で死んだのか、外で死んだのか。誰かによって殺されたのか、不運な事故で死んだのか。陽が昇り切る前にあっけなく死んだのか、夕暮れまで生きぬいて力尽き死んだのか。まぁ、生きている可能性も無くはないんだけど。

 しかしどの情報も、このベッドで寝ている私にもたらされることはなかった。私が外から帰ってこなければ、私はまだ何も知らぬ籠の鳥のままである。


 帰れなかったという情報だけで次の作戦を立てようとして、しかし私はその思考を途中で放り投げた。

 どうせ体力と魔力が十分に回復するまで次の外出は無理だし、食べてしまったユヒについてお父様が思うこともあるだろう。一度二度ならまだしも、頻繁に召使いが食われるようなことがあっては、何かに魔力を使っていることに感付かれるのは時間の問題である。

 日々の食事の量を増やしたり、薬湯の濃度を高めて魔力を蓄え、次の機会をじっくりと待つことにしよう。


 そうと決まれば、いや決まる以前から実行してはいたのだけれど、引き続き寝ることにしよう。帰れなかった私を悼んで、帰ってこれる想定をしていなかった私を悔やんで、そしていつか私が帰って来られる明るい未来を夢見て。


 安らかにおやすみなさい、ハヌーレン・ランジットたち。

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