ショートショート「ノイジーマイノリティー」

 ネット上ではなく、僕に直接、会ったことのある皆様へ。

 今まで本当にごめんなさい。


 まず、これまで不快な思いをさせてきたことを謝罪させてください。

 きっと皆様は、少なからず僕の挙動を不審に思っていたはずです。年相応の分別がなく、すぐに憤りや焦りを露わにし、場の空気を壊してきたことが何度も、何度も、何度もあったことでしょう。少なくとも一度は、こんな精神薄弱な男とは付き合いをやめてしまおう、と考えたことでしょう。いや、現に今まさに思っているかもしれません。本当に、本当に申し訳ありませんでした。

 そして、それでも多少なりとも会話をしてくれたり、人数合わせだとしても集まりに誘ってくれたり、関係を絶たずにいてくださったことに、心より感謝しています。

 ですから、迷惑と心配をかけた皆様に、まず第一に報告したくて、この文章を書いています。


 僕は、耳を瞑ることができません。


 信じられない方が多いと思います。 いや、厳密には僕も信じられません。耳を瞑る、ということが、分からないからです。

 皆さんが当たり前のように知っている耳の瞑り方、つまり道具を一切使わず周囲の音を遮断する行為が、僕にはできないのです。


 僕が自分の欠陥に気づいたキッカケは、居酒屋で上司から受けた説教でした。 もともと僕は居酒屋が苦手です。店内の音楽や周囲の会話がうるさく、頭がパンクしそうになるからです。

(この感覚もおそらく、皆様には分からないことでしょう)

 そんな環境でも上司からの呼び出しとあっては行かないわけにもいきません。酒が進むにつれ会話の主題は僕の仕事ぶりへ移っていきました。ミスの多い仕事ぶりを責められ、注意します、とだけ返した僕を、軽くバカにした口調で上司は言いました。


「ミスを減らすために注意する?お前ね、反省になってねえよ。寝るために目を閉じる、食べるために口を開ける、集中するため耳を瞑る、そのレベルだぞ?当然のこと言ってどうすんだよ」

「……耳は、ふさぐ、でしょ」

「あ?何言ってんだお前。酔っぱらってんのか」

「耳を瞑る、って何ですか。聞いたことないです」

 

 何度も質問を繰り返すうち、はじめ笑っていた上司は次第に真顔になり、黙ってしまいました。

 僕は怯えました。また怒らせたのだと思ったのです。

 上司は烏龍茶をふたつ頼み、一杯を僕に勧め、静かに切り出しました。


 人間なら耳を瞑れるのが当たり前であること。

 意識して目を閉じれば何も見えなくなるように、意識して耳を瞑れば何も聞こえなくなること。

 耳を瞑ることのできない人間など存在しないと思っていたこと。

 僕と出会って、本当に驚いていること。

 

 説明は極めて淡々としたもので、かえって切迫した事態を示していました。 当惑する僕に、上司は深々と頭を下げました。

「おまえに暴言を吐いたことが何度もあったな。すまなかった。どうせ耳を瞑るだろうから、聞こえないだろうから、何を言ってもいいと思っていたんだ。本当にすまない」

 茫然とする僕の脳裏で、長年の疑問が次々と氷塊していきました。

 泣き叫ぶ子供を真顔で無視する親、無視された記憶しか残っていない教室、職場でのこれ見よがしの噂話、騒音に溢れた町で笑いあう人々、まったく成立しない会話、うるさい、うるさい、うるさすぎて全く集中できない、なのにみんな平然としている狂っているとしか思えない世界。 

 狂っていたのは僕でした。

 すべては、僕が、耳を瞑れないせいだったのです。

 


 明日、僕は病院へいきます。

 僕にとって幸運だったのは、上司が理知的で想像力のある人物だったことでした。茫然とする僕に検査入院を命じ、徹底的に検査することを勧めてくれたのです。 治療が成功するかは分かりません。そもそも、治る、という言葉にも違和感があります。ずっと耳が瞑れなかったのですから。

 退院しても、これまでの生活が保障されるのか、それは分かりません。体のいいリストラなのかもしれません。それでも、僕は上司に感謝しています。

 

 入院する旨を母にメールで伝えると、電話がかかってきました。僕が耳を瞑れないことを知り、母は号泣していました。気づいてあげられなくてごめんなさい、辛かったでしょうね、と何度も謝られました。耳が瞑れない僕は母の涙声を聞き続けるしかなく、胸が締め付けられる思いでした。耳が瞑れないということは、こんなにも重大な機能不全のようです。

 

 長期入院を前にこの文章を掲載したことには、二つの意味があります。

 まず、この文章を読んでくださった方の中に、耳を瞑れない人がいる可能性について。 同じように苦しんでいる人がいた場合、その気づきになれるかもしれない。いや、そんな偉そうなものではないですね。

 耳を瞑れず味わっている苦しみを共有できる仲間がほしい。

 それだけかもしれません。


 そして。

 あなたにどうか、僕が耳を瞑れないことを知ってほしかった。

 本当は電話したかった。あなたに直接会いたかった。

 自分の声で、心の底から、今までのことを謝罪したかった。

 でも、それは果たせないでしょう。

 あなたは耳が瞑れるから、僕の声なんか聴いてくれない。

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