ショートショート「バンパイ湯」

数百年前に余が此の宿場の主となったのは単純に世襲に拠る。先代の主である父は人だった頃は名うての冒険家でありその挑戦心は不死の身となっても衰えることはなかった。空輸の発達によって古びたタブー即ち「吸血鬼は水上を移動することができない」戒律に父は果敢というか物好きにも立ち向かった。幾多の水に足を浸し灰燼と帰すことを繰り返し遂に発見された吸血鬼が浸かれる水。特別な鉱物の配合を含む奇跡の水こそ余の旅館の目玉である天然温泉なのである。

 宣伝を一切打たずとも客足は絶えず其の殆どが余の同族だ。先刻述べた通り長距離空輸網の発達に拠り余の同族は急速に全世界へ拡散した。極東の此の国に於いても同様である。先日偶々とある中華料理屋を訪れた。余を含む全ての客が大蒜抜きのメニュウを頼み店主も快く其れに応じた。奇妙な偶然によくよく観察すると客も店主も全員が吸血鬼であった。事ほど斯様に余の同族は現代社会とやらに調和しているのである。

 さて余は今日もダーク・スーツの上から法被を纏い宿泊客を出迎える。玄関前に飛翔してきた蝙蝠たちは慌てて仲居の姿に化ける。石畳を連れ立って歩いてくる二人連れ。濡れ羽色の着物に身を包んだ妖艶な淑女の手を握る中年男の髪は茶色い。精一杯の若作りだろうが彼より若く見える淑女は当旅館の先代からの常連であり何世紀永らえてきたか知れぬ年齢である。

 出迎えの際荷物を受け取る余と淑女の目が合った。淑女は嫣然と微笑みながら先ずは入浴をと囁いた。中年男の伸びきった鼻の下を見ると当旅館が混浴であることは聞かされていた様子である。恭しく浴場へ案内する。

 庭で掃き掃除などしていると時折獅子脅しの音が響く。竹の鋭い切り口が忌まわしき棒杭を連想させ余はあまり獅子脅しを好かぬ。とは言え醸し出す風情は捨て難く妥協案として音を録ったテープを流して居る。周期が短いのが難点だが。澄んだ音、そして男の悲鳴。余韻は同時に消えていった。

 十分に燗がついたのであろう。件の淑女は何時も手弁当持参なので夕餉の支度をせずに済む。余は一人分の最高級棺を客間へ恭しく配置し自らも床に就く。血も湯も一文字の液体であり余は其の両方を好む。

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