ふゆとさくら

星埜ロッカ

01 パン屋『桜木堂』

 朝の静寂が心地良い。昨夜から降り続いていた雪が、地面に白く厚い絨毯を敷いている。辺りの道路には足跡やタイヤ痕もない。清廉な白銀の煌めきが、朝日を吸い込んで静かに呼吸をしている。

 空を仰ぎ見て、雲一つない透き通るような薄い水色に息を吐きかける。視界に映るのが朝空だけだからだろうか、自分がこの世で一番大きなものになったような気分になる。人間が誕生する前に滅んでしまった恐竜たちも、空に息を吐き出して、自分の大きさを実感したり誇示してみたりしたのだろうか。

 高臣たかおみはぼうっと空を眺めながら思いを馳せる。

 近所で早朝から起き出す店はここ、パン屋の「桜木堂さくらぎどう」ぐらいなものだろう。駅から少し外れた、住宅街の一角に佇む桜木堂は、立地条件が良いとはあまり言えない。それでも営業当初から、近所に住む奥様方に評判のパン屋として人気となっている。焼き立てのふっくらとした美味しいパンを提供してくれるお店として、口コミで広がり評判となっているのである。

 パンが美味しいから人気というのはとてもありがたいのだが、それだけで桜木堂が繁盛しているわけではなかった。パン職人の容貌が、人並み外れて美しいというのも、繁盛の理由の一つであった。 その職人を遠目からでも一目見ようと、奥様方は甲斐甲斐しく店に足を運ぶのである。理由はどうであれ店が繁盛するのは良いことである、と高臣は常々思っている。

「……とっとと雪かきするか」

 手に除雪用の大きなシャベルを持って、高臣は白い原に最初の足跡を付けた。さくっ、と足下で小さく響く雪音が耳に小気味好い。まっさらな道に一番に足跡を付けるのも、何だか気分が良かった。

 早速シャベルで雪をかこうとした高臣だったが、ふと目の端に、黒い物体があることに気が付いた。どうせ石かゴミだろうと思ったのだが、一度気になるとどうしても高臣の視線から外れてくれなくなった。あの物体が何であるのか確認しなければ、胸のもやもやが消えることはなさそうである。

「確認してみるか」

 呟いて、高臣は黒い物体に近付く。雪を踏み潰し、さくっさくっ、と音を響かせてゆっくりと近寄ると、ようやくそれが何であるのかが分かった。

 半分埋もれ、雪を被っていたその正体は動物であった。小柄な黒犬である。まだ子供なのだろうか。やせ細った身体と艶を失った毛並みが痛ましく目に映る。流血している様子はないが、倒れているということは怪我でも負ったのだろうか。

 死んでいるのか……と思って覗き込むと、まだ身体が上下に動いていることに気が付いた。――生きている。

「おーい、高臣。俺も雪かき手伝うぜ」

 ドアベルが響いて扉の開閉音が鳴る。後ろからかかった声は、高臣のよく知る人物、奥様方に人気のパン職人その人であった。

 高臣はしゃがみ込み、片手で子犬を抱き上げる。凍ってしまった身体は、しかし命を紡ぐ為に必死に鼓動していた。今にも消えてしまいそうな、けれども懸命に動く心臓の脈動が手の内に感じられる。まだ助かるかもしれない。

「ん? なに座り込んでんの?」

 茶に染めた肩までの髪を後ろで結わえた、長身の青年が高臣に近付く。長い睫に縁どられた切れ長の瞳といい、高い鼻筋に色艶の良い唇といい、美麗な見た目から女性と見違えられることも多いという。しかし歴とした男であるパン職人の吉平きっぺいは、間違えられることにあまり頓着していないようで、女と勘違いされる一番の要因である、男にしては長い髪を、これ以上短くすることはなかった。

 吉平は高臣の手元を覗き込むと、その途端表情を歪める。吉平は良くも悪くも、感情が表に出やすい奴だと高臣は思っている。

「店の前に黒犬の死骸……気が滅入るねえ」

「まだ生きてる」

「え、そうなの?」

 目を見開く吉平とは対照的に、高臣は淡々と答える。

「ちょっと温めてくる」

「ちょ、おい、高臣! 雪かきは!」

「吉平、やっといて」

 右手に持っていたシャベルを突きつけると、吉平は反射的に受け取った。吉平自身もシャベルを提げていたので、両の手にシャベルを持つ格好となり、あからさまに不満げな表情を宿した。納得がいかないといった感じで眉根に皺を寄せる。

「開店に間に合わなくなるんですけどー」

 後ろから聞こえる不満たらしい物言いを無視して高臣は歩き出す。腕の中で丸まっている小さな生き物が冷たいことに、高臣は酷く不安になるのだった。



 桜木堂は、小ぢんまりとした三階建ての建物の、一階の小さなテナントで営業しているパン屋である。二階、三階はアパートになっており、高臣は二階の一室を借り、そこで吉平と二人で住んでいる。最初こそ、男二人の生活に狭苦しく思いもしたが、今ではそれにも慣れてしまい、1DKの我が家に居心地の良ささえ感じていた。住めば都とはこういうことをいうのかと、高臣は身を持って実感した次第である。

 自室へ戻ると高臣は暖房を入れ、子犬を毛布で包んでやった。怪我をしていないかとりあえず身体中を調べてみたが、それらしい傷は見つからなかった。

 こういう時、どうすれば一番いいのか、どういう対処をするのがいいのかいまいち分からない。

 とにかく暖かくしなければならないと思い、毛布にくるまれた身体を撫で摩る。数分の間ずっと撫でていると、冷たかった身体がようやく熱を持ち始めたようだった。心臓の鼓動も大きくなり、胸の上下の膨らみも安定してきたようである。

 とりあえずは一安心といったところだろうか。子犬が起き上がった時に喉が乾いていてはいけないと思い、高臣は冷蔵庫から牛乳を取り出し、人肌程度に温めて、それを器に入れて子犬の近くへ置いておくことにした。

 高臣に出来るのはこのくらいだろうか。あとは子犬自身の回復力にかけるしかない。

 本当は動物病院に連れていってやりたいところだが、生憎店を抜けることが出来ない。なんせ桜木堂は高臣と吉平の二人と、学生アルバイト一人とで切り盛りしているのだ。一人でも抜けると大変なことになる。

 仕事を置いてまで病院に走ることが出来ないのは、助けた身としては無責任なのかもしれない。可哀想だからという気持ちだけで助けたのか、それは人間のエゴだと誰かに言われたら、高臣は強く反論出来ないだろうと考える。

 それでも、この子犬をそのままにしておくことはどうしても出来なかった。捨て置かれることがどれほど寂しく、悲しいことか、高臣は知っていたからだ。

「……頑張れ。負けるな」

 お前の命を奪おうとするものから負けるんじゃない、生き抜け。

 高臣は子犬をひと撫ですると、静かに自室の扉を閉めた。



「やっと来たか。で? さっきのワンコはどうなの? 助かりそう?」

 店の表に回ると、気付いた吉平がシャベルを雪に突き立て、持ち手に顎を乗せた状態で問いかけてきた。店の入り口前は雪かきされた道路が鼠色の顔を晒している。端に寄せられた雪が、こんもりと小山を作っていた。

「なんとかなるかもしんないし、なんとかならないかもしんない」

「ワンコの気力次第ってとこか? つーかお前、もしあの子犬が元気になったらどうするつもりよ?」

 目を眇める吉平は、高臣の心情を量るように見つめる。尋ねてはいるが、とっくに心の内を見透かされているような気がする。

「うちはパン屋だし、飼う気はないよ。誰か飼ってくれる人がいないか探さないと」

「まあそうだよなあ。動物好きの常連さんにでも訊いてみるか。この辺りのお客さんって、結構良い人ばっかりだし、相談に乗ってくれるかもしんないしな」

 そうだな、と言う高臣を、吉平がじっと見つめてくる。物言いたげな視線が高臣に突き刺さる。

「……何?」

「お前、本当は飼いたいなあとか思ってるだろ」

 ずばり高臣の本音を言い当てた吉平は、したり顔をしている。長年ともに過ごしてきた時間は伊達じゃない。

 高臣は人に「何を考えているのかよく分からない」、「怒っているように見える」、「怖い」などと言われることが多いのだが、吉平曰く、図体のでかい身体と切れ長の細い目つき、必要以上に喋らない寡黙な部分が、人にそう評される原因なのだという。

 しかし吉平にかかれば、高臣の内心など筒抜けであるようだった。隠し事は出来ない。

「出来ることなら飼いたいよ。でも……無理だろ?」

 住むアパートが動物の飼育を禁止していることは以前から分かっていたことだ。そしてここがパン屋である以上、動物を飼うことは出来ない。営業を開始してから二年足らずの店ではあるが、この地で長く腰を落ち着けたいと思っているのは高臣のみならず吉平も同じだろう。拾い上げておいて手放すのは心苦しいが、食べ物を扱う店で生き物を飼うのは、様々なリスクを背負うことになる。

 吉平は苦笑すると、シャベルを持って雪かきを再開する。

「高臣、お前もさっさと手を動かせ。早く終わらせて、犬っころの具合確かめねえとな」

「……そうだな」

 雪の上に放られていたシャベルを持ち上げる。高臣はちらりと二階を見上げ、再度心の中で祈ってから、雪かきを始めるのだった。

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