第83話 真夜中の秘密 -8△


 受付係の二人組に支えられ、マジョアは冒険者ギルドから脱出した。


 広場に出たとき、そこにはカタバミ色のローブを着た若い魔術師が佇んでいた。

 魔術師のそばにはベロウが地面に座り込んでいる。


 ふたりは、着ているもののほかは、おなじ絵を写しとったかのようにそっくりだった。


「アラリド……!」


 呆然とその名を呼んだのはマジョアではなかった。

 アトゥに支えられ、血の気のうせた顔をしているヨカテルが広場に入ってきたところだった。

 トゥジャンたちも戻ってきている。


 いつの間にか、街は静かになっていた。

 幽霊たちはいまだに留まっているが、砂の英雄たちの気配は消えている。

 そのことにレピとエカイユは気がついていたが、マジョアは違った。

 目の前の、はるか過去の人物の横顔を見つめ凍りついたように動けないでいた。


「《精霊よ、地の国に住み死者の国にもっとも近き者たちよ。わが誓願を天に届けたまえ。その光輝によって、いかなる隠匿された証をもつまびらかにし、公正なる裁きを下したまえ》」


 滑らかな声が、誰も知らない夜魔術の呪文を唱える。

 それはマジョアたちでさえ一度も聞いたことのない夜魔術の正式な詠唱だった。

 アラリドは確かに夜魔術の使い手だったが、その呪文や儀式の数々を形にしなかった。アラリドがいなくなった現在、失われてしまった秘儀だ。


「《この誓願を行いし者。わたしは海より生まれ、天に仕え、地に降り立つ者。果てなき道の果ての月光、導きの星、イストワルに預けられた天の秤》」


 か細い両腕が天を抱くと、オリヴィニスを覆っていた暗雲がひと息に晴れた。

 明かりの絶えた街に満点の星空が瞬く。

 天から一筋の光が、まっすぐにアラリドへと降りてくる。それは魔術のなせる技というより、神聖で神々しい奇跡のような光景だった。


「《誓願は聞き遂げられた。今こそ忘却の霧は晴れ、うしなわれた役目を思い出す。開け、目覚めよ。》」


 杖の先端が、石畳を打った。

 それを契機に薄青の星の輝きが強まった。

 清浄なアラリドの魔力が、波濤のように街の隅々に広がっていく。

 すると街のあちこちで呪いを撒き散らしていた亡霊たち、夜魔術によって形を与えられた骸骨たちが不意に動きを止めた。

 その瞬間、彼らは抱えている憎しみや怒りを忘れ、ベロウによって下された命令のことも忘却し、誰にも縛られることのない純粋な魂の輝きにもどっていく。

 

 やがて地上は星の海になった。


 アラリドの周囲には七人の戦士が揃っていた。

 砂の体は取り払われて魂だけの姿となって、アラリドを守るように静かにそばに控えている。


「どうして、なんでなの。七英雄はわたしのものだったのに……!」

「まだわからない?」とアラリドが言う。「英雄たちがいるのなら、彼らに付き従った《仲間》がいたはずだ。無数の、無名のまま歴史の波間に消えていった英雄たちが……最初の冒険者たちが……」


 冒険者たちが未知に挑むとき、そこには多くの人々の影がある。

 ひとりで偉業を成し遂げたように見えるときでも、必ず、どこかに、共に戦い、共に歩いた者たちがいる。

 あるいは、その帰りを待ち、祈りを捧げた者がいるだろう。


「メルは単なる器じゃない。女神によって作られたなんだ。だから七英雄がいなくなってもメルは消えたりしない」


 ベロウは怯え、光を避けているようだった。

 その顔からは白粉が剥がれ落ち、深い皺が覗いていた。


 これまでベロウは精霊術士のセルタスがそうしたように自分の体にアラリドの魂を寄り憑かせていた。

 その魂が離れた今、彼女は両足を引きずることはなかったが、かつての自信に満ちた姿でもいられなくなっているのだ。


「わかっているね。死者の国に迎えられた魂は、夜魔術では操れないことを」

「うそ、うそよ。そんなひどいことを言うのはやめて。おねがい、ひとりぼっちはいやなの」


 泣き叫ぶ老婆の嗚咽は哀れで何も知らない赤子のものに似ていた。

 アラリドはベロウに、いつくしむようなまなざしを向けている。


「ベロウ、君はとても償えない罪をたくさんおかした。ぼくはきみを連れて行かなければいけない……」

「嫌よ……だって、わたしたち。恐ろしくて不気味だからって、たくさんのものを奪われたのに。少しくらい、あの人たちの物をもらってもいいじゃない」

「人々がきみを恐れたのは、きみの残酷な心のせいだよ」

「いや! そんなのいや! 何がいけないの、何がいけなかったの。だって、みんなわたしを殴ったわ、たくさん傷つけて、なんでも奪って行ったじゃないの!」


 その狼狽振りは、もしもこの女に夜魔術の才能がなければ罪をおかすことはなかったかもしれない……と思わせるに十分なほど、悲愴だった。まるで聞き分けのない少女のようなのだ。自分の痛みに悶え、泣き叫ぶことしか知らない子供の……。

 もしも誰かが彼女に優しくしていれば、違う未来があったのかもしれない。

 しかしそんな逡巡をも断ち切るようにアラリドはさらなる呪文を紡ぐ。


「《わたしは裁きの代行者。もしも裁きが誤りならば、お前を愛しく思う者が、そのまことの名を三度呼び、異議を唱えるであろう》」


 唱えたあと、アラリドは天に顎を向けて目を瞑った。

 まるで風が運んでくる誰かの声を聞き止めようとするように。

 誰かが、彼女の名を呼ぶのを待っているのだ。

 しかし、残酷なものにその時はけして訪れない。

 空には満点の星が輝き、静謐と、すすり泣きが広場に響いている。

 泣き声は次第に小さくなり、やがて途絶えた。


 アラリドが唱えたのは、あの残酷な《魂抜き》の呪文だった。

 

 ひとつ、流れ星が駆け抜けていく。


 うずくまったベロウの乾いた掌がアラリドへと伸ばされている。

 老いさらばえた指先は乾いた砂の色をしていた。

 干からびて絡まった白髪を、アラリドがそっと撫でてやると、黒いドレスを残して何もかもが砂のように崩れて行った。


 

*



 空にいくつもの流星が落ちていく。

 星の光に満たされ、アラリドを宿したメルの体が、青く、白く、瞬いている。


 それを囲んでいるのは、マジョアとトゥジャン、そしてヨカテル……かつての仲間たちだ。


 アトゥたちは疲れた体を教会の壁に預け、遠巻きにしている。


「いったいどうなってるんだ。ほんとうにアラリドなのか?」


 ヨカテルは再び、弱々しい声で呼びかけた。

 アラリドは笑顔をみせた。それは以前と全くかわらない無邪気な笑顔だった。


「そうだよ。みんなはぜんぜん変わってないね」


 ヨカテルは苦い表情だ。

 そこにいるのはようやく揃った仲間達である。

 けれどアラリドだけが過去にいた。

 ほかの三人はアラリドの知らない時代を越えて、そこに立っている。

 何も変わらないからこそアラリドはもうこの世のものではないのだと、三人は同時に感じ取った。


「メルを除いて、俺たちは年寄りだ」

「……そうだね。みんな変わってしまって、変わらないのはぼくだけだ」


 アラリドは肩を竦めてみせ、メルの体を借りてここにいることを説明した。


「都で起きた誘拐事件や、メルの魂をうばったのはぼくの力だ。ベロウがぼくの死体から魂を呼び抜いて支配していたんだ。メルが迎えに来てくれなかったら、ずっとこのままだったと思う」

「メルが《死者の国》だというのは正確な話なのか」


 トゥジャンが冷静に訊ねる。

 三人のなかで、いちばん平静を保っているのは彼だっただろう。

 それを見てとりアラリドは頷いた。


「冒険者専用のね。無意識ではあるけれど、メルはずっと使命を果たした冒険者や、道半ばで倒れた人たちの魂を迎え入れているんだよ」


 歩く天国だ、とアラリドは表現した。

 人の形をしているけれど、厳密には人ではない。

 かといって、ただの入れ物かというと、それも違う。


 人は死ぬと、魂だけが死者の国に迎え入れられる。

 そして輪廻する。

 けれど、メルが迎えた魂はちがう。


「彼らは普通の魂とはちがって、メルの力になって、ある意味生き続けているんだ。本人に自覚はないけど……」

「冒険者たちすべてがか?」

「ある程度、選抜はしているんだと思うよ。説明が難しいな……少なくとも、死者が望まなければいけない。でもこれはごく自然のことで、女神に反することではない。女神が決めたことだから」

「お前の言うことだ。魂の道行きが見えているんだろうな」


 アラリドは頷いた。


「今回は簡単に七英雄の魂を持って行かれてしまったけれど、今後はそういうことはないと思う。《魂抜き》ができるのは、ぼくとベロウのふたりしかいないから」

「夜魔術が今後、さらに発展したとしてもか」

「おそらく」

「悪いが、俺にも話をさせてくれ」


 ヨカテルは、懐から小さな絵画を二枚、取り出した。

 ひとつはイストワルの廃村で見つけたもの、もうひとつは生前のアラリドの持ち物だ。そこには、どちらも幼いアラリドの姿がある。


「アラリド、答えてくれ。昔、人を実験材料にしたと言ったそうだな。だが、それはベロウがしたことだ。違うか?」


 二枚の絵は繋がっており、並べると、廃屋のような孤児院の前で全く同じ顔を持つ二人が手を繋いでいる姿になった。


「そうだよ……《きょうだい》なんだ。双子のね」


 答えを聞き、ヨカテルは拳を握りしめる。


「そのことを俺たちにも黙っていたんだな」

「そういうつもりはなかった。妹と再会したのは、君たちに出会ってしばらくたってからだったんだ」

 

 アラリドもベロウも、優秀な夜魔術の使い手だったことは間違いない。

 けれど、再会したとき、ベロウはすでに取り返しのつかないことに手を染めていた後だった。


 誰よりも冒険者らしくないと言われていた錬金術師の表情に、長年、押し殺して胸に秘めていた想いが宿った。


 悲しみと怒りと、堪えてきた全ての感情だ。

 彼は少し離れたところに立ち尽くす老騎士に向き合った。

 睨みつけた、といってもいい。

 どこかベロウを思わせる、激しい怒りに満ちた瞳だった。


「マジョア……何も言うことはないのか? 俺は、お前たちがしたことを知っている。お前が殺したんだぞ、アラリドを。仲間だったのに……! これをみろ、あいつは俺たちの仲間だったんだ!」


 最後まで、と震える声で付け足した。


 襟元を掴み、殴ろうとした寸前で、迷いながら思い留まった。


 錬金術師の誇りと、あったはずの未来の重みに耐えかねて降ろされた拳をマジョアは避けるでも受け入れるでもなく、じっと見つめていた。


「いつかはこの瞬間が来るだろうと、どこかで感じていた。正しさだけでは切り取れない何かに自分も裁かれるときがくるだろうと……」


 重たく吐き出される溜息のような疲れた声で、マジョアは言う。


「すまなんだな、アラリド……」


 メルの指が、その目尻に浮かんだ涙をぬぐい取る。


「マジョア、君がしたことは正しかったんだ。正しさだけが人を導く本当のものだ。だから君を許すよ」

「しかし、ワシは間違えた。してはいけない過ちだったのだ」

「それでも許すよ。ぼくも間違えた。……ベロウの罪を、自分がかぶっていなくなれば……そうしたら、彼女も思い直すだろうと思ったんだ。悔やんで、過ちを正してくれるだろうって……ぼくが君たちと出会ったように、彼女も誰かと出会うことができるだろうって、そう思ったんだ」


 だが、その願いは虚しいものだった。

 ベロウはアラリドの魂を自分自身に縛りつけ、その能力をわがものにした。

 夜魔術を磨き上げ、罪なきものを殺し、そしてレヴに取り入った。

 七英雄の魂を手に入れて大陸を手に入れることを望んだのだ。


「ぼくは死者の国の門を内から閉じる。そうすれば、もう二度とこんなことは起きないはずさ」


 アラリドを取り巻いていた星の光が強くなった。

 さっきまで、はっきりとその存在を感じていた夜魔術師の姿が、ぼんやりと薄れていく。遠い記憶のように。


「行くんだな……」


 マジョアの声に、はっきりと頷く。


「楽しみだよ。また、メルといっしょに旅ができるんだからね」


 アラリドは最後のあいさつに、仲間たちそれぞれに寄り添い、離れた。


 また会おうね、と夜魔術師は言った。


 また、この広々とした世界のどこか。

 海の果て、星々の下で。

 悲しみも喜びも、過去も未来も、すべてが溶けあう場所で。


 星の優しい光がアラリドの体から去っていく。

 そして命の輝きが強く広場を満たした。

 光の波が引くと夜魔術師の姿はなくなって、ただメルだけが立っていた。

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