第74話 遥かなる △
「うっ!」
トゥジャンは一声呻いたあと、地面にうずくまった。
迷宮洞窟の最下層でのことだ。
ここは他の階層と違い周囲の壁は完璧な計算により美しく切り出された石材の組み合わせでできている。滑らかな石材の表面には、古代文字による最古の女神神話が記述されていた。
その静謐な雰囲気もあいまって、ここが遥かな昔、女神神殿だったのではと噂する者もいるが、冒険者たちの中でも限られた者しか足を踏み入れることができない領域であるため噂の域を出たことはなかった。
理由はわからないが、このあたりを徘徊する魔物たちは極めて強力で、いつの時代のものか判然としない魔術による罠も多い。
いつもなら頑丈な鎧で身を覆う戦士職は率先して仲間たちを守る役回りだが、呻き声を上げた仲間を庇うように、ほかの者たちは周囲に気を配った。
「どうしたマジョア、毒矢でも受けたか?」と地面に片足をつき、ヨカテルが錬金術の道具箱を開きかけながら訊ねる。
道具箱には解毒剤にもなる薬剤が大量に納められていた。
「止まらない……鼻水と、悪寒が。そして喉が痛くて熱っぽく、関節が痛む」
全員、顔を見合わせた。
ヨカテルは道具箱の蓋をしめた。
「風邪だ」
「流行の風邪だな」
「風邪だねぇ」
結論は速かった。
問題は、そこからどうするのかということである。
優秀な前衛を欠いたまま先には進めない。
かといって後に戻るのも一苦労である。
困り果てた仲間たちに、するすると近づく夜の影のようなものがある。
魔法のかかった衣をはぐ。
すると、その姿形がはっきりとする。
偵察に出ていたメルであった。
メルは短剣の血を拭うと、そっと鞘に納める。魔物と行き会ったのだろうと誰にも見当がついた。そしてそれは悪い報せでもあった。
「敵が近づいてる。どこかに隠れてやり過ごそう」
「どこかって、どこに?」
アラリドは溜息を吐きながら訊ねた。
メルは前後の闇を見渡しながら、じっと考える。
「そうだな……ここからなら、面白い場所があるよ」
見渡す限りガッチリと一部の隙もなく積まれた石壁の回廊が続いているのだ。
逃げ道はどこにもないように見える。
けれどもメルは自信のありそうな顔つきで、二倍はありそうな体格のマジョアを背負い上げた。
*
オリヴィニスの北の森に簡素な小屋が建っている。
掘っ建て小屋のようなものではなく、きちんとした住まいだ。周囲には魔物よけの呪いが張り巡らされており、煙突から煮炊きの煙が昇っているのが見えた。
住むのは薬師の老女と若い娘のふたりだということをメル以外の誰も知らなかった。
抜け道を使って旧市街に出たあと、街に戻って教会に駆けこむより早いと言ってメルが仲間たちを連れてきたのがここだった。
マジョアは鎧を脱ぎ、寝台に寝かされて額に氷嚢を当てられている。
メルは断りを入れてから湯を沸かし、洞窟から抜け出してきたばかりの仲間たちにお茶を淹れて配って回る。
ヨカテルは庭先に置かれたベンチに荷物と疲れきった体を降ろしている。葉巻を挟んだ指先は微かに震えていた。
そして、よく見ると荷物……と思われたのは杖に縋りついて青い顔をしたアラリドであった。
マジョアが倒れたあと洞窟を脱出できたのは二人の頑張りによるものだった。
「メル、こんな場所をよく知っていたな」
カップを受け取り、ヨカテルは枯れた声音を吐き出した。
「この小屋のことかい?」
「それもだが、抜け道のことさ。あんな場所のことをいつ知ったんだ」
「ああ……さあ、いつだったっけ。覚えてない」
メルはお盆を小脇に挟んで首を傾げると看病の手伝いに戻ってしまった。
「覚えてない……か。不思議な話もあるもんだ」
ヨカテルは眉を顰めた。
よい隠れ場所があるよ、と言ってメルが連れて行ったのは円筒形の広間のような場所だった。
出入り口は何一つ印のない回廊の途中にある。メルが並んだ古代文字をなぞると色が変わり、仕掛けが動いて部屋が現れる仕掛けだった。
その内部には石棺が円形に並んで置かれていた。紛うことなき霊廟である。
棺には絹に巻かれた遺体が納められ、副葬品まで添えられている。
ひとりではけしてたどり着けない迷宮洞窟の地下の、神殿跡と思われていたところにこのような墓があるなど、もちろんヨカテルをはじめとして誰も知らなかった。
「メルはね、迷宮洞窟から来たのよ」
振り返ると、薬師の娘が口元を押さえて控え目に笑っていた。
「おばあちゃんはそう言ってるわ。おばあちゃんのお祖父ちゃんからそう聞いたのですって」
猫を抱きながら揺り椅子でくつろいでいる老女は、皺も深く、齢九十歳は越えていそうだ。
「にわかには信じられん話だ」とヨカテルが半笑いに応じると娘は少し怒ったような顔つきになる。
「あら、ヨカテルさん。貴方みたいな若造は知らないでしょうが、お婆ちゃんは若い頃、腕利きの冒険者だったんだからね」
そう言って舌を出した。
メルの容姿は確かに若い。
だが病によって成長が止まってしまう例はほかにいくつもある。ヨカテルは幻想の種を理性によって振り払おうとした。だが、無視できない事実がいくつかあるのも確かだ。
霊廟でマジョアを休ませている間、ヨカテルは密かに副葬品を調べていた。
種類は剣に盾、杖に、短剣と鍵開け道具、女神の聖印や弓、朽ちた篭手。棺には死者の名前が削り取られたような痕跡があった。
少なくとも剣の装飾から、おそらく千年か二千年は前の遺体だ。
まさか、あれらは。
「七英雄の遺体……」
自分の内心を完璧に読んだような声がしてヨカテルは椅子から飛び上りかけた。
魔術の使い過ぎによって倦んだ瞳をしたアラリドが泥のような声音を吐く。
「迷宮は、もともと彼らの聖廟だったんじゃないか……って考えているでしょう? ヨカテル、どうだい」
「……起きてたのか」
気怠げな雰囲気ではあるがアラリドははっきりと頷いた。
「あの遺体たち、魂がなかった」
「それはそうだろう。死んでるんだからな」
ヨカテルの言葉にアラリドはゆっくり首を振った。
「死者の魂は死者の国へ行く。ぼくら夜魔術師は遺体を通じて魂のありかを探れるんだ。でも、彼らの魂はあるべきところになかった」
それは夜魔術師だけが見つめている闇夜の世界の話だった。
ヨカテルの錬金術は死者も魔術も利用はするが、その深い知識の世界に踏み入れることはない。
だからぴんとは来ないものの、その意味するところは薄々察しがついた。
「伝説の、七英雄の生まれ変わりだとでも言いたいのか?」
「それ以上だよ」
「だとしても、あいつがあいつであることに変わりはないさ」
アラリドの瞳は夜の国を越えて、何かはかりがたいものを見据えていた。
その瞳からふと険が消え、悲しげに眉尻が下がった。
「メルは、いつかぼくらのことを忘れてしまうのかな……」
答えようとして、ヨカテルは思い留まった。
メルがこの小屋の主と知り合いであることや、自分たちのほかにも仲間がいたことなどは、これまで聞いたこともなかった。最下層の霊廟のこともそうだ。
どうやら、メルは昔のことを覚えていない節がある。
普通の人間でも子ども時代の記憶は朧げだ。人はたとえ長く生きられたとしても、それほどには記憶を維持できないものなのかもしれない。
そして、そのことについてアラリドは半端な慰めを欲していないだろうとヨカテルは考えた。
オリヴィニスにやって来たときアラリドは痩せっぽちで孤独な少年だった。
その出自について誰もなにも訊ねなかったが、この子どもが消えても誰も悲しむものはいないだろうことは明らかだった。
才能が疎まれたか、夜魔術が嫌われたか、どちらもか。
そうでなければ田舎の魔術師ギルドに、こんな子どもがたったひとりで寄越されるはずがないのだ。
(時間が傷を癒してくれるといいが……)
庭先には薬草の小さな花が咲き乱れている。
暗闇と血錆のにおいで満ちている洞窟内とは雲泥の差だった。
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