第2話 待ち人アリス
ビリッと、紙を破る音がした。次いで、シュッという紙を折る音。そして最後に、ガサガサという……紙の袋に、紙を入れるような、そんな音がした。
室内は、カーテンで外光を遮られ、薄暗い。窓際に小テーブルが置かれているのが、辛うじてわかった。
小テーブルの上には花瓶が載っている。生けられた花はなんだろうか。わかり難いが……シルエットから察するに、バラのようだ。色まではわからない。
薄暗い部屋の中央に立った、すらりとしたシルエットの人物が、その花瓶のバラを見て、はあ、と深いため息を吐いた。
# # #
「ふあぁぁあ……」
時間は午前十時五分。ところは、あまり規模は大きくない駅前にあるそこそこ規模の大きな花屋、フラワーショップ・フェンネル。
アルバイト従業員の間島和樹は、店内に客が無いのを良い事に、盛大な欠伸を隠さずに吐き出した。今日は日曜、大学は休み。なのに自分は、朝からバイトときたものだ。
「……眠い……」
目に涙を溜めながら、ぼそりと呟く。昨日の夜、うっかり夜更かしをしてしまったのがまずかった。
姪っ子のお遊戯会を撮影したビデオの編集を安請け合いしたのは良いが、別に急いでいるわけでなし。深夜まで根を詰めてやる事は無かったと反省する。幼稚園児用に脚色された話が妙に面白くて、ついつい続きを見てしまったのが敗因だ。ちなみに、演目は「不思議の国のアリス」であった。四歳児にこの演目は厳しくないか、と思わずにはいられなかったが、存外よくできていて驚いたものだ。
「……眠い……」
再び大あくびをして、呟く。その頭を、後からパシンと軽く叩く物があった。
「こら、和樹君。もう開店してるんだから、シャキッとしてよ。店員が眠そうだと、花までくたびれてるように見えちゃうじゃないか」
「あ、すみません……」
更なる欠伸を噛み殺しながら振り向き、和樹は頭を下げた。目の前にいるのは、店長の乾洋一。手には在庫チェックのためか、クリップボードがある。恐らく、先ほど和樹の頭を叩いたのはこれだ。
謝りながらもまだ眠そうな様子の和樹に、乾はため息をつく。
「言っただけじゃあ、目は覚めないかぁ。……いっそ、三宅さんが来てくれると良いんだけどね」
「? 何で三宅さんなんですか?」
突然、同じゼミの同期生の名が出て、和樹は眠そうな目をしたまま首を傾げた。そんな和樹に、乾は苦笑しながら言う。
「だって、ほら。あの子のビンタ、すごい威力じゃない。あれを喰らったら、流石に目が覚めるでしょ」
その発言に、和樹は少々顔をしかめた。確かに、三宅のビンタの威力はすごい。和樹も、過去に何度か喰らってしまっている。それはもう、すごかった。叩かれた箇所に、紅葉マークができてしまうほどに。
痛みを思い出して少しだけ目が覚めたのか、割と素早い動きで頬を抑える。その様子に、乾が苦笑した。
……と、その時。カランコロン、と、ドアベルが軽快な音を立てた。客が来たのだ。乾と和樹はドアの方を振り向き、即座に笑顔を作る。
「いらっしゃいま……」
言いながら、和樹は硬直した。目の前にいるのは、一人の女性。今まさに話題になっていた、三宅友美その人だ。
「あれ、三宅さん。いらっしゃい。今日はまた、ずいぶんと早いねぇ」
笑いをかみ殺しながら言い、乾はちらりと横目で和樹を見た。あまりのタイミングに、目が開いたまま固まってしまっている。とりあえず目は覚めたようだから良いか、と、乾は視線を三宅へと戻した。
三宅は和樹の様子を不審げに見てから、少しだけ遠慮がちに問うた。
「おはようございます。……あの、乾さん。今日って、忙しくなりそうですか?」
「え? いや、今日は花束の予約も入ってないし、お墓参りや入学・卒業の時期でもないから、そんなに忙しくはならないと思うけど。……何で?」
問われて、三宅はどこか申し訳なさそうな顔をした。
「じゃあ、もしご迷惑でなければ……ちょっと間島君をお借りしたいんですけど……」
「へ?」
「え?」
怪訝な顔をする二人に、三宅はハッと表情を変えると、首と手をブンブンと振った。
「あっ! 変な意味じゃないですよ! ただ、ちょっと相談に乗って欲しいというか、知恵を貸してほしくて! こないだみたいに!」
「知恵? あぁ……」
納得したのか、乾はポンと手を打った。以前和樹は、三宅と仲の良い知人が持ち込んだ相談――暗号を見事解いてみせた事がある。恐らく、その時の事を言っているのだろう。
「え? って事は、また……?」
首を傾げる乾に、三宅は頷いた。そして、ドアの外に視線を遣る。
「忙しかったら悪いと思って。……実は、もう店の外まで来てもらっちゃってるんですけど、入ってもらっても良いでしょうか……?」
どうやら、謎を抱えているのはまたしても三宅自身ではなく、三宅の知人らしい。乾は、にっこりと笑って「良いよ」と言った。
「お客さんが来た時にはちゃんと手伝ってもらわなきゃ困るけどね。この前みたいな話だったら、僕もちょっと興味があるし」
「え、ちょっと乾さん……俺に相談に乗るかどうかの確認は……?」
「いや、多分頼まれたら和樹君は断れないだろうし」
断言する乾に、和樹はがくりと項垂れた。それを和樹の肯定ととったのだろう。三宅はドアを開け、外に向かって「入って」と声をかけた。すると、待ちきれないという様子で、二人の男女が入店してくる。
女性は、和樹や三宅と同じぐらいの年頃だ。恐らく、大学生だろう。男性の方は、和樹の七つ年上の兄と同世代のように思える。二人はどこか面立ちが似ている。兄妹だろうか?
気になる点が、いくつかある。女性の方は不安そうな顔をしている。男性はどこか憔悴したような顔をしている上に、今から海外旅行にでも行くのかと問いたくなるような大荷物を持っていた。
「……えーっと……」
和樹の心中を汲んでか汲まないでか。三宅が二人をそれぞれ指差しながら紹介した。
「紹介するわね。こっちは村上美月ちゃん。バイト先の後輩なの。それで、こっちは美月ちゃんのお兄さんで、村上真一さん。……察しはつくだろうけど、今日相談に乗ってもらいたい事っていうのは、この真一さんなの」
村上兄妹が、揃って頭を下げた。仲は悪くなさそうだな、と、和樹はぼんやりと考える。
「それで……相談というのは?」
問うと、真一が「あの……」と口を開いた。
「時間と場所を、知りたいんです」
「……時間と場所?」
乾が首を傾げると、真一は頷いた。
「えっと……僕はおもちゃの問屋に勤めていまして……その取引先の一つに、あるおもちゃ屋があったんです」
言いながら、真一は「あっ」と小さく叫んだ。そして、慌てて懐を探ると、名刺入れを取り出した。そして、名刺を一枚ずつ、乾と和樹に手渡してくる。
「あ、これはご丁寧に……」
同じように慌てて名刺を受け取り、乾も名刺を探そうとエプロンのポケットをまさぐる。それを、真一は制止した。
「あっ、良いんです。その名刺も……ひょっとしたら、もう使わなくなるかもしれませんし……」
「? どういう事ですか?」
乾の問いに、真一は一度目を伏せた。そして、ぽつり、ぽつりと呟くように言う。
「その、おもちゃ屋にですね……有住そうび、という女性の店員がいたんです」
「ありすみ……そうびさん、ですか?」
和樹がその名をなぞると、真一は頷いた。
「変わった名前ですよね。友人達にはアリス、と呼ばれていたそうです」
「アリス……?」
「はい。その……そうびとは仕事を通じて仲良くなって、その……」
「お兄ちゃん、回りくどい言い方してないで。今はもう恋人同士の関係なんだって言っちゃえば良いじゃないの」
痺れを切らしたのか、美月が呆れ顔で言った。
「そうびさんはおもちゃ屋のカードゲームコーナーの担当で、お兄ちゃんの会社もカードゲームが特に得意なんです。それで、よく話すようになって。そのうちにお兄ちゃんがメロメロになっちゃって」
「美月!」
非難するように言う真一に、美月は「本当の事でしょ」とやや冷たく言った。何だろう……三宅と言い、美月と言い。彼女達が働く本屋には、基本的にキツイ人間しかいないのだろうか。
「あ、私は別に、お兄ちゃんとそうびさんが恋人同士になった事に反対はしてませんよ。そうびさん、綺麗だし優しいしお茶目だし、女性なのに背が高くって、ハスキーボイスでカッコ良いし。将来のお義姉さんとしては申し分無し。お義兄さんとしても申し分無し? むしろ、お兄ちゃんよりもそうびさんの方がお兄ちゃんなら良かったのに、とか……」
「そこまで言うか!? ……けど、そうなんだよなー。そうび、綺麗なだけじゃなくって、カッコ良いんだよなー。なのに可愛い物とかも好きで、そのギャップがまた良いんだけどさー」
「いや、その……そのそうびさんが大変素晴らしい女性で、兄妹揃って惚れ込んでるのはわかりました。それで、相談内容というのは、そうびさんに関わる事という事で良いんですよね?」
あらぬ方向へ流れていきそうになった話を引き戻そうと、和樹は口を挟んだ。村上兄妹は「あ」と言って照れ臭そうにする。そして、そのまま二人揃って暗い顔をした。
「そう……そうなんですよ……」
「実は……そうび、最近連絡が取れなくなってしまって……。店に確認してみたら、辞めたとか言うし。……実家に帰ったのか、アパートも引き払っていて……」
真一の話に、和樹と乾は「えっ」と声をあげた。
「それ……大丈夫なんですか!?」
「あんまり考えたくないけど……何か事件に巻き込まれて、実家にも帰っていない……なんて事は」
「あ、それは大丈夫みたいよ。そうびさんから手紙が来たみたいだし」
手をひらひらと振りながら、三宅が口を挟んだ。すると和樹達は揃って「手紙?」と言いながら真一の方を見る。真一は頷き、鞄から封筒を取り出した。薄桃色の綺麗な封筒だ。ちゃんとポストに投函された物らしく、切手と消印の存在が確認できる。
「一週間前に届いたんですが……消印はそうびが働いていたおもちゃ屋の近くで、字は確かにそうびの物でした」
「……拝見しても?」
和樹の問いに、真一は頷いた。そして、封筒を差し出してくる。和樹はそれを受け取ると封を開き、中の物を取り出した。折りたたまれた便箋が一枚。そして、トランプが二枚入っている。トランプは一枚がハートのクイーン、もう一枚はスペードの2だ。スペードのカードは、真ん中で破られてしまっている。
「……これは……?」
破れたカードに眉をひそめて、和樹は真一の顔を見る。真一は、力無く首を横に振った。
「……わかりません。それに、何の意味があるのか……。ただ、それよりも問題なのは、その便箋の方で……」
暗に中を見る事を促され、和樹は折りたたまれた便箋を開いた。綺麗な字で、何事かが綴られている。和樹は真一に視線を向け、互いに頷くとその内容に目を通した。
真ちゃん、突然いなくなってしまってごめんなさい。
けど、このまま一緒にいると、私はきっと、あなたの事を不幸にしてしまう。だから、あなたの前から姿を消そうと思いました。
なのに、離れてからも、真ちゃんの事を忘れる事はできなくて……。
だから私は、一つ、賭けをしようと思います。
私の誕生日、下記の時間、下記の場所で、私はあなたを待ちます。もしあなたが、何があっても私と一緒にいてくれると言うのなら……私はもう一生、あなたの傍から離れません。ですが、もしあなたが来なければ……私は、今度こそあなたの事を忘れようと思います。
……勝手な事を言う私を、あなたは許してくれるかしら?
美月ちゃんにも、せっかく仲良くなったのに、こんな事をしてしまってごめんなさいと、伝えてください。
それでは、私の誕生日、再びあなたに会える事を願って……。
上半分は、そうびから真一への言葉が綴られている。そして、下半分を見て、和樹は「むっ……」と唸った。
「何、和樹君。どうしたの?」
和樹の様子にただならぬものを覚えたのか、乾が便箋を覗き込んできた。そして同じように、「うっ……」と唸る。
便箋には、ただ場所と時間が記されているのではなかった。
月の盤上 短い針が
12の札の 時刻む
一巡りすれば日が昇り
二巡りすれば夜が更ける
江戸の藤月 誰ぞ彼
カキツバタ咲く鳥の巣の
海へと飛び立つ扉の前で
期待を胸に 君を待つ
「これは……暗号?」
乾が呟き、真一が「恐らく」と頷いた。
「一人で考えてみても、まったくわからなくて。美月にも相談してみたんですが、やっぱりわかりませんでした」
「それで、私がバイト中、友美さんにその話をして。そうしたら、このお店を紹介してくれたんです」
美月の言葉に、三宅が頷いた。
「間島君、前に暗号を解いてみせてくれた事があったし。それに……ほら。この暗号も、藤とかカキツバタとか。花の名前が入っているでしょ?」
「あぁ、それで……餅は餅屋、花は花屋、って?」
三宅は乾の言葉に頷き、そして視線を和樹へと向けた。
「それで……どう、間島君? 解けそう?」
「そうだなぁ……」
便箋を眺めながら唸る和樹に、真一がサッと顔を曇らせた。
「そんな……何とか頑張って解いてくださいよ! それが解けないと、そうびが待っているのがどこなのか、何時なのかが全然わからないんです! 行く事ができなければ、そうびと二度と会えなくなってしまう! それは嫌です! 僕はそうびと一緒にいたい! もしそうびがどこか遠くへ行くつもりなら、僕は絶対についていきます! それぐらい、そうびを愛しているんです! 二度と会えないなんて考えられない……お願いします!」
息継ぎもなしに一気にまくし立て、頭を下げる。その様子に少々引きながら、乾がこの妙な雰囲気を何とかしたいのか、話しかけた。
「えーっと……じゃあ、その大荷物はひょっとして……そうびさんが遠くへ行く場合はついていくための……?」
真一は頭を上げ、「はい」と言った。
「数日分の着替えと、行き先が海外だった場合に備えてパスポート。それから、通帳と印鑑と……」
その発言に、村上兄妹以外がギョッとした。
「え、ちょっと……貴重品をありったけ……?」
「道理で荷物が大きいわけだ……」
「真一さん……それついていったとして……仕事、どうするんですか?」
「そうびと会う事ができて、一緒に遠くへ行く事になったら……仕事を、辞めるつもりでいます。新天地から、電話して……」
「いや、それ社会人としてどうかと思うんですけど……」
乾がツッ込み、その横で和樹は首を傾げた。顔が、どことなく引き攣っている。
「えーっと……あの、あんまり聞きたくないんですけど……その大荷物を今持っている、という事は、ひょっとしなくても、その……そうびさんの誕生日というのは……」
「えぇ、今日です」
あっさりと頷く真一に、和樹はくはぁ……と深いため息をついた。つまり、今すぐにこの暗号を解かなければ、アウト。解けたとしても、場所が遠く、待ち合わせ時間に間に合いそうになければやっぱりアウト。そしてそれ以前に、現時点で既に待ち合わせ時間を過ぎていたらお話にならない。
何でもっと早く相談に来ないのか。……いや、まず解けるかどうかがわからないが。じとりと目を座らせながら、和樹は再び便箋と、二枚のトランプを眺める。
そして、数分か、十数分か。周りの者達がはらはらと見守る中、ついに「ん?」と表情を変えた。そして、真一に目を向ける。
「真一さん、確かカードゲームに強いおもちゃの問屋にお勤めで、そうびさんはおもちゃ屋のカードコーナー担当でしたよね?」
「は、はい……」
緊張気味に頷く真一に、和樹は「んー……」と唸ると、更に問う。
「カードゲームって言うと、やっぱりあれですか? デュエル開始! みたいな事するバトルカードと言うか、トレーディングカードみたいな物が置いてあるんでしょうか?」
「え? えぇ。そうびが働いていた店ではトランプや花札、かるたとか百人一首も置いてありましたが、やっぱり主力商品はトレーディングカードでしたね」
「そうですか……と、いう事は……」
ブツブツと呟きながら、和樹はバックヤードへと入ってしまう。
「え、ちょっと……和樹君!?」
慌てて乾が追いかけると、和樹はバックヤードのパソコンの前に座り、何やらマウスを操作している。どうやら、何か検索をしているようだ。
「……和樹君?」
乾の問い掛けに、和樹はぴたりとマウスを動かす手を止めた。そして、くるりと椅子ごと振り向くと、乾にニッと笑って見せた。
「何とかわかりそうですよ。それに、俺の考えが間違っていなければ……真一さんは、そうびさんとの待ち合わせ時間に遅れずに済みそうです」
「本当!?」
「えぇ」
頷くと、和樹はすっくと椅子から立ち上がる。その時、店の方からカランコロンという軽快なベルの音が聞こえた。どうやら、三宅達以外に客が来たようだ。
「あ、いけない! ……和樹君、発表するのは、ちょっと待っててよ。僕も、その暗号が何を示しているのか、知りたいんだから!」
そう言い置くと、乾は慌てて店の方へと駆けていく。その後ろ姿を苦笑しつつ眺めてから、和樹は渋い顔をした。
「ただ……俺の考えが本当に全部合ってたとしたら……。ちょっと、厄介な事にもなりそうだなぁ……」
# # #
和樹が店に戻ると、丁度客が花束を抱えて店から出て行くところだった。ドアが閉まり、ドアベルがカランコロンと軽快な音を立てる。
「ありがとうございました! またお越しください!」
帰る客に声をかけてから、乾がくるりと振り向き、和樹の方を見る。
「……で、和樹君。暗号、解けたんだよね?」
「えっ!?」
先ほど店内に残されていた三人に、波紋が広がった。
「解けた……んですか? 本当に!?」
「えぇ、多分。……時間が惜しいですから、ちゃっちゃと説明しちゃいますね」
そう言うと、和樹は先ほどの便箋の、暗号の部分を指差した。
「まず、わかりやすいところから解説していきます。「月の盤上」はとりあえず置いておくとして、「短い針」。これは、単純にアナログ時計の短針の事だと思います。これが何を表しているかと言えば、待ち合わせ時間は何時何十分、とかではなく、ぴったり何時、となる。……これは良いですか?」
一同が、頷く。和樹も頷き、説明を続けた。
「この「札」というのが何かはひとまず置いておきまして。12の時を刻む、一巡りすれば日が昇り、二巡りすれば夜が更ける……という書き方から、この時計が一般的な、一回り12時間の時計だという事もわかります。短針が一巡りすれば正午で、もう一巡りすれば深夜ですからね」
ここで和樹は「さて」と言った。
「これで待ち合わせ時間は、24分の1にまで可能性が絞られました。じゃあ、何時か? そのヒントは、これです。「江戸の藤月」……真一さん、藤月という単語に、聞き覚えは?」
問われて、真一は「えっ」と目を丸くした。そして、少しだけ考えてから……「あっ」と叫ぶ。
「花札……ですか?」
和樹は、頷いた。
「さっき、ネットで調べてみました。花札というのは、12か月折々の花が描かれているそうですね。花暦、というものが元になっているんでしたっけ?」
真一は「そうです」と頷いた。
「ここで、さっき一旦置いておいた「月の盤上」「12の札」の意味がわかってきます。月の盤上……つまり、一巡りすると12か月が過ぎるように。1から12までの数字には、花札の札を当てはめる。そうびさんはおもちゃ屋で、花札やトランプも扱っているカードコーナーの担当。そして真一さんは、カードゲームを得意とするおもちゃの問屋にお勤めです。あなたなら、藤月が花札の事だと気付けると思ったんでしょう」
実際には、ヒントが必要ではあったが。確かに、真一は藤月が花札の事だとはわかった。
「じゃあ、この藤月の札が当てはまる数字が、そうびさんが待ち合わせに指定した時間、という事ですか?」
美月の問いに和樹が頷くが、それに対して真一の顔はまだ不安そうだ。
「け、けど……花札や花暦の歴史は長いんですよ? 時代が変わるにつれて暦は変化して、花も多様化して……。その文章が花札の事を指しているのか、元になった花暦の事を指しているのかもわかりませんし。藤月と言っても、それが特定の月を表す事には……」
「だから、「江戸の」と書いてあるんじゃないですか」
和樹に言われ、真一は「あ」と間抜けな声を発した。和樹は、苦笑する。
「江戸の……江戸時代の事なのか、東京という地域を指しているのか。……まぁ、さっき真一さんが仰ったように、暦が変化した事によって、担当する月が変わった……という事を考えれば、江戸時代に使われていた花暦の藤月……と考えるのが妥当でしょうね。……真一さん、江戸時代の花暦で、藤月は何月ですか?」
真一は、少しだけ思い出すしぐさをすると、恐る恐る、と言う風体で口を開いた。
「し、四月……です……」
「じゃあ、指定された時間は四時?」
美月に頷き、和樹は「多分」と答えた。
「けど、四時って言っても……午前と午後、どっちの? 午後なら良いんだけど……午前なら、完全にアウトだよ?」
乾が口を挟んだ。すると、三宅と美月が呆れた顔をし、和樹が苦笑する。
「あの……普通に考えたら、午後じゃないですか? 午前四時じゃ、まだ電車も動いてないですし……」
「いや、けど、あえてそういう時間を狙うかもしれないじゃないか!」
美月に慌てて反論する乾に、和樹は乾いた笑いを発し、そして三宅に視線を向けた。
「三宅さんなら、わかるんじゃない? 何せ、同じ文学ゼミの仲間だし」
「そうね……」
呟き、三宅は乾達が静まるのを待ってから答えた。
「午後の四時、でしょ? ヒントは、「誰ぞ彼」……違う?」
「誰ぞ彼?」
首を傾げた乾と真一に、三宅は頷いた。
「夕方の時間帯の事を、黄昏時って言ったりするじゃないですか。あれの語源は、夕方薄暗くなり、相手の顔もわからなくなってしまって。誰なのかを問う必要があって「誰ぞ彼」と言うような時間帯だから……だと言われています」
「誰ぞ彼……たれそかれ……たそかれ……たそがれ……あぁ!」
納得したのだろう。乾が、ぽんと手を打った。
「そういう事か! 誰ぞ彼、だから、黄昏時。つまり夕方で、午後の四時!」
和樹は頷いた。ちらりと真一を見てみれば、ホッとした表情をしている。時間的にまだ余裕があるとわかり、心にゆとりが生まれたのだろう。
「じゃあ……あとは場所ですね。いくら時間に余裕があっても、ものすごく遠い場所じゃ結局間に合わないですし」
美月の言葉に、真一の顔が再び緊張した。不安げな真一に、和樹はニコリと笑って見せる。
「大丈夫、まだ時間はありますよ。……俺の推理が正しければね」
言いながら、便箋を真一に返した。
「これも、わかりやすいところから説明します。まずは、鳥の巣。これは単純に鳥と考えるよりも、空を飛べるもの……として考えてみた方が良いと思う。巣というのは、その飛べるものが集まって、羽を休める場所だね。……さて、この鳥というのは、何だと思う?」
そう言って、和樹は窓の外を指差した。指は少々上を向いていて、空を指している。白い飛行機雲が見えた。
「……ひょっとして、飛行機?」
「じゃあ、鳥の巣っていうのは、空港!?」
乾と美月の予想は正解だったのだろう。和樹は頷いた。
「さて、空港と言っても広いです。港内に施設もたくさんある。……ただ、海へと飛び立つ扉とは? ……俺は、国際線の搭乗口の事じゃないかと思います」
「そうか……島国の日本から外国へ行くなら、必ず海に向かって飛び立つ事になる。外国の事を海外っていうぐらいだしね。その飛行機に乗り込むための場所だから、搭乗口が扉、か……」
「けど……どこの空港? 普通に考えたら、県内の空港だろうけど……。でも、そうびさんにとって県内の空港が身近かどうかまではわからないし……」
乾が頷き、三宅が困惑した顔になる。和樹は「心配ご無用」と笑って言った。
「それを解くヒントが、この「カキツバタ咲く」って文章だよ。これを見る限り、そうびさんが待っている空港はカキツバタと関係がある空港だと考えられる。けど、空港にカキツバタなんて咲いているものかな? ……と考えれば、あと思い付くのは……シンボルとか」
「シンボル? ……あっ」
真一が、気付いたようだ。和樹はニコッと笑い、その答を促す。
「県花……ですか?」
和樹は頷いた。「そう」と言って、話を続ける。
「ご存じとは思いますが、カキツバタはここ、愛知県の県花です。そして、他にカキツバタを県花にしている県は無い。つまり、この文章に示されているのは愛知県内にある空港……そういう事になります」
「でも、愛知県内の空港って言っても、二か所あるわよ?」
そう。愛知県には空港が二つある。名古屋飛行場――通称、県営名古屋空港と、中部国際空港――通称、セントレアだ。県営名古屋空港の所在地は愛知県西春日井郡。セントレアは、常滑市沖伊勢湾海上。少々距離がある。どちらか片方に行って外れた場合、急いでもう片方へ向かっても間に合うかどうかわからない。
「……いや、それは大丈夫なんじゃないかな?」
乾が、何事かを思い出すような顔をしながら言った。
「確か、県営名古屋空港の方は、現在国内線にしか使われていないはずだよ。そうびさんが待っているのは、和樹君の推理が正しければ、国際線の搭乗口……なんだよね?」
和樹は頷き、肯定した。
「そうなんです。昔は名古屋空港しか無かったので国際線も通っていましたが、セントレアができてからは国内線のみになっているらしい。つまり、乾さんの推理の通り。そうびさんが待っているのは、中部国際空港の、国際線の搭乗口……という事になります。……流石に、何番搭乗口なのかまでは、虱潰しに探さなきゃいけないでしょうけど……」
「それだけわかれば、充分です! ありがとうございます! ……あっ、せっかくですから、バラの花束をお願いします! 百万本とまではいきませんけど、これで買えるだけの量を!」
「え? あ。ありがとうございますっ」
真一から渡された一万円札を丁重に預かり、乾が急いで花束を作り始めた。その様子を頬を紅潮させながら眺めている真一に、和樹は恐る恐る声をかけた。
「あ、あのー……ところで、真一さん?」
「間島さん、本当にありがとうございます! 相談して本当に良かった! ……あ、三宅さんも。ありがとうございます! こうして間島さんを紹介して頂けたお陰で、無事にそうびと会う事ができそうです!」
「ちょっとお兄ちゃん。まず、友美さんに相談したのは私なんだけど?」
「そうだった、そうだった。ありがとな、美月! そうびにも話しておくよ。お前のお陰で、こうして会う事ができたんだって!」
「あの……ちょっと、真一さん……」
「お待たせしました。花束、できましたよ」
和樹が話を切り出せないでいるうちに、乾が花束を完成させてしまった。それを受け取った真一は、お釣りを受け取る時間ももどかしいと言わんばかりに、あっという間に大荷物とバラの花束を抱えて飛び出して行ってしまう。カランコロン、と、ドアベルが軽快な音を立てた。
「あぁ……行っちゃった……」
和樹が床に膝をつき、苦い物を噛み潰したような顔で言う。やっと和樹の様子がおかしい事に気付いたのだろう。乾と三宅、美月は不思議そうに和樹を眺めた。
「……和樹君? どうしたの?」
「お腹でも痛いんですか?」
「そう言えば、さっき真一さんに何か言おうとしてたわよね? 何? まさか今更、やっぱ違います、推理が間違ってました、なんて言わないわよね?」
「違うよ……そういう事じゃなくて……」
言いながら、和樹はレジ台の上を指差した。そこには、便箋と一緒に封筒に入っていた物。二枚のトランプ――内一枚は破れている――が置かれていた。
「あっ……これ。返し忘れちゃったねぇ」
「そう言えば、これの意味はまだわかってなかったわよね。……何? 間島君、これも解くまでは真一さんに行かないでほしかったとか?」
「案外、自己顕示欲旺盛なんですね」
「違う……いや、最後まで聞いてほしかったのはそうなんだけど、そうじゃなくて……」
「?」
意味がわからず、三人が首を傾げる。どことなく、和樹の顔が青くなっているのが気にかかる。
「……そうびさんのフルネーム……有住そうびさんで、お友達からはアリス、と呼ばれているんでしたよね?」
「? ……はい」
怪訝そうに、美月が頷いた。
「それで……そうび、っていうのは、バラの事です。……そうですよね、乾さん?」
「ん? ……あぁ、そういえばそうだね。……あ、だから真一さん、バラの花束を買っていったのかな?」
「……そうかもしれません。……それで、三宅さん。アリス、バラ、トランプ、ハートのクイーンで思い出すものと言ったら……?」
「……あ。ひょっとして、不思議の国のアリス?」
和樹は頷き、口を開いた。何やら、歯がカチカチと震えて鳴っているようにも聞こえるのだが大丈夫だろうか。
「そう……恐らく、あの二枚のトランプは不思議の国のアリスの、あるシーンを再現しています。そして、そのシーンとは?」
姪っ子のお遊戯会のビデオで、昨夜観たばかりだ。
「スペードの2のトランプは破られていた。……数字は、絵札とエース以外の札なら何でも良かったのかもしれませんが、トランプの兵隊に見立てたものでしょう。そして、破られていた、という事は、そのトランプの兵隊が死んでしまった事を意味するのでは……と思うんです。じゃあ、ハートのクイーンの傍らで、トランプの兵隊が死んだシーンと言えば?」
「確か……トランプの兵隊――正確には庭師ね。……彼らが、女王のバラに色を塗ったから、という理由で死刑になったのよね? そのシーン、って事?」
和樹は、息苦しそうに頷いた。そして、声を絞り出すように言う。
「トランプの庭師は何故バラに色を塗ったのか? 女王は赤いバラが好きなのに、間違えて白いバラを植えてしまったからです。白いバラである事を隠すために、庭師はバラを赤く塗ろうとした」
「……それで? それが今回、どういう意味を持つんですか?」
もったいぶるな、と言うように、美月が問う。和樹は、ごくりと唾をのみ、思いつめた顔で言った。
「……日本では、男性を白、女性を赤で表す事が多いですよね? 紅一点という言葉もありますし、年末になれば紅白歌合戦なんて番組もある。それを踏まえて、もう一度考えてみてください。白バラを誤魔化すために赤いペンキを塗った。そんなシーンを、そうびさんがわざわざトランプで再現して送ってきたのは、一体何故か……?」
「……え?」
三人が、同時に呟いた。そして、しばし考えたのち、同時に「あっ……」と叫ぶ。全員、顔が引き攣っている。言いたい事が伝わった事で少しだけホッとしたのか、やや持ち直した顔で、和樹は頷いた。
「そう……恐らく、そうびさんは女性じゃない。……いや、心は女性なんでしょうけど。今回突然姿を消したのも、それがそうびさんの中で気にかかっていたから。かと言って、ストレートに告白する事も躊躇われ、こうして真一さんに手紙とトランプを送ってきた……そんなところなんじゃないでしょうか? そして、真一さんが待ち合わせ場所に向かうという事は……そうびさんの決死の告白を受け入れたというサインにもなる……!」
「……!」
美月の顔が、真っ青になった。そして、慌てて外へ飛び出すと、兄が行ったであろう道を駆けていく。
「お兄ちゃん、ストップ! ちゃんと受け入れる気持ちを整えてから行かなきゃ駄目ーっ!!」
扉が閉まり、美月の叫び声はシャットアウトされ。ドアベルがカランコロンと軽快な音を立てた。あとに残された三人は、微妙な面持ちで閉まった扉をいつまでも見詰めている。
「……真一さんとそうびさん、どうなるのかしら……?」
「わからないよ。……俺としては、美月さんが真一さんに追い付いて、変な修羅場になったりしないよう、上手く立ち回って、丸く収めてくれれば良いなーとは思ってるんだけど……」
「あぁ、今も否定的ではなかったしね。上手い事、誰も不幸にならない展開になってくれると良いんだけどねぇ……」
「そうですねぇ……」
何やら悟ったような顔をして。乾と和樹は通常業務に戻っていく。三宅も、困惑しながらも帰路に就いた。
とりあえず、今日帰ったら、兄貴に頼まれているビデオの編集を終わらせてしまおう。レジ台の整理中にハートのクイーンを何気無く手に取り、眺めながら。和樹はぼんやりとそんな事を考えた。
(了)
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