恋滝参りひと。男連れ

「遅ぇぞぉお、おーい。」

 間伸びした声で、秦野祝は叫んだ。下から一足ずつ上がってくる親友の相坂清己を見下ろして、あっけからんと笑いを浮かべる。


 恋人ヶ淵。いつの間にかそう呼ばれ、数年前に索道が整備されたこの清滝淵は、今や実らぬ恋が成就するという、恋人達の間で押しも押されもせぬ観光スポットとなっていた。


 彼は一升瓶を片方の手に、反対の手には季の花を束にして持ち、歩いている。秦野の持つ手桶と合わせると、男二人、何とも滑稽だ。

「ほれ、あと一足だ。」

 秦野の掛け声に、不機嫌に視線を反らす。大の男のごねる仕草に、ゲラゲラ秦野は笑い転げた。

 相坂はそんな悪友秦野の下品な姿に、嘆息を吐く。

 祝と書いて、はじめ、と読む。あっけからんとした明るい性格で、気が置けない間柄だ。そのせいもあってか、付いた渾名が「お祭り男」。揶揄も十分含まれているが、当の本人は気にしていない。

「おう、御到着。」

 ニヤつきながら、秦野は相坂を出迎えた。


 滝壺へと流れ落ちる清龍滝の轟音が、辺り一面に木霊していた。







 流石に、休日に此処へ来たのは失敗であった、とお互いに顔を見合わせる。相坂も苦い顔で辺りを見回し、秦野は目を眇めて困ったという顔をした。

 至る所にいるカップルに混じっての、喪服姿の男二人連れは、異様に目立ちすぎる。

 気恥ずかしさに俯く一方の相坂と違い、秦野は意気揚々と目的の場所に陣取った。

「ほれ。」

 転落防止に取り付けられた淵の汀の柵の前に、堂々と腰を下ろす。無論ベンチがある訳ではない。相坂はそんな秦野に呆れつつも、諦めた様に同じく腰を下ろした。


 初めは神妙なこの清滝淵詣でも、今は只の行楽に近い。

 秦野は懐から盃を三つ、取り出してコンクリートで固められた地面に並べる。そして相坂から奪うようにして手に取った一升瓶を開けて、中の透明な液体を盃に満たしていった。

「なぁ清己。これ、お前んトコの御神酒か。」

 頷くだけ頷いて、盃の一つを手に取る。秦野も黙ってそれを見ていた。クッと一気に飲み干すと、芳醇な味が口腔に広がった。

 相坂に次いで秦野も飲み干す。残された三番目の盃は柵の前に置かれた。

「…しっかし、此処も随分変わったよなぁ。」

 二杯目三杯目と、酒を煽りながら秦野が言った。相坂も黙ってそれに続く。

 道が新しくなる前に来て以来だ。それまでの頼り無く暗い沢道が嘘のように、明るく様変わりしている。

 前の方が風情があったな、と馬鹿げた笑い声を立てて秦野は六杯目をぐびっと喉口に煽った。

 傍迷惑な、と注がれる視線などものともせず、奇っ怪な酒盛は続いていく。

「こうなると、つまみが欲しくなるよなぁ。」

「持ってないぞ。」

 俺に集るな、とちびちび飲む相坂は、睨む様に秦野を窘めた。

 んな事は分かっている、と言いたげに秦野は相坂を睨み返し、そして別のものを肴に引き出した。

「今やあいつも神様だってな。」

 柵の向こうで渦を巻く流水を顎でしゃくり、感慨深げに呟いて見せる。誰を指しているかは言うまでもないが、相坂自身は否が応にも体が反応して動揺を隠せなかった。

 文句を言いたげに再度睨む相坂に、秦野はフフンと鼻で笑って返した。

 捧げられた三つ目の盃の主は、今もこの淵の底に眠っている。それを想えば、どうしても相坂の胸から痛みが消えない。


 この轟迂川の中流域にある清龍滝が有名になったそもそもの原因は、マスコミに取り上げられたあの一言からであった。

『水の中で立っている人が、私達を岸の方へ押し上げてくれたんです。』

 そんな事を言って生還した現代のロミオとジュリエットの心中未遂事件。この騒動を切っ掛けに、見事二人はめでたくゴールインしたらしい。

 程好く小さな龍神を祀る祠もあり、あの水中の人影はきっとその龍神様の化身だと、噂に尾ひれが幾つも追加され…それ以来、やれ観光の目玉になるだの、人が来やすい様に整備しろだの、地元も飛び付いてこんなことになってしまったのだが。

「今頃きっと、煩い、ってほざいたりしてな。」

 確かに、眉間に皺を寄せていそうな、秀麗な顔が目に浮かぶ。


「あの、邪魔なんですけど。」

 多分此処に観光に来たカップルなんだろう。気の強そうな女性が、わざわざ文句を言いに寄って来た。その向こうで、カメラを手に情けない笑顔で頭を下げる優男が立っている。

 仕方ないな、と相坂は退く為に腰を上げ掛けた。だが秦野がそれを遮る様に、彼女に強く言い放つ。

「悪いがな。俺らの酒盛はこうなる前から、此処でするって決まっているんだ。」

 あっち行け、と言わんばかりに秦野は彼女を追い返した。ついでに茶化して、会話を相坂にも無理矢理振る。

「恋の龍神様の想い人を邪険にすると、バチが当たるぜぃ。」

 なあ、と同意を求められて、一発殴ってやろうかと、本気で相坂は拳を握った。その様子に流石の秦野も慌てて、被せるように弁を返す。

「おいおい、冗談だろ? 想い人の件は事実じゃねぇか。」

 更なる秦野の余計な一言に、尚険悪な空気が漂った。互いに譲らず、暫し妙な睨み合いが続いた後、二人は同時に酒を煽った。

 彼女は変人を相手にしたと思ったか、愚痴りながらも離れて行った。

「役所からクレームくるぞ。」

「いいじゃねぇか。お前の事を知らん奴の方が、この町では潜りだし。」

 トクトクと空になった相坂の盃にも酒を注ぎ、手酌で秦野も盃を満たす。重ね合わせた盃の音は、まるで鈴の音のように淵の水面に静かに響いた。

 相坂は柵の内から淵を覗き込んだ。深く吸い込まれそうな色は今も昔と変わらない。


 陽が落ちてきたのだろう、一段と冷え込みがきつくなるのを感じて、相坂は脱いでいた上着を体に羽織った。

「なあ、清己。」

 しみじみと、らしくない声で秦野が言った。

「やっぱり、お前の爺さんが言った通りだな。」

 その前に散々その祖父の事を、よくもまああんな在り来たりな台詞を吐けたもんだ、とか、自殺し掛けた人間に死ねと追い討ち掛けたよな、とか、くだらぬ事を抜かし倒していた癖に。

 秦野のらしくない落差に、相坂は馬鹿に笑いが込み上げて鼻で笑いを溢す。秦野もそれに別段腹を立てる事も無く、しみじみ続けて言った。

「俺もあいつの事はよく知らないけどさ、お前を見ているとつくづくそう思えるよ。」

 今は亡き、相坂の先々代が九死のどん底に居た己が孫へ手向けた一言。


  彼はな、清己。お前の胸の中で生きておる。


 改めてその言葉を思い出し、相坂は胸元に手を当てて強く握った。

「阿呆な位ありきたりな話よな。でもやっはりその通りなんだと思うよ。」

 クイッと盃を煽る。有り触れた言葉の、当然の事実。

 こうして想いを馳せる限り、こうして想いを語る限り。その姿は朧げでも、彼の人の息遣い、温もり、その優しさが、何時までもこの身に沁みて、鮮明に甦って来る。

 ふと、相坂は空を見上げた。秦野はそんな親友の姿を見ずにただ黙って酒を啜る。




 空になった一升瓶を携えて、二人は最後に竜神祠へと向かった。手桶にその祠裏にある湧水を入れて、どちらとも無く持ち帰る。季の花束は淵の水に投げ奉げて、未だくるくると輪を描いている。

「見ろよ。清己。」

 そう言い、振り返った秦野につられて後ろを見た相坂の眼に、煌々と燃ゆ篝火の炎が映った。


 其はあたかも、燎原の彼の如く─。



     ─ 了 ─

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