みたらし・オン・ザ・ベッド:みたらし
天高く馬肥ゆる秋。秋とは言えまだ十月だ。天気の良い日の昼は汗ばむほど気温が上がる。もっとも、外に出ていればの話だが。
俺はと言えば無機質な白い天井を眺めてじっとしている。視線を下げると、当て木と包帯で倍ほどの太さになった自分の脛が視界に入った。今日で入院三日目、退院は四日後の予定だ。その後しばらくは松葉杖生活。通院とリハビリが待っている。
動けずにいると普段考えないことを考えてしまう。たとえば、あの男。俺たち家族を捨てたあの男は、今どんな気持ちで生活しているのか。誰かと笑い合っているのか。独りで泣いているのか。
――馬鹿め。
俺は自分を罵った。捨てられた俺たちがすべきことは、あの男の存在を思い出さないこと。求めない、恨まない。あの男が父親である事実は消えることはない。ならば、その記憶を消し去るまでだ。
ひとつため息をついた。その程度では荒れた気分が回復するものではない。
頭を振って窓の外を見る。本当に良い天気だ。
行きたかったな、万福寺の縁日。境内は人で溢れかえっているだろうな。
「骨折した時期が今だったのは不幸中の幸いだ。リハビリ期間を入れてもスキーシーズンには間に合うからな」
声に出して言うことで気分を変えてみた。それでなくても入院三日目ともなると独り言が増える。
「航わたるさん、スキーする人? 今度連れて行ってね」
思いがけぬ返事。女の子の声に振り向くと、ゆるふわパーマを胸元まで垂らした少女がいる。いつからそこに立っていたのだろう。結構大きめの鞄を肩から提げている。
「やあ洋子ちゃん。その手の社交辞令は相手を選ばないと。おじさん、本気にしちゃうぜ」
「本気で言ったつもりなんだけどなあ」
整った小顔を傾け、頬を膨らませる。そんな芝居がかった仕草も可愛らしい。彼女はすぐに表情を緩めた。
「ふふっ。それに航さん、まだ若いじゃない。航さんなら恋人いらっしゃるだろうし、迷惑よね」
「いや、寂しい独り者さ。そういう洋子ちゃんこそ、昨日も来てくれたけど、こんなむさい男の病室で時間を無駄にするより、彼氏との時間を大切にしなきゃ。貴重な青春、時間は短いよ」
「年長者のご忠告は素直に聞きたいところだけど、あたし彼氏いないし。それに命の恩人をお見舞いする時間は大切だし」
そう言いつつも、洋子ちゃんの視線が泳ぐ。なんだか訳ありだな。
「もしかして悩み事? 俺でよかったら相談に乗るよ」
彼女は一度開きかけた口を閉じ、深呼吸すると鞄の中から取りだした物を俺に手渡した。
――ほう、雑誌。……って、エロ本じゃねえか!
「あのさ、洋子ちゃん。これどうやって買ったわけ」
「それ、翔平のよ。理緒によると、『あいつ最近買いすぎだから一冊持っていけ』って」
洋子ちゃんは俺の妹、志帆のクラスメイトだ。彼女の口から出たふたりの名前は志帆の幼馴染み。洋子ちゃんは志帆の幼馴染み全員と面識があるそうだ。
それにしてもプライベートばればれじゃねえか、翔平の奴。理緒に見つからないように、エロ本の隠し場所を確保しておけっての。
「さすがに妹と同い年の女の子から貰うと、嬉しいよりも恥ずかしい気持ちの方が強いぞ」
「あたし大丈夫だよ。男の人がそういうの好きなの、理解できるから」
どう答えれば良いやら。エロ本をなんとなく枕の下に入れ、後頭部を掻きつつ曖昧に笑っていると、洋子ちゃんは鞄から別の物を取り出した。
「あとこれ。縁日で買ってきたの」
緑色の薄い包み紙。
「みたらし団子だ。ちょうど食べたいと思ってた。嬉しいよ」
「これは志帆から聞いたの。『お兄ちゃんは縁日に行くと必ずみたらし団子を買う』って」
「そういや志帆は?」
「うふ。亮太と縁日」
志帆、兄は寂しいぞ。だが、やるな亮太よ。
「買ってきてもらって何だけど、よかったら一緒に食おうぜ」
「うん、はじめからそのつもりよ。お茶淹れるね」
病室で美少女と一緒にみたらし団子。悪くない。妹と同い年の女の子に気を遣われ、エロ本まで貰う状況の惨めさは意識の片隅に追いやった。
「航さんのお陰であたしは無傷で済んだんだもの。早く良くなって貰わなきゃね」
そう、あの日。『ラージヒル』の駐車場のそばに軽自動車が突っ込んできて――
* * *
見慣れた街並みを背にした夕日が紅く染め上げる。前方へと長く伸びる影を追うように、俺は歩を進めた。
角を曲がると見慣れぬ建物が目に入った。喫茶店だ。『ラージヒル』と書かれた看板の上で黄色い回転灯が点灯している。
店に入ろうと近づいていくと、客がひとり出てきた。小顔にゆるふわパーマ。かなりの美形と見た。すれ違う一瞬を利用して目の保養をさせて頂こう。
店舗正面の駐車場の端まで歩いてきた女性と、今にも駐車場に踏み入ろうとする俺。隔てる距離は路地一本分、およそ五メートルと少しだ。
思わず漏らしそうになった感嘆の声を、すんでのところで呑み込む。
美形だ。しかも思った以上の。ただし、かなり若い。もしかしたら妹と同じくらいかも知れない。
その時、近づいてくる軽自動車に気付いた。最近の車は静粛性が向上したせいで、間近に迫るまで気付かないことがあるのだ。危ない、危ない。自分が運転中の時には、今みたいに女の子に気を取られないようにしなきゃな。
軽自動車の運転席には若い男。片手でハンドルを握り、もう一方の手は……。
――なんだあいつ。携帯で話しながら運転してやがる。
しかし、女性はまったく歩を緩めずに歩いている。隣家のフェンス脇に路上駐車しているワンボックスカーのせいで、彼女からは軽自動車が見えていないのだ。
「危ない!」
後は無我夢中だった。ラグビーのタックルの要領で女性に飛び掛かり、自分の体がクッションになるように転がる。
女性は悲鳴をあげたようだが、急ブレーキの甲高い音にかき消された。
右脚の激痛に気が遠くなったのは一瞬か数分か。声も出せないほどの激痛に呻いていたら救急車のサイレンが近づいてきた。
* * *
結局、軽自動車はひき逃げ。治療費を請求したいし、できれば自首してほしいものだ。
「助けてくれたのが志帆のお兄さんって知ってびっくりしたわ。恩返ししたいけど何もないから……。恋人にだってなっちゃう」
「あはは。七つも離れた下っ端サラリーマンをからかうなよ。さっきも言ったけど、本気にしちゃったら後がやばいよ」
「やばいの? そう聞くと好奇心がうずうず」
こいつ魔性の女か。……と言うには素直な受け答えだし、大人びて見える部分も背伸びした印象が隠し切れない。それでも、冗談と知りつつ妹と同い年の女の子に対して僅かながら妙な期待をしてしまう自分が情けない。俺は余裕を保っているフリを装いつつ、彼女の言葉を笑い飛ばした。
わずかな沈黙の後、一本のみたらし団子を手に取った洋子ちゃんがぽつりと呟いた。
「ねえ航さん。幼馴染みって、このみたらし団子みたいに結びつきが強いのかしら」
あたしには幼馴染みがいないからよくわからない、とさらに小声で続ける洋子ちゃんの表情を見て、俺はようやくぴんと来た。洋子ちゃんは片想いしている。亮太か翔平……、たぶん翔平だな。
それを告げると、彼女は目を丸くした。
「志帆から……、聞いたの?」
「いや、あいつは何も言わない。洋子ちゃんの様子を見て、ぴんと来た」
無言で頷き俯いた彼女は、すぐに顔を上げると話し始めた。
「理緒は七年も離れていた志帆と今でも仲が良くて、翔平のことも良く知っていて。初めて見た瞬間、あたしが持っていないものをたくさん持ってると思った。だから翔平を奪ってやろうと。そのためなら嫌な女にだってなってやると思ったの。でも」
俺は無言で先を促した。
「理緒ったら翌日にはけろっとしてて、嫌ってくれなくて。だから、あたしも嫌いになれなくて。……奪えないよ、理緒から翔平のことを」
なんだ、洋子ちゃんの中では答えが出ているのか。だけど女の子ふたりが悩んでいるのにひとりだけのほほんとしているのはダメだな、翔平よ。ここはお前にも参加して貰うぞ。
「なあ、洋子ちゃん。俺がみたらし団子を好きなのは、たぶん縁日に行くたびに親父に買って貰ってたからだと思うんだ」
「……え」
人は戸惑った時、素の表情を見せる。作ったものではない、洋子ちゃんの素の表情。想像以上に眩しくて、俺は思わず目を細めてしまった。
「親父のことは忘れるつもりだった。でもあいつの行動は真っ直ぐだったとだけは言えるかな、と」
俺が何を言おうとしているか、洋子ちゃんは大体判ったようだ。黙って聞いてくれている。
「結婚して、子どもがいて。その立場での親父の行動は社会的に認められるものじゃない。俺も赦すつもりはない。でも、結婚していないのなら話は別だ。彼女がいるからって理由で諦められるなら、初めから惚れたりしないだろ」
「でも……」
「理緒はきみに何て言ってた? 大体想像はつくが」
「……。あたしたちライバルよ、って。にこやかに笑いながら」
俺はみたらし団子をふたつ食った。串にはみっつ残っている。
「理緒は鋭いからね。洋子ちゃんがどれだけ翔平のことを好きか、見抜いているな。翔平の奴、ふたりの美少女から想われて羨ましい限りだが……」
我ながら芝居がかった仕草だと思いつつ、洋子ちゃんにウィンクしてみせる。
「女の子だけに悩ませず、翔平に決めて貰わないとね。いずれ、決着をつけるべきだ。……翔平がね」
「航さんは、理緒の味方……だよね」
俺は静かに首を横に振る。
「頼まれたら助言くらいはするだろうけどね。余計な肩入れはしないよ。理緒にも翔平にも、洋子ちゃんにもね」
「…………」
「きみは理緒に認められたんだぜ、ライバルとして」
開け放った窓から風が吹き込んできた。
「とにかく今はみたらし団子を食おう。もし玉砕したら、その時は……、そうだな、スキーに連れてってやるよ。多分志帆たちも一緒だけど」
「うん! 約束だよ」
ゆるふわパーマが風に揺れる。妹と同い年とは思えないほど綺麗だ。俺は再び目を細めた。
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