キューピッドとは呼びたくない。(後)
元気な叫び声が追いかけてくる。俺はその声の主を予想して、自然と口元がほころぶ。振り向くと、思ったとおりの光景がそこにある。
俺は駆け寄ってきたキェンを、腕に抱きとめた。
「おとーさんっ」
「おーおー、相変わらず元気だな。そんな走って怪我はもういいのかよ」
「うん、もういたくないよ!」
そう、こいつは俺の息子だ。もう三つになった。先週、そこらへんで遊びほうけて転んじまって、ミュリーが病院に連れて行ったんだが、もう大丈夫らしい。俺は一安心する。
「ランせんせいやさしいからすき。つよいこっていわれたよ!」
「そうか! さすがは俺の息子だな! 俺も先生に礼言いに行かねえとなあ」
半年前に赴任した美人の新人女医を思い浮かべたが、
「…でもママがおこるよ」
息子の言葉に、ミュリーの笑ってねえ笑顔が脳裏にちらついた。
「う…じゃあ、キェンから今度伝えといてくれな」
「うん!」
「今日は晩飯までに帰れっから、ママにも言っといてくれよ」
「うん! はやくかえってきてね!」
「おう!」
また元気良く駆けて行く息子を見ていると、やはりついつい顔が緩んじまう。
「隊長、また顔がだらしないですよ」
「それにしても隊長のとこの子、本当にいつも元気ですね」
「そういうところは隊長そっくりですね」
「でも顔は奥さん似ですね」
「良かったですね。本当に」
「…お前ら、無駄口叩いてねえで仕事しやがれ!」
好き勝手に余計なことをペチャクチャ喋りくさる部下に怒鳴り声を上げ、俺はまた歩き出す。
俺とミュリーは、出会ってから二年後に、結婚した。その一年後にキェンが生まれ、俺は今傭兵稼業を引退して、皇都スヴェレンから少し離れた小さな街で、警備隊の仕事をしている。騎士団が無いこの街の主な治安組織は俺たちだから、まあこうして、いつも巡回してたりする。俺はもともと傭兵だったこともあって、警備隊の中でもそれなりの役職をもらっちまったわけだが、おかげで忙しい毎日だ。
しかし、今日は久々に早く帰れる。さすがに三日連続で息子の寝顔しか見れねえってのは寂しいもんがあるからな。
そうしてゴロツキや飲んだくれを引っ張っているうちに陽が傾いて、夕方になり、俺は家に戻る。戸を開けると、息子と嫁が、笑顔で迎えてくれる。
「おかりなさい!」
「おかえり」
「おう、ただいま」
テーブルの上には、質素だが暖かい飯。食堂で働いていたからかは知らんが、ミュリーは料理がうめぇ。そういう所は、ラファもうらやましいと思っているらしい。まあ、最近はシャルちゃんも血のにじむような猛特訓をして、ようやく毒物以外の食い物を作れるようになったらしいから、それも今のうちだろうな。
「今日ね、シャルちゃんからお手紙が来たのよ」
そんなことを思っていると、噂をすればとばかりにミュリーが言う。結婚した後も、あいつらはシャルちゃんの仕事の関係で皇都に住んでいるから、こうして時々手紙が来る。内容から察するに、どうにか仲良くやっているらしい。
ぶん殴ってまでお膳立てしてやった身としちゃあ、それを聞いて嬉しくねえっつったら嘘になる。
「ほお、なんだって?」
「ええとね、シャルちゃん、今度休暇を取って、楽団の仲間何人か一緒に連れて、演奏旅行に行くみたいよ。ラファさんとサクラちゃんもくっついていくって」
「シャルおねえちゃんとラファおじさんとサクラちゃん、りょこういくの? たのしそうだね。いいなー」
シャルちゃんは“おねえちゃん”なのに、ラファは“おじさん”なのか。まあ、ミュリーもシャルちゃんもまだ二十代だが、俺らはもう三十路越えちまったしな。…これ以上考えんのはやめとこう。
他愛も無い話をしながら、飯をつつく。六年前には、こうして家族で団欒するなんざ、想像もしていなかった。だが、今ここで、こうしているのは、紛れも無い、俺が掴み取った現実だった。
飯の後、キェンは腹が膨れて眠くなったのか、うつらうつらし始めた。そもそも灯りの魔具も消耗品だから、暗くなったらあまりゆっくりもしてらんねえしな。
いよいよ皿に突っ伏しそうになったキェンを抱き上げる。眠そうに目をこすりながら、ちっさな手で俺の首にしがみ付くキェンに苦笑いし、寝室に負ぶって行ってベッドに寝かせた。すぐに寝息が聞こえ始める。そうしてミュリーは少しの間本を読み、俺は外で木剣を振るう。
心地よい疲れを感じ始めた頃、家に戻り、軽く桶の水で汗を洗い流す。寝巻きに着替え、ミュリーと二人、キェンを間に挟んで同じベッドに潜り込む。今日も今日とて遊びまわって疲れ切ってんのか、キェンは眠ったままだ。ほのかな魔具の光の中、二人でその寝顔を眺める。
キェンは何の不安も無いような顔で、穏やかに眠っている。それを見るミュリーはもういっぱしの母親の顔で、あの頃の勝ち気な空気をどこかに残しながらも、確かに俺たちは夫婦なんだと思わせてくれる。
幸せだ。
噛み締めるようにそう思う。ラファと二人、傭兵として世界中回ってた頃も、あれはあれで楽しかったが、今の生活はもう、俺にとってかけがいのないもんになってる。
さっき、親友夫婦の手紙を読んだからか、眠るキェンのほっぺたを楽しそうにつんつん突っついてるミュリーを眺めていると、初めて俺たちが会った、あの日のことを思い出した。
「ん? どしたの?」
見つめている俺に気付き、首をかしげて見返してくるミュリー。あの時よりも大人になって、さらに俺好みの女になっていたが、例えミュリーの見た目がどうだろうと、俺は多分、こいつに惹かれていただろうと、今になってから思う。
「いや、ちょっと昔のことを思い出したんだよ」
「昔?」
「俺たちが初めて会ったときの、さ」
くすり、とミュリーが笑った。俺みてえなガサツな奴が言うのもなんだが、“花が綻ぶ様な”って言葉はこういう時使うんだろうな。
「懐かしいわね。まだ六年くらいしかたってないはずなのに。あのときのあなた、本当に怪しかったのよ」
髭面のおっさんみたいなのが茂みに隠れてのぞき見なんて、とミュリーはあけすけに言って笑う。
「お前は俺をストーカー呼ばわりしてくれたよな」
「だってそうじゃない」
確かに客観的にはそうかもしれないが、言い方ってもんがあるだろう。俺は憮然とする。
「ねえ、あなた、あの時私になんて言ったか、覚えてる?」
「…どうしたんだよ急に」
「いいから」
なんて言ったかっつっても、色々言った気がするしなあ。
「『俺はお前の楽しみのために生きてるわけじゃねえ』」
ニヤリと笑いながら、ミュリーが言った。
「…ああ、確かにそんなこと言ったかもな」
すると、ミュリーはとんでもないことを口にした。
「多分、私、あの時あなたに惚れたのかも」
「…はあ?」
何を言ってるんだこいつは。何であんなので俺に惚れるってんだ。俺の頭に疑問符が飛び交う。
「どうしてかは分からないの」
「分からないなんてこたあねえだろうよ」
「あら、人を好きになるのに、理由なんて無いのよ?」
…そうなのか?
「多分ね」
そう言って、ミュリーはどこか遠くへ視線を向ける。
「でも、本当にどうしてなのか分からないの。でも、あの時思ったのよ」
この誰にも屈しないと思っているような男が自信満々に言い切ったこの言葉を、いつか絶対撤回させてやるって。絶対あなたに私のために生きてるって言わせてやるって。
悪戯っぽい目で俺を見ながら、ミュリーが言った。
「じゃあ、あのときの『すごく良い』ってのは…」
“良い獲物が見つかった”って意味だったのかよ。
「かもね」
しれっと言うミュリーに、俺は手を顔に当てて押し黙る。ったく、まんまとしてやられたもんだ。俺は嘆息する。だが、思う。
確かに俺も、あの時から始まった気がしてならねえ。あの時。あの、見つめる強い光が、心の深いところを貫いたような感覚。
どこか釈然としない感じはあることは否定できねえんだが。でも、今考えると、別にそれで良かったのかも知れねえな。
なにせ――
「まあ、確かに今の俺には、お前が、お前たち二人がいねえ生活なんて、全く考えらんねえな」
――なにせ俺は、あの時のこいつがどんな魂胆でいようが、もうそんなことはどうでもいいと思っちまうくらい、今の生活が気に入っちまっているし、二人を、何よりも大切に思っているんだ。
目を丸くして固まるミュリー。だが、これは嘘でも何でもねえ、確かにここにある、俺の本心なんだ。
だから、
「お前の目論見どおり、今の俺は、お前と、キェンを幸せにするために生きてる。で、多分俺は、そんな今の生活が幸せなんだよ」
だから、このくらい、幾らでも言ってやる。
ミュリーは予想外の俺の素直さに完全に面食らった様子で、顔を真っ赤にした。そのまま「ぁ…う…」とか声にならない声を上げてうめくと、布団に顔をうずめる。そんなミュリーの様子に、俺の頬が緩む。
しばらくすると、布団の中から小さく「ありがと…」という声が聞こえてきた。
手を差し伸べて、ミュリーの頭を撫でてやる。柔らかい髪の下から、手のひらに、心に染み入るような暖かさが伝わってきた。
また幸せに浸りながら、撫で続けると、やがてまどろみが訪れる。そうして、俺はつらつら考える。
俺の人生の中で、ミュリーに出会えたことは、本当に飛びきりの幸運だった。まあ、最初の出会いは親友の尾行途中なんていう、間抜けな場面だったわけだが、そんなのはもうどうだっていい。
でもそれを考えると、俺とミュリーが出会ったのは、あの朴念仁とシャルちゃんのおかげなのかもしれねえな。二人を追いかけて、俺たちは遭遇したわけだしな。その点は、二人には密かに感謝してる。ただシャルちゃんはともかく、さすがにあんな見た目の大男を、キューピッドとは呼びたくねえよなあ…。
頭の中でそんなことを取り留めなく思いながら、俺はまどろみに身を任せることにする。そうして俺は、腕の中に、この世で何よりも大切な二つの温もりを引き寄せて、ゆっくりと目を閉じ、やがて眠りに落ちた。
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