パレット

ゆみみゆ

第1話

 風が吹き渡る。風に匂いはないのかな。あたしはふと思う。今、あたしが感じるのは土手の草の匂い。そして流れる川の匂い。そしてあたしの匂い。世界が混ぜこぜ。この世界に、風の匂いはないの?

 気配を感じた。見なくても分かる。

「やってやった?」

 そう言って、カヤがあたしの隣にすとんと座る。制服のスカートが大げさなくらい、ふわりと舞う。

「やってやった」

 あたしは彼女を見ないまま答えた。そっと制服のポケットに指を入れる。あたしの体温に温もったそれは、ちゃんと中に収まっていた。でこぼことした表面をそっと撫でる。

「今頃、絶対困ってる。あいつら」

 カヤが膝を抱えながら言った。うん、とあたしは頷く。

「ざまあみろだ」

「ざまあみろだ」

 調和した言葉が風に飛ぶ。きっとカヤの頭の中にも、夕暮れの光に溢れた美術室が浮かんでる。窓は開け放たれて、白いカーテンが翻ってる。あたしは目の前で風に揺れる草の緑を見た。一瞬、色というものを見失う。

「言った通りにした?」

 真っすぐ前を見つめながら、カヤが言う。

「言った通りにした」

 あたしは答える。

「赤」

「赤」

 また言葉がハモる。

「とってやった」

「とってやった」

「あいつらの」

「あいつらの」

「赤い絵の具」

「あか」

 言いかけて、あたしは黙った。ポケットにある絵の具に、そっと上から触れる。あいつの絵の具箱からとってきた、一色の絵の具。

 目の前の緑に、幻の美術室が浮かび上がる。向かい合う二つのイーゼルとカンバス。向かい合う、あいつとノン。

 カヤとあたしとノン。いつも一緒の三人。何をするにも一緒。見るものも一緒。聞くものも一緒。好きも嫌いも一緒。だからあいつのことも、三人一緒に好きになった。三人で一つの恋をしていた。

 でもあいつは、ノン一人を選んだ。世界は分離した。

 風が吹き渡る。いつもの風景は一つの欠片を失っていた。あいつとノンのパレットも、きっと今頃、一つだけ色を失っている。

 奪ってやろうよ。同じ色。そう言い出したのはカヤだった。

あいつとノンの絵の具箱から、同じ色奪ってやろうよ。同じ色がなくなれば、貸し合うこともできなくて、きっと困るよ……

 美術の卒業制作が終わっていない二人は、今日の放課後、美術室に残って絵を完成させなければならないのだ。

 色がなければ、多分ほかの誰かに借りる。そんなこと分かってる。

でも果たされなければならないのは、世界を壊した二人への、壊れた世界に残された二人からの、ささやかな意地悪なんだ。

 二人から奪う色を赤にしたことに理由はない。ただなんとなく。

 カヤがノンの赤い絵の具を奪う。

 あたしがあいつの赤い絵の具を奪う。

 カヤは昼休み、あたしがノンを連れてトイレに行ったすきに。

 あたしは掃除の時間、ゴミを集める振りをして。

 掃除の時間、あたしは教室後方のあいつのロッカーに近づき、素早く端に押し込まれていた道具箱を抜き出した。

 自分を急かす心臓のせいで、手が震えてる。あたしは道具箱を開け、中にある絵の具箱の蓋も開けた。不恰好に潰れた絵の具が並んでる。

あたしの目は赤を探した。あいつがよく使う色なのか、赤い絵の具は一段と潰れて隅に丸まってた。指を伸ばした。そして――

 ふう、とカヤとあたし、同時にため息をついた。ざあっと土手の草がいっせいに揺れた。

「見せて。赤い色」

 カヤがつぶやく。あたしはぎくりとする。

 夕方の光は真っ赤だった。たとえ赤の色がなくても、この光で、絵を赤く染めることができそうだ。

「カヤ」

 あたしは下を向いた。短くしたスカートの裾が、腿の上ではためいてる。ポケットに手を入れた。絵の具箱から持ってきた、あいつの欠片をそっと指で包み込む。

「あのね、カヤ」

「いっせーのせ、で見せよ。いくよ」

 カヤもポケットに手を入れた。あたしはくっと膝小僧をすり合わせた。手に触れる絵の具を指先でなぞる。

 世界はどこから始まって、どこまで広がっているんだろう。みんな一緒。嘘はない。どこまでも続いてるはずだった。でも今、あたしがいるのは、世界のどのへんなんだろう。

「いっせーの、」

 カヤが目の前に言葉を放った。あたしは絵の具を掌に包み込んだ。

「せっ」

 ポケットから絵の具を出した。掌に乗せ、カヤの前に突き出す。下を向いた。草が揺れていた。

「ごめん」

 下を向いたまま言った。あたしも世界を壊しちゃった。嘘ついた。

 あたしの掌にあるのは、青い色だった。

 二人とも黙っていた。掌にカヤの吐息を感じた。カヤが風。あたしが草。

「なんだ」

 やがてカヤがつぶやいた。草がどきりと揺らいだ。

「同じだ」

 あたしははっと顔を上げた。彼女の顔を見て、それからその手にある色を見た。目を見張った。

 彼女の手にあるのは、緑の絵の具だった。

 カヤが照れくさそうに笑う。

「赤、とれなかった」

「……とれなかった」

「できなかった」

「できなかった」

「やっぱ、困るかなって思って」

「うん。困るかなって思った」

「なんかやっぱ、それはヤだった」

「うん」

 顔を見合わせた。同時に笑った。

「同じだぁ」

 そう叫ぶと、あたしたちは草の上にひっくり返って笑った。二人の掌の絵の具が跳ねる。青と緑が、あたしたちの間に落ちる。

 空と草と、あたしたち。

 世界はやっぱり、ここにあった。




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