最終話
「それじゃ、お疲れ様ー」
「お疲れ様でした……大丈夫?」
「な、なんとか……おっとっと……」
「だから止めたほうが良いって言ったのに……」
久しぶりに四人で過ごした楽しいひと時は終わり、私たちはバーを離れ、それぞれの家へと帰る事にした。
明日の事も考えて酒類はほんの少ししか飲まなかった私とは逆に、三神君はたっぷりとビールやお酒を飲みまくり、バーの店主さんが心配するほどにまで酔っ払ってしまっていた。そこまで酔っていない白柳君がタクシーで三神君と一緒に自宅へ連れて帰る事になったので問題は特に無さそうだけど、明日私の研究発表を見に行きたいという言葉を実行するのは無理な感じであった。
そして、男性陣と分かれた私と星野さんは、駅まで一緒に帰る事になった。
本番前日なのにいきなりこんな飲み会を提案してしまって申し訳ない、ともう一度星野さんは謝ったけれど、私は気にしていないと返した。事前に何度も確認し、万全の状態で本番に臨める事が自分も他の人もはっきりと分かっているならば、無理にプレッシャーを加えてしまうよりも一旦それらのストレスを開放し、適度にほぐれた状態で本番に挑むほうが良い――私には、そんな考えなど思いも付かなかったからだ。むしろ私のほうが、自分にここまで付き合ってくれた彼女に謝らなければいけない方なのかもしれない。
「敦子も私も、何度も原稿を確認したりしてきたから大丈夫だよ」
「うん……やっぱり緊張はしちゃうけど、でも何度も練習してきたから、きっと……」
その意気だ、と星野さんは私の頭を優しく撫でてくれた。
火照ったその右手の心地は、どこか懐かしいものだった。
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皆で楽しい時間を過ごしたバーから少し離れた場所にあるマンションに到着したのは、それからしばらく経ってからだった。夜道で涼しい風を満喫し、適度に緊張をほぐす事ができた私は、改めて明日に向けた最後の確認を行う事にした。外国での研究旅行の中で何度も考えて練った原稿や、巨大なスクリーンで表示する予定の画像をもう一度確認し、たくさんの生徒たちの前で、私の難しい最先端の研究をどのように発表する明日の様子をイメージしながら。
「……ふう……これで良し、と……」
私が今回発表する内容は、科学雑誌でも何度か取り上げてもらった、私や仲間たちが発見した『遺伝子』についてである。
大学に進学し教授への道を進む過程で、生命の不思議を探りたいと言う思いから遺伝子研究への道を歩み続けることに決めた後、様々な偶然や経験が重なり、私は今までの常識では考えられなかった新しい遺伝子を見つけた。これまでの研究を覆すどころか、常識すらひっくり返しかねない効果に、正直私もこんな事はありえないと思い何度も同じ条件下で実験を行ったけれど、それはますますこの遺伝子配列が現実に存在し、そして驚くべき効果をもたらすものである事実を補強するものになってしまった。
あまりその内容を詳しく説明すると専門的なものになりすぎて、大半の生徒は理解できずに寝てしまうだろう、と指摘された私は、細かい部分はそこまで触れない事にした。だけど、この新しい遺伝子配列と、そこに刻み込まれた設計図から生み出されたタンパク質が、ブタさんを始めとする多くの動物や植物――特に人間と大きく関わる農業や畜産業などに多大な良い影響を及ぼすだろう、などの基本的な内容はしっかりと記載する事にしている。
この遺伝子の名前を、私は『BuT-3遺伝子』と名づけた。既存の類似した遺伝子を基に名前を決めたのだけど、その名前は私の初恋の存在の響きと同じようなものになった。狙って付けた訳ではなく、単なる偶然なのかもしれないけれど、今もなお『ブタさん』が見守ってくれる証なのではないか、とつい妄想してしまうほどにぴったりな名前であった。
ところが、星野さんから渡された今回の発表の題目には、この『BuT-3』とは別の、もっと分かりやすい通称が記されてしまっている。しかも彼女ばかりではなく、研究者の方々もこの通称で呼ぶ事も多くなってしまっている。似たような名前を持つ化学物質と紛らわしくなるのを防ぐためと言うしっかりとした理由もあるけれど、私にとっては嬉しいやら恥ずかしいやら、ちょっと複雑な気分である。とはいえ、今回は専門的な知識と同時に分かりやすさも重視しなければならない発表なので、仕方ないかもしれない。
ともかく、その星野さんが言っていた通り、ここまで何度も私は練習を重ね、しっかりとした発表原稿を創り上げた。どんな質問が来てもしっかりと返答出来るほど、ネットを使っての打ち合わせも行ってきた。これ以上熟慮するよりは早めに寝て、本番に向けて体力を温存するのが大事だと考えた私は、鞄の中に原稿やUSBメモリなどを収納し、最終確認を終わらせた。
「おやすみなさい……」
その日の夜は、普段よりも寝心地がとても良かった。
友達に会えた嬉しさか、お酒の効果か、はたまた夢の中でイケメンさんから最後の激励を受けたのか、それは分からない。
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そして次の日――学校での発表の本番の日、私は爽やかな目覚めを迎え、目的地の学校にも早めに到着する事が出来た。勿論、忘れ物も一切無かった。
「質問の時間などは先程通りでお願い出来ますか?」
「はい、大丈夫です。了解しました」
学校の関係者の人たちとの最後の打ち合わせも順調に終わり、いよいよ本番が近づいてきた。どれだけ練習をして万全の状態で臨もうとしても、やはり緊張からは逃れられず、私の鼓動は次第に早くなってしまった。そして同時に、本当に大丈夫なのだろうか、と言う後ろ向きの感情もぶり返してきてしまった。何せ学生たちの目の前で語るのは、今回が初めてなのだから。
でもこの場に来た以上、逃げるわけにはいかないし、元よりそんな選択肢なんて無い。覚悟を決めて部屋を出ようとした時、誰かが私の肩を叩いた。振り向くとそこには、この学校でたった一人、私の事を昔から知る友人の姿があった。
「やっぱり緊張しちゃう、敦子?」
「うん……」
やはりいくら冷静さを保とうとしても、星野さんにはすぐ見抜かれてしまうようだ。
しかし、こういう緊張は今までに何度も味わったし、そこからの失敗も経験している。だから心配しなくても大丈夫だ、と私は語った。ほんの少しの会話だけど、それだけで私の心からは後ろ向きの感情は消え、もうすぐやって来る本番に向けての自信や奮起の心が溢れてきた。
「……そうか。じゃあ改めて、よろしくお願いします。丸斗敦子教授」
「……分かりました、校長先生」
互いに最後のやり取りを交わし、私たちは部屋を後にした。
司会の生徒さんからの紹介を受けて体育館の中へと入っていった私を迎えたのは、広い空間を埋め尽くしながら大音響の拍手で出迎える、星野校長の下で学生生活を送るたくさんの生徒たちや私の仲間だった。笑顔のアシスタント君たちとは異なり全員が全員とも興味があるわけではないかもしれないけれど、それでもこんなに大勢の人が私の発表に耳を傾けてくれる。その事実を目の当たりにした私の心を、様々な思いがよぎった。
どん底の『ブタ子』だった毎日が不思議なイケメンさんとの出会いをきっかけに大きく変わり、やがて不思議な日々の中で将来の夢を見つけ、多くの友達や先生、そしてお父さんやお母さんなどの協力も得て、今私はこの場にいる。ここまでたくさんの人たちに、私は数多くの『恩』を貰ってきたのだ。
そして、いよいよ体育館のステージに上がる順番がやってきた。
階段に向かって歩きながら、私はそっと左の袖をまくり、腕に巻かれたリストバンドをそっと覗き込んだ。色は褪せ、ゴムもよれよれになり、こうやって腕に巻けるような状態が保たれているのが奇跡な代物だけど、私はこれを絶対に腕に巻いていこうと考えていた。私の恩人であり、最高の恋人であるイケメンさん――いや、ブタさんとの初デートの時に購入したのが、このリストバンドだったからだ。
ブタさんの行方が一切分からなくなった今、これが唯一彼が私の傍にいてくれた存在の証になってしまっている。だからこそ、私はこの場にリストバンドをこっそりと嵌めてきたのである。私の晴れ舞台を、彼にも見てもらうために。
「それでは『マルト遺伝子の紹介と研究内容、そして応用について』についての発表を行います……皆さん、よろしくお願いします」
イケメンさん――ブタさん、聞こえますか。
これが、私から貴方への恩返しです。
ブタ子と不思議な恩返し 腹筋崩壊参謀 @CheeseCurriedRice
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