最終章 私からの恩返し

第45話

 気がついた時、私はいつもの図書館の前にいた。


 人通りの少ない静かな場所、たくさんの本が並ぶ建物の傍にあるベンチ、そして私を普段どおりに待つ、爽やかな表情のイケメンさん。何もかもが、昔と変わらない光景だった。


『よう、遅かったな』

『すいません、色々とありまして……』


 大丈夫、気にしていない。だから謝らなくても大丈夫だ。ベンチに座った私の頭を、イケメンさんは優しく撫でてくれた。その暖かい気持ちは、イケメンさんの大きな手から私の心に十分過ぎるほどに伝えられた。


『それで、最近はどうしてるんだ?』

『……色々ありましたが、今のところ上手くいっていますよ』


 『色々』ばかりだな、とイケメンさんは私に苦笑いを見せてしまったが、正直この短い時間で嬉しい事や悲しい事、今までに経験した様々な内容を語り尽くすのは無理であった。それほど、長い時間が過ぎてしまったのだ。

 本当は、たくさんイケメンさんに語りたかった。でも、それはもう出来ないと言うのは十分承知していた。今の私は、もう一人ぼっちのブタ子ではない。イケメンさんばかりではなく、たくさんの人たちの応援を背に忙しくも暮らし甲斐のある日々を過ごす、一人の女性なのだから。


『イケメンさん……いえ……』

 

 様々な思いで一瞬言葉が詰まり、暗い表情になりかけた私に、再びイケメンさんは笑顔を見せてくれた。嬉しそうな、でもどこか悲しさや寂しさがにじむような表情だった。きっとイケメンさんも分かっていたのかもしれない。自分は誰なのか、私とどう接するのが最適なのか、そしてどうしてこの場所で私ともう一度出会えたのか、を。


『行きな、敦子。お前は未来に生きる人間だ。あまり俺のいる『過去』に留まりすぎちゃ駄目だ』

『……そうですね』


 正直かなり名残惜しいし、イケメンさんと別れるのは決して良い気分ではない。でも、私はもうこの場所に来る必要がない事を理解していた。イケメンさんの言うとおり、私は今、目の前に広がる未来に向けて一所懸命に頑張り続けているところだ。あまり過去に留まり続けると、それこそ私を信じてくれる人に申し訳ない。

 私はベンチから立ち、イケメンさんに感謝の一礼をした。自分がこうやっているのも、すべて貴方のお陰だという言葉も添えて。照れくさそうにしているイケメンさん――いや『ブタさん』の顔からは、先ほどの悲しさが消えていた。きっとイケメンさんも、私を見送る心構えが出来たのかもしれない。



『応援してるぜ、丸斗敦子「教授」』

『……はい!』


 そして、イケメンさんの姿がだんだん小さくなっていき――。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


「…授、教授……教授!」


「……はっ!」


 ――目覚めた時、私は飛行機の窓際の席で毛布を被っていた。

 隣で私を必死に起こしてくれた声の主が、もうすぐこの飛行機が目的地に着くことを教えてくれた。ついでに、気持ちよさそうに眠っていたという私の口元によだれがついていることも指摘しながら。慌ててそれを拭き取り、私は飛行機から降りるための準備を始めた。

 やがて窓の外に延々と広がる都会が見え始め、その景色がより間近になり始めた時、アナウンスも着陸準備の合図を告げた。


「もう少しですね!」

「本当だねー」


 そして数分後、私とアシスタント――大学の研究員をしている後輩君と一緒に、私は久しぶりに日本の大地を踏みしめた。外国の『研究所』や学校の景色も良いけれど、やはり私にとってはこの場所が一番だ。


 学校での生活から、既に長い月日が過ぎた。この私、丸斗敦子は、その時にずっと願い続けてきた『大学教授』という夢を叶え、今ここにいる。



「確かここ数日の間の予定は……」

「大丈夫だよ、しっかり覚えているから」


 まるでアシスタントのように様々なお手伝いをしてくれる、私の大学の研究生君。色々と迷惑をかけたりしてしまっているけれど、その目はいつも輝いていた。ちょっと照れくさいかもしれないけど、仕方ないだろう。今の私は、それなりに有名な研究をいくつかこなしてきた、現在かなり期待されているらしい教授なのだから――自分で言うとかなり恥ずかしいけれど。

 ずっと昔、恋人と交わした約束を、私は果たす事が出来た。様々な本を読み、色々な勉強を重ねながら知識を得たり、難しい実験や様々な先人たちの交流などを重ねる中で、私は着実に自分のなりたい夢を形にすることが出来たのだ。勿論、楽なことばかりじゃない。時には何度も失敗したり、思いきり怒られてしまったり、時にはやはり昔のように理不尽な事を言われてしまうこともあった。正直、くじけそうになったり、夢を諦めようかと考えてしまう時が何度も訪れた。それでもなお、私が必死になってどん底から這い上がることが出来たのも、一重にあの人――イケメンさんとの約束、言葉、そしてずっと不たたりで培ってきた日々が支えになったからだろう。


 その結果が、後輩君から憧れの目で見られる、今の私だ。

 きっと彼にとっては、私こそが『イケメンさん』と同じ存在なのだろう。


「丸斗教授、僕とっても楽しみです!生徒の皆さんにどんな風に先生の人生を熱弁するか……」

「そ、そんなに言われると逆に照れちゃうな……」


 外国での研究旅行を終えた私の次の仕事は、とある学校での講演会だ。私がこれまで行ってきた様々な研究――遺伝子工学やそれにまつわる様々な有機物や無機物の研究、そして現在人々から注目を浴びていると言う最新の研究成果など――に加えて、ぜひこれまでの半生も生徒たちに発表してほしい、と校長先生から直々に頼まれてしまったのである。照れ屋の私は最初断ろうと考えたけれど、校長先生との縁やその熱い姿勢に圧される形で、たくさんの生徒や先生が見守る中で発表する事を決めた。勿論この後輩君を始め、私の仲間もたくさん見に来てくれる事になっている。


 外国の各地をめぐる中でどのような発表をするかは何度も考え、練り直し続けたけれど、やっぱり私は緊張していた。いくら頑張っているとはいえ、心の中で決めていたことをすべて発表する事が出来るのだろうか、生徒や先生は理解してくれるのだろうか、と。

 そんな事を外国から校長先生に直接告げた後、私に意外な返事が戻ってきた。ならばその前日に一緒に会い、思いっきり世間話を語り合おう、と。せっかく万全の準備をしたのにリハーサルをしたせいでさらにガチガチになって失敗してしまうよりは、一旦何もかも忘れて緊張をほぐした方が良い、と校長先生は考えていたのである。予想だにしなかったアイデアだけど、私はそれを受け入れることにした。考えもしない解決案を出してくれる『友達』に、私は改めて感謝をした。



「……という事で、明日は何も予定がないから自由にしていいよ。明後日にまた宜しくね」

「分かりました、教授。応援してますね!」

「あ、ありがとう……」

  


 いくら私を憧れているとは言え、後輩君の応援は、熱烈すぎるところがあるかもしれない。嬉しいのは嬉しいけれど。

 そんな事を考えていたりしているうち、あっという間に翌日になってしまった。


 重い荷物に悪戦苦闘の連続になってしまった昨日までと違って、今日は軽い鞄だけで十分であった。研究発表でも堅苦しい話でもない、たっぷりと心置きなく話せる自由な時間だからである。そして、久しぶりの仲間と話せると言う、とても楽しみな時間なのだ。

 待ち合わせ場所に最初に到着していたのは私ではなかった。駅のそばにある大きなモニュメントの傍で私を待っていたのは、見慣れた声の持ち主だった。


「教授……じゃなかった、敦子!久しぶりー!」

「こんにちは。前にお話したばかりだけどね……」

「こうやって会うのが久しぶりって意味だよー」

「そ、そうか……久しぶり」


 服装は今の職業を表すものに変わり、外見も年相応に変化したらしいけれど、その心はずっと昔のまま変わっていなかった。いつも明るく賑やか、少し悪戯好きだけど芯はしっかりとしている、学校の校長先生にして私の旧友である星野さんが、一番乗りだったのである……。

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