第42話

 一歩、また一歩。私はゆっくりと、でも確実に歩き続けた。


 先程まで、私は向かおうとしている場所が怖くて怖くてたまらなかった。あの場所で、あまりにも衝撃的でとても受け入れ難い現実を目の当たりにし、その場で大粒の涙を流してしまったからである。その記憶はさらに私を恐怖や不安に包み、しまいには学校へ向かうという事すら怖がってしまうまでに至ってしまったのだ。何とかそれは友達からの励ましも受けて克服できたけれど、根本的な原因は未だに解決せず、結局は授業を途中で離脱し、保健室で寝込む状態に陥ってしまった。


 でも、いつまでもそこから目を反らしてばかりはいられなかった。どれだけ多くの人々が心配したり応援してくれたとしても、それを一手に受ける私本人が立ち上がらない限り、この状態が変わることは無いことを嫌と言うほど認識していたからだろう。でもそれ以上に、私は自分自身、そしてもう一人の大事な存在のために目的地へと歩き続けていた。


「……イケメンさん……」


 あの場所には、今の私を作り出してくれた恩人にして、私の『恋人』が待っている。そこで暮らしている彼と、以前私は大きな約束を交わしたのだ。たくさんの恩を受け、様々な形でお世話になった分、私は自分の夢に向けて頑張っていく、と。学校でたくさんの知識に触れ、図書館で多くの本と出会いながら、将来に向けた理想を現実にしていきたい、そう私は願い、はっきりと恋人に向けて伝えたのだ。だからこそ、歩みを止める訳にはいかない。


 そう決意してもなお、私の心の中には言いようのない恐れや不安が湧き上がり続けていた。でも、それはきっと相手側も同じ気分だろう。いや、『彼』はもっと苦しんでいるに違いない。私たちを助けられるのは私たちだけだ、と考え続け、恐怖の気持ちを必死に抑えながら、授業や掃除が終わって静かになった廊下を、そして靴を履き替えて校舎の外側を、私は進んだ。


 そして、ついに目的地――学校の飼育小屋が私の視界に入った。



「……いた……」


 校舎の脇にある、様々な動物たちが暮らす飼育小屋。その右側にある大きな空間の中に、私が会わなければならない『人』がいた。いや、小屋の端の方にうずくまり、大きな背中を見せながら横たわるその姿は、どこからどう見てもそれは人ではなく、丸々と太った一頭のブタだ。

 それでも、私は『人』だと言い張りたかった。そこにいるブタさんと一緒に、私は買い物もしたし、図書館の傍のベンチで一緒に話もしたし、様々な事を語らい続けてきたからだ。でも、もうそれは二度と出来ない。私に対する「恩返し」を終えた以上、あの爽やかな美形のイケメンさんの姿になることは無理な話なのだ。


 そんな悲しい現実に対して、ブタさんがずっと思い悩み続けていたであろう事は、力なく横たわるその姿からも明らかだった。


「……」


 何て言葉をかければよいのか、私はわからなかった。ずっとブタさんに対してしてきたように気さくに話しかければ良いのか、それともあの格好いいイケメンさんとの会話のように敬語を使えばよいのか、たったそれだけの事でも、この場から走り去りたいと言う感情を沸き起こすには十分なほどの材料になってしまった。でも、それを私は必死にこらえた。誰にも話しかける事が出来ず、ブタさんは一人ぼっちで悩んできたのだ。ここで逃げてしまったら、きっと――いや、そんな最悪の事態は考えたくない。それを防ぐため、私はここにやって来たのだから。



「……聞こえますか、ブタさん……」


 私は、いつも『イケメンさん』に話しかける敬語で、彼の本当の名前を呼んだ。一瞬だけ、大きな背中が動いた。でもすぐに動きは止まり、先程よりもさらに縮こまってしまった。

 私なら大丈夫、心配しないで欲しい、と言って安心させようとした私は、それがイケメンさん=ブタさんを傷つける言葉である事に直前で気づいた。あの時、保健室で事務の先生は私が何日も学校を欠席していた事を心配していた。ずっと学校を休む事無く、どんなつらい事があってもブタさんの元を訪れていた生徒が急に休めば、当然動物たちの世話を担当する先生が不安に思うのは当然だろう。そして、イケメンさん=ブタさんもまた、事務の先生が飼育小屋で呟いた言葉や動物として持つ勘で、全てに気づいていたのかもしれない。

 私が無理をしても、彼にとっては何の利益も無い。だから、私は正直に話す事を決めた。 


「……ごめんなさい、私、約束を破ってしまいました。

 ショックを受けてしまったんです。イケメンさんが、ブタさんである事に……」


 あの時は大丈夫だと言ったけれど、あまりにも突然の事で本当は混乱していた。あまりにも訳が分からなくなりすぎた結果、真実を知った私は飼育小屋で大泣きし、それから何日も欠席してしまった。今までずっと誰にも言わなかった真実が、私の口から次々とイケメンさん=ブタさんに向けて放たれた。


 やがて、壁を向いて横たわるブタさんから、小さな声が聞こえてきた。普通のブタと同じように濁った豚声だけど、間違いなくそれは声を潜めて泣いているものだった。それが悲しみの涙なのか後悔の涙かを知る術は私には無かった。

 もう一度私がブタさんの名前を呼んだ時、ブタさんはゆっくりと立ち上がった。そして顔を下に向け、下にある何かをいじり始めた。どうしたのだろうか、と不安になりながら見つめていると、静かにブタさんがこちらに歩いてきた。私を見つめるその瞳は、普段飼育小屋で見るものとは違い、悲しみや後悔など負の感情、それも自分を責め続ける様な気持ちに満ちたものだった。


 そして、何故突然立ち上がり、私のほうへやってきたのか、その理由はブタさんの口元にあった。


「……!」


 イケメンさんの正体を知り、最後のデートを楽しんだあの日、私が彼の言葉が真実であると理解したのは、ブタさんが暮らす飼育小屋に無造作に置かれていたリストバンドだった。私が初めてデートと言うものを経験した日、イケメンさん=ブタさんと一緒に立ち寄ったアクセサリー店で買った大事な宝物だ。彼と私、二つのリストバンドを合わせることで一つの絵が生まれる、まさに互いの関係を示すのにぴったりなアイテムだった。

 でも、それをイケメンさん――いや、ブタさんは口に咥え、私のほうに突き出してきたのだ。言葉を交わすことが出来ないがために、私はその行動が何を意味するのか理解するのにしばらく時間を費やしてしまった。だけど、それは私にとって、一番考えたくない事だった。二人で初めて選び、気持ちを形にする事が出来たこのリストバンドが私の元に返されると言う事は、たった一人でリストバンドに描かれた絵を完成させてしまうと言う事になる。


 そう、その場に『恋人』がいない状態でも。



「……違う……違います……違うんです!」



 無我夢中で叫んだためか、ブタさんはリストバンドを私に返し、全てを無かった事にしようとするのを止めてくれた。そのまま唖然とした顔で、彼は私を見つめ続けた。



「私は、ずっと勘違いをしていたんです。『イケメンさん』に二度と会えなくなる、って……」


 確かに、もう一緒に買い物も食事も、図書館の傍らのベンチで会話する事も出来ない。イケメンさんの格好いい声も爽やかな顔も、大きな手の暖かさを感じる事も出来ない。でも、だからと言って私の恋人が消えたと言う訳ではない。現に私の恋人は、目の前で静かに私を見つめているのだから。

 これからもずっとイケメンさんと一緒に学校生活を過ごし、様々な形でお世話になることが出来る。何より、飼育小屋に行けばいつでもイケメンさんの姿を見ることが出来る。今までとは付き合い方が変わるだけで、この関係が変わることは無い、と私はイケメンさん=ブタさんにはっきりと伝えた。



「こんな駄目な私だけど、これからもブタさんと一緒にいたいんです。だから――」


 ――これからも、よろしくお願いできますか。


 何故か最後は疑問系になってしまったけれど、私の心は不思議と晴れやかだった。今朝の空元気とは明らかに違う、心の中でずっと抱えていた気持ちを全て出す事ができた事に対する、一種の爽快感であった。

 


 私の言葉に対する答えを、日本語で聞き取る事は出来なかった。でも、ブタさんがどう捉えてくれたのか、そしてどのように感じてくれたのかは、嬉しそうな鳴き声と大粒の涙で溢れた瞳、そして力強さを取り戻したその脚を見れば明らかだろう。あのリストバンドを飼育小屋の奥へ戻した後、喜び勇んだかのようにブタさんは私の元に戻り、そして優しげな表情で頭を向けてきた。

 今までは私がイケメンさんに頭を撫でられ、緊張や不安を和らげてもらう立場だった。これからは、少し小さめだけど私の方が自分の掌でブタさんの頭を優しく撫でる番だ。気持ちよさそうな顔の彼には、もう先程までの怖さも不安も無かった。そして、彼の『恋人』である私もまた同じ気分だった。 

 そして、緊張が解けたという事は体の調子も元通りになり始めた事でもあり――。


「……あれ……」


 ――突然聞こえた大きな音の正体がブタさんの空っぽのお腹の音である事は、少し恥ずかしそうな表情ですぐに分かった。すぐに用意してきます、と言い、私は校舎へと戻っていった。

 元気を取り戻したブタさんと私の様子を見て、事務の先生はどう驚くだろうか。そして、どれほど喜んでくれるだろうか。これから起きるであろう出来事を楽しみにしながら、私は廊下を軽やかな足取りで進んだ。勿論、校則を守るために走らずちゃんと歩きながら……。

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