第19話

「それじゃ、帰りの会をします」


 それは、テストが全て返却された週の金曜日に起こった。


 クラスの担任の先生は、その日も淡々とした口調で帰りのホームルームの進行を務めていた。私の授業を担当していなかったという事もあったかもしれないけれど、先生は一度も私のテストの結果について触れることは無かった。私のことを察して敢えて言わなかったのではないか、と傍目からは思うかもしれないけれど、私には、先生が『ブタ子』のことなんて一切構いもしない、と言う意志を伝えているように見えてしまった。


「前も言った不審者だけど、また町に現れたようなので……」


 例の怪しい男が相変わらず私たちの町に居座り、あちこちでその姿が目撃されているという情報が先生の口からもたらされた。引き続き注意して欲しい、といったけれど、どうしても単なる事務的な作業をこなしているという風にしか聞こえなかった。必ず二人一組で帰って欲しいと言われても、私には無理だった。


 そして最後に先生は、今日はこのクラスが飼育小屋を担当する事を告げた。例によって私たちのグループが任命され、後で餌をとりに来るように、と言った。いつもなら、この後に同じグループに所属している例の女子生徒によって飼育小屋の全ての仕事は私に押し付けられる格好になっていた。彼女たちが部活に行ったり町で遊んだりする一方で、私が必死に動物たちの世話をする形だけれど、私にとっては大好きな動物たち、そして大好きなブタさんと触れあえる時間なので内心とても嬉しかった。


 だけど、この日は違った。


「ねーえ、ちょっとお願いがあるんだけどー♪」

「な、なに……?」


 今まで数え切れないほど私に声をかけてきた女子生徒たちだけど、こんなに甘い声をかけられるのは初めての事だった。一瞬緊張してしまった私に、彼女たちはこんなことを言い出した。いつも『私』にばかり仕事を押し付けてばかりで申し訳ない、だから今日は自分たちが飼育小屋の掃除をする、と。

 私はその言葉に耳を疑った。彼女たちが突然謝った事もあるけれど、何より『ブタ子』ではなく、はっきりと私の本当の名前を告げた上で頼み事をしてきたということが大きかった。


「え……えーと……」


 正直、今までのことを謝罪された事よりも、突然そのような事を言われたために、私は頭の中が混乱し始めてしまった。そんな私に対し、女子生徒たちは矢継ぎ早に言葉を発射し始めた。


「大丈夫、これからずーっとあたしたちが掃除してあげるから」

「そうそう、今まで頑張ってきたんでしょ?」


 彼女たちの張り付いたような笑顔は、謝罪や友好の気分よりも、無理やり善意を押し付けてくるような、はっきり言うと『脅迫』そのものだった。何かがおかしい、と感じた私は、今日も自分で行うから大丈夫だ、と言おうとした。でも、私のか細い声は女子生徒たちの大きく、そしてやけに明るい声にかき消されてしまった。


「じゃ、決まり!先に帰っていいよー♪」

「後は私たちが何とかするからー!」


 そして、彼女たちは大きな足音を立てながら教室を飛び出し、乱暴にドアを閉めて外へ行ってしまった。残されたのは、呆然とドアの外を眺め続ける私だけだった。


 一体何がどうなっているのか、私には分からなかった。今まで散々ひどいことをしてきた彼女たちが、本心から私に謝ってきたとは到底思えず、何か裏があるというのはすぐに察知することが出来た。でも私に出来たのはそれだけであり、彼女たちを止めること、何をしようとしているのか問い詰めることなんて出来なかった。


 狐につままれたような心地のまま自分の席から動くことが出来なかった私の心に、突然大きな警報音のようなものが鳴り始めた。

 以前、彼女たちは私――ぶくぶく太った『ブタ子』と、飼育小屋にいるブタさんが付き合っている、恋人のようなものだと囃し立て、とっても嬉しそうな笑みを見せ付けた事があった。彼女たちは私とあのブタさんは同等の存在であると捉えている一方で、私にとってブタさんがとても大事な存在である、と言う事も既に把握している。つまり、私から受けたかもしれない悔しさや屈辱は、ブタさんから受けたことと同じと言う事になる。


 そのことに気づいた瞬間、彼女たちが何をしようとしているのか、私の頭に鮮明な映像が浮かんできた。それはあまりに残忍で、とても恐ろしいものだった。


「……!」


 あっという間に私の体は悪い予感で包まれた。もしこのまま私が彼女たちの言葉を受け入れて素直に家に帰ってしまったら、きっと彼女たちはブタさんの所に行き、そして――。


「駄目……そんなの、絶対に駄目……!」


 すぐさま立ち上がった私は一気に教室を飛び出し、廊下や階段を駆け始めた。多分あの時の走りは、運動が苦手なはずの私からすると信じられないほどの速さだったかもしれない。それほど私は、ブタさんの事で頭がいっぱいだったのだ。落ち込んでいた私を何度も励まし、助け、そしていざと言うときには厳しく喝を入れてくれた、頼もしい『一人』の友人が、大変な目に遭っているかもしれない。

 その思いで頭がいっぱいだった私は、自分に向けられた注意や質問に答える余裕なんて無かった。



 そして、飼育小屋の近くにたどり着いたとき、私の足は止まった。一気に襲い掛かった疲れや息切れでヘトヘトになった私の耳に、一番聞きたくない声が聞こえてきたからだ。


「ほら、ったく起きなさいよ!」


 苛立ち混じりの声は、紛れも無くあの女子生徒たちのグループのものだ。


「あはは、こいつもうへばってる♪」


 あざ笑うかのような声も、間違いなく私を『ブタ子』と呼び続けた彼女たちに間違いなかった。


 そして、彼女たちが何に向けてそのような声をかけているのか、私は見てしまった。


「……!?」


 飼育小屋の中で女子生徒に取り囲まれていたのは、他でもない、私の大好きな『ブタさん』だった。その小さく短い声からは明らかに恐怖の感情が現れ、表情も周りを囲む恐ろしい存在に対する恐れを表しているようだった。


 イヌやゾウ、クジラといった動物たちに負けずとも劣らない知性を持つブタさんは、同時にとてもナイーブな心の持ち主だ。どんな汚い場所でも平気で過ごすことが出来ると言う体の丈夫さとは裏腹に、トイレの場所をしっかりと決めていたり、体の清潔さを保っていたりと自分の体に対して非常に気を遣っている。少しでもストレスを感じてしまえば、それこそ食卓の『肉』にも影響してしまうほどだ。


 本で読んだ知識が、鮮明に私の頭を駆け回り始めた。目の前にいる哀れなブタさんは、何も知らない愚かな人間たちの餌食になろうとしている。それも、とても陰湿な理由で。


「ったく、こいつがいるからブタ子は調子に乗るんだよ!」

「ほんとほんと、ムカつくブタだよねー」


 最初からこいつをやっておけば良かった。

 隠れて見ている私の目の前で、あの女子生徒はこう言い放った。ブクブクと太り続け、いつも汚い部屋でごろごろしている憎たらしいこの動物を痛めつけておけば、『ブタ子』が図に乗ることも無く、自分たちの思い通りに動ける、と。



 その瞬間、私の心の一本の糸が、音を立てて切れた。




「……やめてえええええええ!!!」


 こんなに大声を上げて、あの女子生徒たちに真っ向から歯向かった事は無かったかもしれない。驚く彼女たちの元に駆けこんだ私は、大声で叫びながらブタさんの腹に近づけようとした女子生徒の脚を退けさせ、ブタさんと彼女たちの間にたった。


「邪魔しないでよ、ブタ子」

「あんた、何できたの?」


 ぎろりと睨み付ける相手の表情に、一瞬私は怯みかけた。でも、後ろで聞こえたブタさんの怖そうな小さな声を聞いた以上、ここから逃げたり怖気づく訳にはいかなかった。私の大事な存在を絶対に守らなければならない、それだけが私を動かしていたからだ。


「お願い……もうやめて!」


「どきなさい、ブタ子」

「あんたも酷い目に遭いたいの?」

「ったく、調子乗るんじゃないわよ!」


 絶対に駄目。ここをどかない。これ以上、酷い事をしないで。


 目に涙を浮かべながら、私は必死になって抵抗を続けようとした。でも、その時の私は抗えない現実を考えていなかった。いくら奮起して怒ったとしても、ぽっちゃり系で内気、いつも本ばかり読んでいる私の体力は、あの女子生徒に到底及ばない、と言う事に。

 うるさい、と言う怒鳴り声と共に、私の体のバランスが崩された。体中に飼育小屋の床の痛みが襲い掛かってきた。とうとう彼女たちは、暴力と言う手段を私――『ブタ子』に用いてきたのだ。私の目の前には、拳を作ったり足で蹴ろうとしたり、様々な体勢でブタさんの周りを再び囲み始めた女子生徒たちの姿があった。もうやめて、苛めないで、と言う私の言葉も、相手を嘲るように笑う彼女たちには一切届かなかった。


 そして、女子生徒の一人が、綺麗な桃色に染まったブタさんの肌に傷を負わせようとした、その時だった。



 その時の『ブタさん』の様子を、私ははっきりと記憶している。まるで火山が噴火したかのような、低くどこまでも響く凄まじい声が、涙で顔を濡らして横で泣き叫ぶ私や、その体を押しのけて周りを取り囲んでいた女子生徒の動きを止めた。

 そして、全員が見たのは、ぶくぶく太ってだらしなく寝ているだけに見えていた一頭のブタさんが、野性の心を取り戻したように立ち上がり、怒りの形相を見せつける姿だった……。

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