第1話 てまねき

中学校では陸上部に所属していた、熱心に部活に打ち込む生徒ではなかった。

記録も人並みで、根性もない、練習もサボりがち…なんで辞めないの?などと言われている熱のない中学生だった。

そもそも消去法で選んだ部活だった。

田舎の中学校、小学校の時と違ったのは、部活の多さ。

だけど、やったことの無いことばかり、文科系の部活を選ばなかったのはなぜだろう…。

運動部からしか選ばなかった。

貧乏な家庭だったので、道具にお金が掛からない部、陸上部を選んだんだと思う。


中学2年の夏、その日は暑かった。

練習に参加していたが、帰ることばかり考えていた。

友人がサボろうと誘ってきたとき、迷わずOKした。


練習を適当な理由をつけて、途中抜けした。

自転車で競技場から抜けた解放感は何とも心地よかった。

「ちょっと文房具屋に行きたいんだけど」

と友人が言うので大通りから横道に入った。

幼稚園を経営しているお寺がある路地、

「~…~…」

何か聴こえた気がして、ブレーキをかけた。

前を走っていた友人もブレーキ音に気づき漕ぐ足を止めて私の方を振り返る。

「どうした?」

と声を掛けられて、私は友人の方へ顔を向き直し

「いや、なんか名前呼ばれた気がした…んだけど…」

「ふーん、気のせいなんだろ?行こうぜ」

ふたたびペダルに足をかけた友人、

「あぁ…」

と曖昧に返事をして、私も漕ぎ出そうとしたときだ

「サクラユキ」

今度はハッキリと聞こえた。

友人も聞こえたようで、振り返り、私の顔を見ている。

声のした後ろを振り返ると、

白いワンピースの女性がうつむき加減で、道の真ん中に立っていた。

顔はよく見えないが、ほかに人影もなく、この女性が呼び止めたのは

あきらかだった。

ワンピースの女性は、顔をあげようとせず、何もしゃべらないまま、うつむいている。

友人は私の隣まで戻ってきていた。

「知り合い?」

私に友人が訪ねるのだが、覚えがない。

「いや、違う」

「じゃあいこうぜ」

とまたペダルに足を掛けると、

女性は、うつむいたまま、スーッと右手を肩のあたりまで真っ直ぐあげて、

ゆっくり、てまねきを始めた。

友人はふたたび私に知り合いなんじゃないかと聞いてきたが、まったく覚えがない。

幾度か無言のてまねきを繰り返すと、女性が

「サクラユキ、オイデ…サクラユキ、オイデ…」

と、うつむいたまま、ぶつぶつ呟いている。

てまねきを一定のリズムで繰り返し

「サクラユキオイデ…サクラユキオイデ…」

5mほど私の後ろで、身動きせず、ただ、うつむいたまま、てまねきを繰り返す女性。

不思議と怖いと思わなかった。

頭の中で声が渦巻くように回り、なにも考えられなかったように思う。

ふいに制服の襟を後ろにグイッと引っ張られた。

首がガクンとなって、何度かパチパチと瞬きをした。

「逃げるぞ!」

友人が引っ張ったのだ。

我に返った私は、その瞬間、初めて、その女性を『恐い』と思った。

私と友人は後ろを振り返らず、一心不乱に自転車を漕いだ。

とても長い時間、路地を走っていた気がする。

路地から大通りに飛び出して、町の雑踏が聴こえだすと、ようやく逃げ切れたと思った。

肩で息をしながら、友人と顔を見合わせた。

意味もなく笑った。


不思議なことに、そんな経験をしながら、友人と翌日から現在に至るまで、

その話をしたことがない。

私は本当にこの経験をしたのだろうか?

あるいは夢だったのではないか?

そんな風にも思い始めている。

しかし、あの女性の声や姿は今でもハッキリと覚えている。

走っても走っても、耳のそばで呟くような声を……。

路地を抜けるまで聴こえ続けたあの声を。

「サクラユキオイデ…サクラユキオイデ…」

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