東京ニャクザ興亡録
既読
本編
第1部 渋谷死闘編
第1話 じいさん、ねんねの時間だよ
肉球が夜のアスファルトを踏む音がした。
路地裏で、ゴミ捨て場で、ビルとビルのすき間で、微かな音がひしめいている。
猫たちの夜だ。
その夜を切り裂くように走る、一匹の猫がいた。
彼の名を、渋谷の猫たちは、おき
おき太の姉は、シロと呼ばれる美しい雌猫だった。
その美しさは、彼女の住む
それでもシロに手を出す者がいなかったのは、おき太の兄、とし
もとより、三匹に血のつながりはない。
ただ、目の開いたころから、三匹とも孤児であった。
三匹は、この渋谷の街で、身を寄せ合って生きてきたのだ。厳しい風雨と飢え、そして野良猫たちの敵意が、彼らを
しかし、とし蔵とシロは、名が売れ過ぎた。
おき太は走った。
とらと言えば、音に聞こえた暴れ猫である。
おき太自身も、一度、宇田川町を練り歩くとらの姿を見たことがあったけれど、とし蔵と比べても、からだの大きさが倍ほどもある大猫であった。
それでも、シロの危機となれば、とし蔵は戦うだろう。
そうして、とらとしては、とし蔵を打ち負かしてシロを奪うことで、己の名をさらに高めようとしているのだ。
そんな中に、自分が飛び込んだところで、どうにもならないかもしれない。
そう思いながらも、おき太は走らずにおれない。
しかし、彼が宮下公園に着いたとき、目にしたのは、信じられない光景だった。
公園の真ん中に、二匹の猫がいる。
一匹は血まみれになって倒れ、もう一匹は、同じように血を流しながらも、立ち続けていた。
立っている猫は、とし蔵だった。
彼らの戦いを見守っていたであろう周囲の猫たちは、声もなく静まり返っている。
「……死んだぜ」
駆け寄るおき太に、とし蔵がぽつりとつぶやいた。
「そいつはもう、死んだ」
デデーン(効果音)
宇田川組 跡目相続猫
とら 死亡
その声を聞いて、猫たちが公園から一斉に逃げ出した。
渋谷で最も大きな組の跡目が、喧嘩で死んだのだ。
にゃおーん!
辺りで猫たちの声が響く。
公園に残ったのは、とし蔵と、おき太、そしてシロの三匹だけだった。
「トシ……ごめんなさい」
シロが、トシの胸に顔を埋めて、泣いた。
「……お前のせいじゃないさ」
とし蔵の腕が、シロの頬を静かにぬぐう。
おき太が言った。
「とし兄、逃げよう。すぐに宇田川組のやつらが来る」
そのおき太の声に応えたのは、とし蔵でもシロでもなかった。
「その必要はありませんよ」
背後の闇に、金色の瞳が浮かび上がる。
猫だ。
真っ黒な猫だ。
頭から、尻尾の先まで、全身真っ黒な猫だ。
その瞳だけが、闇夜に爛欄と輝いている。
「
そう言って、虚無助と名乗る猫が、公園の真ん中に進み出た。
「宇田川組跡目とらとの喧嘩、この目ではっきり拝ませていただきました。この喧嘩は、誰も文句のつけようのない、正々堂々のもの。これに組が文句をつけるようなら、渋谷のにゃん侠道は地に落ちたと、東京中のニャクザに笑われましょう。ここは山盛組に仲裁、ひとつ任せちゃもらえませんか」
慇懃な口調ながら、この虚無助という猫の身のこなしには、一分の隙も見えない。山盛組の若頭という名乗りは、伊達ではなかろうと思われた。
山盛組は、宇田川組と渋谷を二分するニャクザ一家。山盛組ならば、宇田川組との間に手打ちを行うことも可能なはずだ。
「……跡目を殺しておいて、タダで手打ちってわけには、いかないよな」
とし蔵が、口を開く。
「俺の首ィ持ってってくれ。それで、こいつら二匹の安全を保障してくれるんなら、俺ァ満足だ」
「とし兄!」
おき太がとし蔵に食って掛かろうとしたところで、虚無助の口から、火のような舌がちろりと覗いた。
「……まあ、任せてください。悪いようにはしません」
そうして、四匹は山盛組組長、山盛よしおのもとに向かった。
この夜が、東京ニャクザ史に残る大抗争の序章となるとは、まだ知らずに。
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