2
キルリアは走っていた。
雨は先程よりも弱くなっていた。それでも、キルリアの青い髪がぐっしょりと濡れて顔に張りつき、洋服は雨水を吸って重くなっている。足元はぬかるんでいたが、キルリアは危なげなく駆けていた。
とにかく、走っていた。場所は王宮のすぐ北に広がる森。ここもまだ王宮の敷地内ではあったが、奥地は手が入っていない。狼もいれば、熊も出る。未開の森だ。そこを、とにかく奥地へ、直感のままに、キルリアは走っていた。
その先に、必ず魔王が居るはずだった。
やがて、かなり奥地まで来たところで、キルリアは足を止めた。上がった息を整えるように、深く息を吐き、目を閉じる。
すでに雨は上がっていた。静かな森の気配が辺りに満ちている。
雨を降らせていた雲はどんよりと、未だ空を多い、そのせいか、森の中は暗かった。そんな中、キルリアは静かに息を整えて、目を閉じ、それを待っていた。
やがて、音もなく気配が降り立つ。ゆっくりと目を開き、キルリアはそちらを向いた。
「やっと、心を決めたか」
ひっそりと木の陰に立つ魔王は、そう呟き、微笑を浮かべた。対照的に、キルリアは無表情で、そんな魔王を見つめ返した。
「……どうして、支配を止めたの? ウルドやルークを助けたのは何故?」
「あれらに、興味はない。国がどうなろうと、俺は知らない。ただ、お前が大切にしているものを壊してやろうと思ったまでだ」
小さく笑いながら答えた魔王に、キルリアはさらに問う。
「なら、尚更、何故あそこで止めたの?」
「殺して欲しかったか? お前の手で、お前の目の前で」
「……させない」
睨みつけたキルリアに、何を思ったのか、魔王は低く笑いを零した。その様子に、キルリアが怪訝そうに眉をしかめる。
「……そう、それだ。その目が見たかったんだ」
笑いを納めた魔王は、真っ直ぐにキルリアを見つめた。
「俺が憎いだろう? 両親を殺し、大切な物を奪う俺が」
「……」
「お前のその目が欲しかった。そして、本気のお前を殺りたかったんだ。そうでなくては面白くないだろう」
余裕の表情で告げた魔王に、キルリアは真っ直ぐ見据えてゆっくりと言った。
「私は……嫌よ。あなたと殺し合いなんて、嫌」
そんなキルリアの言葉に、魔王は剣呑に目を細めた。
「まだ、そんなことを言うのか? それとも、お前は本当にこの世界を終わらせたいのか?」
「そんなことにはさせない。世界も、貴方も救ってみせる」
キルリアの言葉に、魔王は不満げに告げる。
「……無理だな。俺かお前、生き残るのはどちらか一人。お前が死に、俺が生きれば、光は力を失い、闇は神を、そして世界を滅ぼす。逆にお前が生き、俺が死ねば、闇の野望は再び封じられる。それが理だ」
「私は、貴方を殺さない」
強い意志で、しっかりと言うキルリアに、魔王は呆れたように、少し失望したように眉をひそめた。
「……ならば、お前が死ぬだけだ」
「……」
キルリアは答えない。無論、死ぬつもりはなかった。しかし、魔王を殺したくないのも事実だった。
黙って睨み合う二人。張り詰めた空気の中、静かなときが流れる。
やがて、先に口を開いたのはキルリアだった。
「私は、知ってるわ。貴方が本当はとても優しいことを。だから、闇にとらわれた貴方を助けたい……」
訴えるような声に、魔王は不快な表情を見せた。
「……お前はわかっていない。そんな甘い話ではないのだ」
「いいえ、私は知っているもの。私が初めて会ったマナト様は、とても優しくしてくれた。だから」
「それも、昔の話だ」
キルリアの言葉を遮るように、魔王は感情の見えない声で言った。焦るわけでもない、あきらめを感じるわけでもない、それ 以前に、感情という物をことごとく排除したかのような声色。その声が持つ威圧感に、キルリアも言葉を飲むしかない。
黙り込んだキルリアを見て、魔王は銀の目を細めた。
その表情は冷徹な『魔王』のもの。
確かに彼は、即位を前後に変わってしまった。キルリアが魔王の城へつれられてきた頃、彼はまだ『魔王』ではなかった。ひとりぼっちで心細いキルリアを気にかけてくれる、優しい少年だった。しかし、しばらくして、マステの王として即位した彼は、まるで別人のように変わってしまったのである。
どこか憂いを浮かべたその瞳は、いつしか冷徹な眼差しを放つようになった。
人々は彼を恐れ、彼もそれを理解していた。
それでも、キルリアは信じたかった。『魔王』でなくなれば、彼は昔の『マナト様』に戻ると、信じたかった。
「つまらん感傷を抱くな」
冷たい瞳で、ひたと見つめる魔王が言う。
「人は変わる。過去の幻影に惑わされるなど、光の申し子も名ばかりか……」
「違う」
「何が違う? お前は逃げているのだ。過去の『俺』に囚われて、今の俺を、現実を見ようとしていない」
「違う……」
「違わない。お前は逃げているのだ。世界を滅ぼす力を恐れている。それでは、お前を選んだ《光》も報われんな」
「……」
魔王の言葉に、キルリアは返す言葉が無い。否定したかったが出来なかった。
『世界を救え』なんて、大きな事を言われて怖くないわけがない。自分が死ねば、世界が滅ぶと言われて、その現実から逃げたかったのも確かだ。それでも、魔王を信じたかった。しかし、そのことを彼に伝えるには言葉が無い。
黙り込んだキルリアを見て、何を思ったのか魔王は静かに笑みを浮かべる。
そして、ゆっくりと告げた。
「時間切れだな。お喋りはここまで」
その瞬間、魔王の右手に長剣が現れる。そして、不意にキルリアの視界から、魔王の姿が消えた。キルリアは反射的に右を向き、右手を掲げる。右手に光が宿り、それが短剣に成ると同時に、現れた黒い刃を受け止めた。
魔王はすぐに剣を引き、今度は逆側から目にもとまらぬ早さで仕掛けてきた。
その動きはキルリアの目では追いきれないほどである。キルリアは、そのすべてを感覚と感でだけで受け止めていた。
魔王は一流の剣士だ。国で一番、もしかしたら、世界で一番かもしれない。そんな熟練者が本気で斬りかかってきているのだ。常人ならば、その殺気だけでも引いてしまいそうなほどの威圧感を持ち、異様なほどの早さは魔王の城でライトリアを相手にしていたときとは比べものにならない。
キルリアは苦戦を強いられていた。いつの間にか防戦一方にされ、反撃する暇が全くない。気を抜けば、ぬかるんだ地面に足を取られて終わりだ。
こんな悪条件の中でも衰えない魔王の素早さに、キルリアは焦りを感じる。
キルリアの息は上がっていた。対照的に、魔王は息一つ乱さない。
何撃目かもしれぬ剣を弾いて、キルリアは間を取ろうと後ろに飛んだ。
魔王は動かなかった。余裕の笑みを浮かべて、間を開けたキルリアを見ていた。
肩で息をしているキルリアは、涼しい顔をした魔王に焦りを増す。ここはまだ、剣士である魔王の間合い。この間合いにいる限り、自分に勝機はない。どんなに構成が早くても、この距離ならば魔王の剣の早さには及ばない。構成を始めたが最後、魔王の剣にかかるのが落ちだ。
しかし、これ以上剣で競っていても同じだ。後数太刀交わせば、魔王は自分を切り伏せるだろう。
絶体絶命だった。
焦るキルリアの様子を楽しむように見て、魔王は言う。
「世界も終わるか」
「……そうはさせない」
睨み付けてくる赤の瞳に、銀の瞳は面白がるように細められた。
「さて、それはどうかな?」
「どういう……?!」
魔王が意味深な笑みを浮かべる。同時に遠くからこちらに近づいてくる気配に気づいた。
「ウルド……」
「邪魔が来る前に終わらせようか」
その言葉が放たれると同時に、魔王は一瞬でキルリアとの間を詰めた。
ウルドたちに気を取られていたキルリアは、息をのんで短剣を翳した。かろうじて、魔王の剣戟を防いだが、しかし、運悪くぬかるみに足を取られた。
しまった、と思う間もなく、体勢が崩れた。踏ん張りがきかない。傾ぐ身体を支えるだけの力が入らない。
視界に入った魔王の微笑。
その黒い刃。
それが自分に向かって振り下ろされる様子は、どこかゆっくりで、まるで、時の進みが遅くなったかのようだった。
(……間に合わない)
迫り来る刃に、キルリアは驚くほど冷静に考えていた。
頭を過ぎるのは、学院の仲間。
10年経っても、覚えていてくれたルーク。守ると言ってくれた国王。
そして、危険を省みず魔王の城まで乗り込んできてくれたウルド。
キルリアはこの世界が好きだった。
良いことばかりじゃない、辛いこともたくさんある。理不尽なことだって、いっぱいある。
それでも、仲間と生きたこの世界が好きだった。
(……世界を、終わらせはしない)
迫る刃は避けられない。
でも、諦めたくない。
世界の為なんて、大きなものじゃない。大好きな人たちと生きるこの場所の為に。
そう思った瞬間、キルリアは、必死で持っていた短剣を魔王に向かって投げていた。
後のことなんて考えてなかった。
魔王ほどの剣士ならば、簡単に避けられるだろう。実際、キルリアは当てることなんて考えていなかった。とにかく、魔王の意識を反らさなければ、終わってしまう。
しかし、ここで、魔王を退けたところで、短剣を手放してしまえば、キルリアは丸腰だ。すぐに撃ってくれば、今度こそ終わり。それでも、キルリアは短剣を投げた。最後の最後まで、諦めたくなかった。
キルリアが力いっぱい投げた短剣に、魔王も気づき、刃の勢いが僅かに衰える。
そして――。
「……」
そして、地面に尻餅をついたキルリアは、その光景を前にして、とっさに動くことができなかった。
先程までの激闘が嘘のように、辺りは静まり返る。
目の前に立つ魔王を見上げたキルリアは、目を見張り、言葉を失っていた。魔王は笑みを浮かべて、キルリアを見下ろしている。
まるで、時間が止まったように、見つめ合う二人。
やがて、魔王の手から、その黒い剣がするりと抜け落ち、地面に落ちる。
「……な、んで」
掠れた声で呟いたキルリアに、魔王は笑って応えると、その身体が急に前に傾いだ。そして、そのまま、魔王は力なく大地に倒れ臥す。
「嘘……」
キルリアは目の前の光景が信じられなかった。
倒れて動かない魔王を、キルリアは唖然と見つめる。
じわりと、魔王の体から流れ出したアカが地面に広がる。
何がなんだか分からなかった。キルリアが投げた短剣くらい、魔王なら簡単に避けられる筈、だった。しかし、実際に見えたのは、真っ直ぐ魔王の胸に飛び込む短剣と、それを受け入れる魔王の姿。
「なんで、避けなかったの……?」
唖然と呟いたキルリアの声を聞いて、魔王が微かに動いた。我に返ったキルリアは、慌てて倒れた魔王に近づいた。そして、 その身体を仰向けに寝かせる。
キルリアが魔力で作った短剣は既に消えていた。その傷口からは真っ赤な血が止めどなく溢れている。あまりの傷の深さに動揺しながらも、キルリアは慌てて止血をしようと傷口に手を当てる。
しかし、その手を魔王が掴んだ。
はっとして魔王の顔を見ると、魔王は血の気の失せた顔で笑っていた。
「……いい、もう、無理だ」
淡々と事実を告げるその声色に、キルリアは目の前が滲むのを止められなかった。
「嫌、絶対、死なせないっ……」
涙が止まらない。まるで、幼い子供のように涙を流すキルリアに、魔王はふっと笑いを零した。
「……なんで、だろうな」
呟くように言う魔王は、血に汚れた手をキルリアに伸ばした。そうして、キルリアの頬に触れて、魔王は微笑した。
「泣かす、つもりは、なかった……」
「分かってる」
「どう、してか、……動け、なかった」
「分かってるから」
頬に伸ばされた魔王の手にすがりつくようにして、キルリアは訴える。しかし、魔王は淡く笑った。
「結局、お前には、……勝て、ないんだ」
「もう、黙って」
懇願するようなキルリアに、魔王は目を細めていた。
「何故、泣く……?」
掠れたその声は優しく、その手はそっとキルリアの涙をなぞる。
キルリアには答えられなかった。人の死なら山ほど見てきたはずである。しかし、動くことも、話すことも出来なかった。ただ、駄々をこねる子供のように首を横に振る。
「……泣くな」
魔王の言葉に、キルリアは目を見張った。魔王は、その銀の瞳を優しげに細めて、じっとキルリアを見つめていた。
「笑え」
「……」
「……お前の、笑顔が、好き、だった」
キルリアは困惑して、赤い瞳を揺らす。その様子に、魔王はふっと小さく笑う。その笑みは、“魔王”ではない、“マナト”のもので。
キルリアは涙を拭って、笑って見せた。それでも、溢れる涙は止まらなくて、すぐに頬を濡らした。
そんなキルリアを見て、魔王は笑い、そして、そっと何かをつぶやく。
「ーー」
その言葉にキルリアは目を見張った。その反応を面白がるように笑った魔王の瞳から、意志の光が消えていく。身体から力が抜け、重さがぐっと増す。
キルリアの頬に添えた手が力なく落ちる。その様子に、キルリアは顔を強ばらせた。
「嫌、駄目……」
呟くが、魔王は動かない。傷口からあふれる血も既に止まっていた。
「なんで……、嫌、置いてかないで。行っちゃやだっ……」
涙があふれて止まらない。
そんなことは望んでなかった。たとえ、《光》が望んだことでも、世界のためと言われても、他の道を探したかった。
「マナト様……」
ポタポタと落ちた涙が、骸となった彼の上に滲んで消えた。
闇の魔術士としても、ライトリアとしても、人が死ぬ場面など何度も目にした。暴走した力に殺されたもの、罪を犯し、または敵として処刑されたもの。中には、自分で手を下したものもいる。術者として、その覚悟はしている。なのに、涙が止まらなかった。
理由は分からなかった。それでも。
「……こんな終わり方、嫌よ」
その呟きは、静かな森に溶けて消える。
世界なんかいらない。運命なんかくそくらえ。
欲しかったのは。望んだのは。
「もっと、一緒にいたかった」
幸せな時を。闇も光も関係なく。ただ、同じ時を過ごしたかった。
同じ力を持つ人。
同じなのに、決して相容れない力。
相反するものなのに、否、だからこそか、惹かれあった。光は闇に、闇は光に焦がれた。
しかし、その彼はもう居ない。闇の力を持つ魔王と呼ばれた青年は、魔王のまま、その死をもって世界を救った。それは誰にも知られることもなく。
「……貴方は優しすぎたのよ」
涙を拭い、キルリアは顔を上げた。
後ろから迫ってくる足音に気づいたが、振り返らなかった。重い雲が切れ、光が差し込む。
「さようなら、私と同じ力を持つ、たった一人の同朋」
ただ静かに骸を見つめ、キルリアはそっと呟いた。
「キルリア!」
駆けてくるウルドの声がした。複数の足音も追ってくる。
それでも、キルリアは振り向かなかった。ただ、魔王の亡骸をじっと見つめていた。
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