Chapter six "Light and Dark"
1
それから、何事もなく5日が過ぎた。体の調子は順調に戻ってきたキルリアだったが、それは同時に魔王の襲撃も近づいていることを意味していた。
刻々とその時が迫る恐怖。
しかし、キルリアには為すすべがない。
読んでいた本から顔を上げて、キルリアは立ち上がり、窓辺による。外は雨だった。
重い灰色の空から落ちる雨粒は、キルリアの心も沈ませた。鬱々とした空気は、思考をも暗い方向へと向かわせる。
空を見上げていたキルリアはため息を吐いて、窓から離れる。
その時、その窓の向こうに、黒い陰が横切った気がして、キルリアは弾かれたように振り返る。
次の瞬間、湿気とは違う、重いねっとりとした空気が部屋に入り込んできた。それに気づいた途端、キリルアは吐き気がして口に手を当てた。目の前が霞んで、立っていられず、膝を付く。
(見つけたぞ……)
頭の奥に響く、低い声。それは、とても良く知る声。
(……魔王)
朦朧とする頭で、微かに考える。すると、その声は、くっくっと喉の奥で笑う。
(まさか、未だそこに居るとは思わなかった)
(……貴方こそ、遅かったわね)
(お前に時間をやったのだ。……だが、それもここまで。さぁ、悲劇を始めよう)
愉しそうに魔王の声が告げた。そして、キルリアの身体から力が抜ける。
(……!?)
そのとき、部屋の扉が開かれた。その向こうにいたのは、ウルド。
「キルリア!」
ウルドは、床に膝を付いたキリルアを見て、あわてて駆け寄った。
「どうかしたの?!」
「……いいえ、どうもしないわ。ちょっと眩暈がしただけ」
そう答えたキルリアの肩に、ウルドは心配そうに触れる。
「大丈夫かい? 立てる?」
「ええ、……ありがとう」
その瞬間だった。
キルリアが急に振り向くと、ウルドの居たその場所を銀の光が走った。咄嗟に距離をとったウルドは目を見張る。その頬に、赤い線が走っていた。遅れて痛みを感じ、手を触れると、ぬめりとした赤い血がその手を汚した。今の一瞬、キルリアから飛び離れたのは、ウルドの鍛えられた勘と、完全な運だった。
「ああ、避けちゃったの? 残念」
そう言って、くすくすと笑いながら、キルリアはゆっくりと立ち上がる。その手に握られた短剣を見て、ウルドは息を飲んだ。逃げなければ、その短剣がウルドの喉を掻き斬っていたのだ。
「キルリア……?」
「何?」
唖然とその名を呼ぶウルドを、キルリアはその赤い目を可笑しそうに細めて首を傾げた。
その様子は、確かにキルリアだった。それでも、何かがおかしい。
クスクス笑う彼女の手には、ウルドの血が付いた短剣。何処から持ち込んだのかと思ったが、彼女が未知数の力を持つライトリアであることに思い至ると、それはどうにでもなる気がした。
じっと睨むように伺うウルドは、用心して、構えながら静かに聞いた。
「……誰だ、お前」
「あら、それは、貴方もよく知ってるでしょ?」
「キルリアは、僕を騙して襲うようなことはしないし、する必要もない」
そんなことをしなくても、キルリアはウルドを抑えられるはずだからだ。しかし、目の前のキルリアは可笑しそうに声を立てて笑った。
「……私も信用されたものね。騙されていたとは考えないの? 私が魔王様の為に、この国に入り込んでいたとしても?」
「それはない」
「疑うことも覚えた方が身の為よ、王子様。……まぁ、ここで死んでもらうけど」
そう言って笑ったキルリアは、一瞬にしてウルドの目の前に迫った。振りかざされる短剣に、ウルドも反射的に自分の短剣でその刃を受けた。受け止められたのは、ひとえに日頃の鍛錬のおかげだろう。しかし、その重さは異常だった。
「くっ……」
ウルドが全力で弾き返すと、キリルアは間を置かずに、二撃、三撃と剣を繰り出してくる。その息をも吐かせぬ剣戟を、勘と運だけで防いだウルドは、その太刀筋に既視感を覚えた。次々に襲ってくる刃を防ぎ、息も上がり、苦しそうに顔を歪ませたウルドは、不意にそれに思い至る。
「……魔王」
その太刀筋は確かに、魔王の城で会った銀髪の剣士のものに酷似している。その人こそが魔王なのだと、キルリアから聞いたのは数日前のこと。
ウルドのその呟きに、キルリアが目を見張った。
「ほぉ、お前、あの時の生き残りか……」
そう呟いたキルリアは、不意に剣を引いた。そして、短剣を手の中で回して、不満げに言う。
「やはり、慣れない剣は使いづらいな……」
「お前、本当に魔王なのか? ならキルリアは……」
唖然と呟いたウルドに、キルリアの姿をしたその人は、一瞬にして距離を縮め、ウルドに切迫したかと思うと、そのままの勢いでウルドを壁に押し付け、その腕で首を圧迫した。
「……っ!?」
「せっかく逃げる機会をやったのに……」
「……お前、ぐっ」
キルリアの姿をしたその人は、暴れるウルドの首を絶妙の力加減で絞めながら、その顔に笑みを浮かべた。
「……我が城から生還し、見破ったお前に敬意を表して、教えてやろう」
そして、そっとウルドの耳元に口を近づけて言う。
「私は確かにお前の言う魔王だが、この躰はキルリアのもの。ライトリアなら、精神感応を応用して、理論上は相手を乗っ取ることができるというのを知っているだろう?」
その言葉にウルドは目を見張る。声が出せれば、そんなことは不可能だと叫んだだろう。それでも、そんなウルドの表情を正確に読んで、その人は笑った。
「……そんなのは机上の空論、とでも言いたそうだな。確かに、ただの人間には不可能だろうな。だが、私はそうじゃない。このキルリアもな」
「な、にを……」
キルリアの名に、ウルドは辛うじて声を上げた。そんなウルドに、魔王は首を絞める力を強める。
「私も、これも、使えるんだよ、“魔法”が。そういう宿命に生まれてしまった」
自身を指してそう言った魔王は、そのままウルドを絞める力を更に強めた。
確実に動脈を押さえている魔王の腕は、後少し、力を込めただけで、ウルドの命を奪える。必死に足掻いたウルドだったが、不意に目に入ったキルリアの顔を見て、動きを止めた。
それはキルリアの頬を伝い、ポタポタと床に落ちる。
キルリアは泣いていた。
ウルドを殺そうと力を増す腕とは逆に、キルリアは涙を流していた。
(……キルリア)
ウルドは声にならない声でキリルアを呼ぶ。魔王は、精神感応の応用でキルリアの体を乗っ取ったと言っていた。ならば、キルリアの精神は、まだ、その躰に残っているはずだ。そして、その涙は確かにキルリアのもので。だから、もう、これ以上、この手を汚させてはいけない。
(……もう、傷つけさせないと誓ったのに)
自分の力が及ばないせいで、自分のせいで、彼女はまた涙を流している。
ウルドはそう考えるも、すでに意識は朦朧として、思うように体が動かない。
もう、ダメかもしれない。
そう思った瞬間だった。魔王の意識が一瞬、逸れた。そして、部屋の扉が開けられる。
「こんにちは、リリュート。ウルドは居るかい? ……あれ?」
現れたのはルークだった。それを見た魔王はおもむろにウルドから手を離し、そっとルークの死角に動く。ルークは空のベッドを見て、首を傾げると、部屋を見回し、床に倒れ咳き込むウルドを見つけ、あわてて駆け寄った。
「ウルド?!」
激しく咳き込むウルドの様子に、状況がわからないルークは困惑したように、ウルドに手を貸す。
「……何が」
そう呟いたルークだったが、ウルドは苦しそうに咳き込みながらも、おもむろにルークの腕を引っ張った。そして、前のめりになったルークの背を庇うように、もう一方の手に握った短剣を翳した。次の瞬間、キンッという金属音が響き、ルークを襲おうとしていた短剣を、ウルドの短剣が弾き返す。
「……え?」
一瞬の出来事に驚いたルークが、振りかえって唖然とする。
ルークを襲ったキルリアの姿をした魔王も、軽く目を見張っている。
「その状態で動けるとは思わなかったぞ。……ライトリアは、名ばかりではないようだな」
「リリュート……?」
「兄上、下がってください!」
圧迫されていた喉に手を当てながら、ウルドは、唖然とキルリアの姿をした魔王を見ていたルークの腕を引き、後ろに庇う。
「……どうして?」
キルリアが襲ってきたという事に驚き、呆然と呟くルークに、ウルドはかすれた声で告げる。
「あれは、キルリアじゃない。魔王がその躰を乗っ取っているんで」
「そんなことが、出来るのか……?」
ルークの疑問は最もだった。一般的に、人の体を乗っ取ることは不可能とされている。しかし、実際、出来ない事はない。
魔王の言うとおり、理論上は精神感応や精神干渉を応用すれば、出来る。しかし、そのために必要ない魔力や精神力は常識を遥かに超える。事実上は、不可能なのだ。
それこそ、数百年前にこの世界を救ったと言われる神使や、神にしか出来ないだろう。彼らが使うのは人間には使えない、“魔法”なのだから。
その“魔法”を、キルリアも自分も使えるのだと、魔王は言った。それが本当ならば、ウルドなんかに勝ち目はない。しかし、ウルドは、ルークを後ろに庇い、魔王と相対した。短剣を油断無く構え、キルリアの姿をした魔王を睨みつける。その様子に、魔王は薄く笑みを浮かべた。
「逃げはしないのか?」
「キルリアを助ける」
「……ふん、お前に何が出来る? この体は私が乗っ取ったんだぞ?」
「なら、何故涙を流す?」
ウルドに言われて、魔王は軽く目を見張った。自らの頬が濡れていることに、やっと気づいたようだ。その頬を伝う雫を拭い、目を細める。その様子を見たウルドは焦る。精神を乗っ取るほどの力を持つ男だ、その気になれば、キルリアの精神を破壊することも出来るのだろう。
「……キルリア」
零れた名前に、魔王が反応する。そっとウルドに向けられたら深紅の瞳は、何の表情も見せなかった。
「……気に食わんな」
そう呟いたキルリアの瞳からは、すでに涙は止まっていた。
「……信じ続ける、お前も、光も。気に食わん」
「……?」
意味が分からないウルドは構えながらも、訝しげに魔王を伺う。しかし、その一瞬後、気が付いたときには、銀の刃が目の前に迫っていた。
考える間もなく、短剣でそれを受ける。しかし、後ろにルークを庇いながらだ。すぐに追い立てられる。ルークも、ウルドの不利に気づいて、剣を持ってきていないことを悔やんだ。この部屋には、どこよりも強固な結界を張ってあったし、すぐ近くに衛兵もいる。何より、キルリアしか居ないのだから、必要ないと判断したのだ。その判断が悔やまれたが、今はここを切り抜けることを第一に考えるべきだった。
しかし、なんの手を打つことも出来ないまま、ウルドの短剣は弾かれる。その勢いのまま、ウルドの右腕を魔王の短剣が襲う。
「くっ……」
「ウルドっ!」
走る激痛に、ウルドは顔を歪めた。魔王の剣戟を受け続けたため、息も上がっていた。そのまま、膝をつく。次の瞬間、魔王の短剣がウルドの首を難なく捉える。
……はずだった。
覚悟をしたウルドだったが、思った衝撃は何時までたっても訪れない。
そっと、体を動かすと、驚愕した表情の魔王が目に入った。ルークも、困惑したように、息を詰めてそれを伺っている。
「何故……」
唖然と呟いた魔王の手を見て、ウルドは目を見張った。
短剣を握った右手の手首を左手が押さえていた。
「まだ、抗うのか……?」
魔王の呟きは訝しげだった。そして、何を思ったのか、その唇はゆっくりと弧を描く。その様子は、愉しげですらあった。
「ならば、見せてもらおうか。……お前の覚悟を」
「……何?」
魔王の呟きに、ウルドが問い返した瞬間、魔王が操っていたキルリアの身体から力が抜け、膝をつく。
突然のことに、ウルドもルークも動けない。
俯いたキルリアの表情は二人からは伺えない。
「キル、リア……?」
恐る恐る呼んだのはウルドだった。
ぱたりと何かが、キルリアの足元を濡らした。
「……んね」
消え入りそうな震えたか細い声。
「ごめんね……」
キルリアはそう言ってウルドを見た。その紅い瞳からは、止めどなく涙があふれている。
「キルリア……」
魔王ではなく、キルリア本人であることがわかり、ウルドは顔を輝かせ、そばに駆け寄った。しかし、キルリアは首を横に振って、ウルドを突き放した。
拒絶を示したキルリアに、ウルドは唖然と固まる。
「ごめん」
もう一度そう呟くと、キルリアは不意に手を掲げた。パリンッという硝子の砕ける音が響いた。ウルドの顔色が変わる。キルリアが何をしようとしているのかは分からない。しかし、今、キルリアは、ウルドの張った結界を破ったのだ。何かをしようとしているのは明らかだった。
「キルリア!」
空気が変わった。魔術を組み上げる良く知った気配。キルリアが一瞬にして、何か魔術を構成する。ウルドが手を伸ばす。そんなウルドに、キルリアは笑った。
「ごめんね。……ありがとう」
次の瞬間、キルリアの姿が霞のように消える。延ばされたウルドの手は空を掴んだ。
唖然と、ウルドはキルリアの消えたそこを見つめる。
「……」
静まり返る部屋。ウルドは、気が抜けたように、ぱたりとそこに膝をついた。
「……ウルド?」
ゆっくりと近寄ったルークが、そっと伺う。ウルドは、ぽつりと呟く。
「また、だ……」
「……」
「また、僕は、キルリアを救えなかった……」
そう言ってうなだれるウルドに、ルークはそっと触れる。顔を上げたウルドにルークは、少し微笑んで言った。
「僕だってそうだ。手も足も出なかった。……だからといって、今は悔やむ時じゃないよ」
「兄上……」
「あの体でそう遠くに行けるとは思えない。……今、僕らに出来ることをしよう。彼女の気配を追えるかい?」
ルークの言葉に、ウルドは目を見張る。確かにその通りだった。悔やむことは後でいくらでも出来る。今、出来ることをすべきだった。
もう、二度と彼女を失うわけにはいかない。
「はい。できます」
「兵を呼ぼう。人手が必要だ」
笑みを消したルークはそう言って、立ち上がった。
足早に部屋を出るルークを追って、ウルドも立ち上がった。
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