5
あれから、キルリアは、ずっとその地下牢にいた。
はじめのうちは、食事の回数を数えていたが、それも十回を越したところで、どうでもよくなり、数えることをやめた。だから、今が何日目なのか、昼なのか夜なのかさえも、分からなかった。
食事のとき以外は、人の姿や火の明かりを見ることもなく、ただ水の音だけを聞いていた。暗闇の中に規則正しく響く音は、それだけで、人の心を疲弊させる。それに加え、この場所には、お世辞にも体にいいとは言えない負の魔力が満ちている。ここに入れられた者が、すぐに発狂するのにも、うなずけた。
現に、この気配に慣れているはずのキルリアでさえ、何か言葉にできない不安を感じていた。その不安に飲み込まれたらそこで終りだ。不安に飲み込まれ、自分を見失ったら、この空間に満ちる負の気が、キルリアを殺すだろう。わかってはいるが、不安を感じてしまう。
こんな気持ちになることは今までなかった。手足を繋がれ身動きも取れず、暗闇に一人でいる。それだけならば、今までに何度か経験している。
ならば、なぜ、こうも不安になるのか。
食事に何かを入れられているのかもしれない。そう考えてもみたが、精神剤や、そういう魔術についての耐性は、学院で訓練した。だから、この気持ちは、薬のせいではない。
では、なぜか。
(原因は……、わかってる。)
キルリアは暗闇の中、考えていた。動けない中で、できる事といえば、考える事だけ。そして、不安にさせる原因もそれだった。
何を考えるにしても、最後はウィルダムの事になる。学院で最後に見た、ウィルダムの驚いた顔が忘れられない。ウィルダムは自分の事をどう思ったのか。
そして、もう一つ。ウィルダムは、昔のことを思い出させる。とても昔、自分も幼く、すべてが平和だった頃の事を。
ただ、それはすべて壊れてしまった過去のもの。自分は“彼女”に会い、力を持ってしまった。
そのとき、無音だった世界に微かな足音が聞こえてきた。キルリアは不審に思い、音の聞こえてくる方に目を向けた。食事は先程したばかりだ。だから、誰も来るはずはないと思っていた。
しかし、音のする方には、幾つかの明かりが小さく見えた。明かりの数や足音の数から、少なくとも、三人以上いる。この場所に、それだけの大人数がやってくることは考えられない。
やがて、明かりが近付いてくるにつれ、キルリアはその集団がなんなのか理解した。三人の同じようなローブをきた男達は、キルリアを見下ろすように立った。
キルリアは、最初と同じように手足を繋がれたまま座っていたので、自然と見上げる形になる。そして、キルリアはその真ん中に立っている男の顔を見るなり、目を逸らした。
「お久しぶりです、姫さま」
二人の男を従えた、真ん中の一番若い男は、にこやかに言った。
「……長老院にいるとは、出世しましたね」
目を逸らしたまま、キルリアは言った。
「ええ。ですが、俺は、まだ下端なんでね。こうして使いとしてきたんですよ」
まだ四十にもなってないはずの男は答えた。
長老とは、このマステ王国において国王の補佐にあたる役職の事だ。その役職の性質上、多くの者は高齢だが、たまに、彼のように若くして長老となる者がいるのだ。そうした年下の者は、長老院の使者に選ばれる事が多く、今度の場合もそうなのだろう。
男は、ろうそくの明かりに照らされた猫のような金の目を細めて、キルリアを見下ろした。
「なぜ、逃げなかった?」
男は、さっきの軽口が嘘のような、鋭く冷たい口調で言った。
「なぜって、勝手にこんなところに閉じ込めておいて、何を言うの?」
「こんな城から逃げ出せないほど、今のお前は弱くないはずだ」
じっとキルリアを見下ろして、男が言った。キルリアも相手をうかがうように、じっと男を見ていた。
沈黙の中、先に口を開いたのはキルリアだった。
「……さすがは、ヴァツェル。だてに、長老になったわけじゃないようね」
「当たり前だ。俺は、教え子の力量を計れないほど馬鹿じゃない。今のお前の力ならここから抜け出せるはずだ。なぜ逃げない?」
男――ヴァツェルは、さらに尋ねた。
「さあね」
そう言ってキルリアは目を逸らす。それまで、睨むようにじっと見ていたヴァツェルは、溜め息を付いた。キルリアに答える気がないのがわかったのだ。
「まぁ、いい。院からの通達を告げる」
そう言って、ヴァツェルは紙を取り出して読み上げる。
「このようなところに長い間お引き止めし、誠に申し訳なく思いますが、姫様におかれましては……。長ったらしく言い訳が書いてあるが、面倒なので意訳すると、上に来い、だそうだ」
あまりにもあっさりと、ヴァツェルがいい、書いてあった紙をポイッと捨てた。長老たちがキルリアをなだめるために必死に考えたものだろうに、それを簡単に捨てるとはいかにもヴァツェルらしいと、キルリアは思う。
「ヴァ、ヴァツェル様!!」
付いてきていた二人の院の長老たちが、焦ったようにヴァツェルを呼び止める。
「うるさい。こいつにはこんなごちゃごちゃした言い訳は通用しないんだよ」
そう言って、ヴァツェルはキルリアの前にしゃがみ込んだ。そうしてやっとキルリアは、ヴァツェルと向き合うかたちになる。
ヴァツェルの金の瞳が、キルリアを映す。
「ただな、お前を素直にはなすと、院の方々は怖がるのでな、悪いが少し呪縛を設けることになった」
ヴァツェルはキルリア右肩に、取り出したナイフを当てた。
「俺としては、お前は、このまま殺してしまった方が、陛下のためになると思うのだがな」
「殺ってみる?」
キルリアは紅い目を細めて問う。ヴァツェルは、それを見て肩をすくめた。
「いいや。俺は、まだ死にたくないんでね」
そう軽く答えて、肩のところからキルリアの服の袖を器用に切り取った。むき出しになったキルリアの白い腕に、ヴァツェルは手を当て、短い呪文を唱える。終わると、何かを書くように、キルリアの肌の上に指を走らせる。そこで、キルリアは何をされているのか気付いた。
ヴァツェルが、手を放した後、肌の上には、墨で書いたような、黒い模様が残っていた。
「封魔の紋……」
「わかっているだろうが、その紋が有る限り、お前は魔力を使えない。普通に考えれば、力ずくで破る事は不可能だ。……まぁ、お前でも力尽きるくらいの力を使えば別だが、どちらにしろ、自殺行為だな」
「わかっているわよ」
キルリアも、そんな事をする気はなかった。
「あと、もう一つ」
そう言うヴァツェルは、あんまり言いたそうではない。この男にしては珍しく、躊躇う表情を見せた。
「何?」
「陛下が、お前を……」
後ろの二人にも聞こえないくらいの小さな声で、ヴァツェルは囁いた。
「!」
キルリアの顔が驚きに染まる。
「まさか……」
信じられない事だった。
「信じられん事だが、本当の話だ。まぁ、そんな事をするからこその魔王とも言えるがな。……あの方も昔とは違うんだ。」
「それでも……!」
ヴァツェルは首を横に振る。
「お前でもどうにかする事はできないだろ? 呪を破るには倍以上の力がいる。この呪では、そんな力を持つ人間なんて居ない。それは、わかっているはずだ」
ヴァツェルの言葉に、キルリアは、反論する言葉が見つからない。ゆっくりと立ち上がったヴァツェルは、キルリアを見下ろして続ける。
「それとも、陛下の使い魔として向こうに行くかだ」
その言葉は、暗い洞窟にいやに良く響いた。
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