第35話:「林彪ちょっとカンフーやってみてよ」
ソ連は優秀な人材を大量に有しており、もっと言えばその人材を国民党に貸し出すことも可能というわけだ。負けず嫌いの蒋中正から言わせれば、もちろん面白くない話ではあったけれど、北伐を成功させるためには、国民党はソ連の力を借りる他はなく、彼女はそんな不満を抑えなければならないのだった。
国民党とソ連の関係は現時点では覆すことのできないもので、またその必要もないものだったが、蒋中正はソ連の代表を前にして弱みを見せるつもりもなかった。
「ですが、我々も優秀な兵士たちを育てています」蒋中正は何食わぬ様子で彼女の美しい黒髪をさっと撫でながらいった。「神父は我が軍の儀仗隊の者が全て女性であることにお気づきでしょうが、見た目ばかり優れた花瓶の花だと侮って貰っては困ります。実のところ彼女たちこそが、わが校の精鋭なのです」
ボロディンの両目がひかり、興味深そうな表情をみせた。
「ふむ、それは面白い話ですな。もし機会があれば、ぜひとも私に彼女たちの実力をお見せ頂きたい」
「善は急げと言います。今この場でお見せしましょう。どうせ彼女たちは検閲を受けているところなのですから」
周恩来は終始彼らの傍で会話を聞きながら、心中では今回ばかりは林彪独立隊にご苦労様だと言いたいところだった。同時に自分自身でも心の準備を整え、蒋中正からの命令を待った。
「私は書物で見たことがありますが、あなたの国の国民はみな功夫をよくたしなんでいるそうですな。私はずっと、本当かどうか気になっていたのです。蒋校長、彼女たちがあなたの学校の精鋭だというのなら、彼女たちそれぞれは功夫の達人といったところなのでしょうな」
「私としては国民全てが功夫を理解しているとは言いかねますが、功夫はわが校の必修科目です。彼女たちも勿論よくやりますよ。ソ連からの友が功夫を見たいと仰るなら、私から彼女たちに実演するように言いましょう」
「ふふ、ではお願いしますかな。私は功夫にはとても興味がありましてね」
ボロディンは笑みを浮かべながら狭い広場の様子をじっと見つめた。蒋中正は周恩来を呼びつけ、耳元でいくつか言葉を伝えた。周恩来は林彪の元に駆け寄り、彼女に蒋中正の命令を伝えてやった。
「それは本当なのか?」林彪は面白くなさそうだった。
「頼むよ。ちゃんとやってくれなきゃ、僕の首が飛ぶんだぞ」
「その時になったら私が介錯してやるから、心配するな」
「僕の処刑を前提にするんじゃない。とにかく、これは先輩からの命令なんだ。お前もその通りにしないと」
「……ちっ、分かったよ。分かったからとっとと視界から消えろ」
林彪はそれ以上周恩来に構うことなく、その場で彼女の部下たちの前へと行ってしまった。
(彼女はほんとうに僕のことを上司として見ているのか……? いや、そんな疑問は口にするのもバカらしいことなんだよな……)
林彪はたびたび周恩来と協力して来たし、小組の構成員という共通点もあるが、その関係はいまだ改善されていないのだった。より正確に言えば、林彪は依然として一方的に周恩来のことを毛嫌いしているのだった。周恩来はどれだけ頭を捻っても彼女が自分のことを嫌っている原因に思い当たらなかった。彼女に嫌われるようなことをしたかと自問自答しても、浮かんでくるのはただ、周恩来の格好が気に食わないと言っていたのを思い出すだけだった。
けれど、どれだけ理解し難いとはいっても、彼女にその原因を尋ねる度に苦い想いをするので、周恩来はこの問題を今のところは気にしないことに決めていた。どちらにしても普段の仕事量が彼にそんな事を気にさせないほどに忙しくなってしまっていたからだった。
「ふぅ……」
周恩来は溜息を漏らすと、がっくりとした気持ちで司令台まで戻った。
彼は昔、一人の年取った先駆者の一人から、人間というのはそういう生き物なのだという話を聞かされたことがあった。一旦、便利な道具がある生活を経験してしまうと、それがなくては生きて行けないというのだ。たとえば扇風機があれば、人々は夏場の暑さをしのぐためにそれを使うだろうし、また車があれば、それが西洋人が中国で金儲けをするために売りさばいているものだとしても、あちこち行くのにそれに乗ることになる。もしそんな彼らが扇風機や車のない生活に戻ってしまえば、彼らはきっと耐えられないだろう。
今の周恩来にしてみれば、毛沢東こそが彼にとっての扇風機であり車だった。毛沢東が軍校にやって来る前、周恩来は全ての仕事を一人でこなしていた。部下に執行の命令を下すにしても、毎日の仕事のスケジュールを組むにしても、彼は自らの手と足でこなしていたのだ。当時の彼は、そんな働きを特別辛いものだとは感じていなかった。
けれど、毛沢東が彼の腕となってしまった後では、最初こそ彼女は仕事内容を理解していなかったものの、数日経った時には、彼は各種様々な雑務をあれこれと彼女に任せることになっていた。そして毛沢東が投獄されている間、彼女が受け持っていたそれらの仕事は全て周恩来の元に戻って来てしまったというわけだ。彼は自分の部下の中に毛沢東の代わりになるような者がいないか探してみたけれど、適当な人物が見つからず、結局彼は改めて全て自分でこなすようにしていたのだった。
事実上、仕事量自体は元に戻っただけで、決して増えてはいないのだけれど、周恩来は毛沢東が自分の傍にいた時よりも、今の生活の方がよりつらく、圧力も増していると感じているのだった。但し、彼はそんな思いは内心に留めることにしていた。それはメンツの問題であるばかりでなく、もし林彪にそんなことを知られでもすれば、またそぞろ当てこすりの材料にされてしまうに違いないからだ。
周恩来が毛沢東への情けをしつこく求めているのには、僅かばかりであるにせよ、そういった個人的な事情も含まれているのだった。
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