第34話:「神父ボロディン、黄埔にやって来る」

 今しがたの話を通して、蒋中正は毛沢東に、孫中山の影を見た気がした。

 共産主義小組が新たな政党を発足させる、そんなことは、想像するだけで彼女の嫌悪感を掻き立てるものだった。

 「とうとう分かったぞ。どうして小組の連中が貴様を支持しているのか」蒋中正は忽然と悟り、椅子から立ち上がった。「私はずっと、貴様たちの小組というのはユートピア思想を持った連中が集まっているだけの組織だと考えていたが、今、私はその考えを改めた。貴様たち共産主義小組をこのままにしておけば、いつの日か、国民党にとっての最大の脅威となってしまうだろう」

 「お褒めに預かり光栄だよ。何を褒められているのか分かったもんじゃないけど」

 「よく話してくれたものだ。こうして会話をしたお蔭で、私は覚悟が固まった……」

 蒋中正は右手で「中正」の柄を握った。

 「徹底的に『聯露容共』のリスクを覆すため、この場で貴様の首を落とす覚悟がな」

 「ふん! 断言してやるけど、お前にはそんなことはできないよ」毛沢東は嘲笑うような笑みを蒋中正へと向けた。「もしお前が好き勝手に政敵を斬り殺すような暴君だったとしたら、あいつの憧れる人物になんかなるはずがないからだ」

 蒋中正は笑ったようだった。

 「それに、自分で中正なんて名乗るはずもない」

 「内心ではお前のことを殺してやりたいと考えていてもか」

 「くどい」

 蒋中正は笑みを浮かべたまま右手を放すと、その場で向きを変え、監房の入り口のところでさっきの看守に門を開けるようにと命令した。

 「私がお前のことを脅威と見ていることを知ったついでだ。お前にもう一つだけ教えてやろう。監房を出た後は、違法な行為に出たり、面と向かって私に刃向かったりしないように注意することだ。さもないと……次はもう容赦はない」

 「私は自分の考えを変えるつもりはない」毛沢東は床から滑り降りると、いつものように腰に手を当てるというポーズをとった。「私はお前が李之龍同志にしたことも忘れたりはしない。お前がまた私の同志たちに手を出そうものなら、私はきっと徹底的に抵抗する。そうなった時には、お前はもう後の祭りだ!」

 「ふん、世の中に貴様以上のほら吹きはいないだろうな」

 蒋中正はそんな言葉を吐き捨てると、監房から出て行った。

 彼女がその場を去って行く際、その顔には笑みが浮かんでいた。

 李之龍の事件の後、この二か月ほどの間、彼女にとってはそれが初めて心から浮かべた笑みだった。


 黄埔軍校は黄埔区の長州島と呼ばれる場所に位置している。

 地理上、ここは珠江付近の交通の要衝となっている場所で、広州城へと向かう全ての船舶が必ず通行する地点であり、広州城防衛のための一大関門かる海上交通網の一つだった。すでに清朝の時点で、長州島には広州城にとって重要な商業用埠頭、海防基地として、大量の砲台が設置されていた。

 孫中山と蒋中正がこの場所に黄埔軍校を設置することに決めたのは、ここが伝統的な軍事拠点であったばかりでなく、すでに軍用施設が整っていたからだった。ソ連から軍校へと運ばれて来た全ての軍備と物資は、ここから荷卸しされることになっているのだ。

 黄埔軍校は数多く有する官兵たちの住居として長州島各地に宿舎を構えており、島の民間人と合わせると、この細長い小島には数十万の人口がひしめくこととなっていた。そうして元々活気に溢れていた港は、北伐の時期が迫るにつれ、より一層の熱気を持つようになっていた。

 蒋中正が毛沢東の監房を尋ねたその翌日、中山艦はとうとう二か月に渡る航海を終え、長州島の埠頭へと戻って来た。

 蒋中正は二日前に汪精衛に対して、ボロディンがまず黄埔軍校において彼女に会ってから、その後、広州城で彼と会うことを希望している、ということを通知してあった。ボロディンの希望を聞いた彼は相当に不満を見せていたそうだが、奔放な彼のような人間でもソ連大使には意見するつもりはなく、ボロディンの希望を尊重することとしていた。

 彼女は周恩来に埠頭を飾り立て、彼を歓迎する式典の準備をするようにと命令を下していた。周恩来はボロディンが賓客であることを承知していたため、勢い手を抜くわけにも行かず、夜通し準備に追われた結果、この二日間ですっかり睡眠不足となっていた。

 岸壁に集まっていた人々が遥か遠くに中山艦の艦影を認めた時には、蒋中正と周恩来も埠頭に到着している頃だった。林彪独立隊も儀仗隊として臨時に召集され、儀式の各段階における役目を任されていた。

 中山艦がゆっくりと埠頭に進入すると、岸壁の礼砲が鳴り響き、白色の煙が砲声に続いて海辺にたなびいた。中山艦は礼砲を受けた後、汽笛を鳴らし、乗組員たちが甲板上に整列、岸壁の人々に対して敬礼をしてみせた。

 中山艦は指定の位置に停泊すると、岸壁のつり橋が徐々に甲板へと下ろされていった。つり橋が固定されると、艦長はボロディンを引き攣れて岸壁へと降り立った。岸壁で立っていた蒋中正は彼らが近づいてくるのを見ると、数歩前に出てボロディンを歓迎した。周恩来はその後に続き、懸命に眠気を堪えながら、歓迎用の笑みを浮かべていた。

 蒋中正もボロディンが中国語を理解することを知っていたため、彼と握手を交わすと、中国語でこういった……

 「中国へようこそ。遠路はるばる、御苦労さまです」

 「ありがとう。あなた方の国家へ来ることができて、大変うれしく思っていますよ」

 二人はお決まりの遣り取りを終えると、ボロディンは蒋中正に続いて臨時に設置された司令台へと向かった。後ろに控えていた周恩来は二人が司令台の椅子に腰を下ろすのを認めると、埠頭の小型広場に控えていた儀仗隊に向かって声を張り上げた……「歓迎式典、はじめ!」

 広場にいた林彪は周恩来の号令を耳にすると、心底不愉快そうな表情を浮かべつつ、手に持っていた西洋の剣を掲げた。軍楽隊はすぐさまソ連の国家を演奏し、ソ連の国旗も高々と掲げられることとなった。

 この時、百名近いソ連兵たちが、二人一組の隊形になって、整然と中山艦から広場に向かって進入して来た。彼らの顔には様々な傷跡が残り、緑色の陸軍の軍服を着て、軍帽の中央には目の覚めるような十字架の印が掲げられていた。その体格は同じ広場に集まっていた女性兵たちと比べて、遥かに強壮なものだった。

 更に言えば、すでに時期は五月で、広州は春と夏の境目の季節を迎えている頃で、湿度と熱気は相当のもののはずだった。だが極寒の地での作戦に慣れていたこのソ連兵士たちは湿度と熱気による影響を全く受けていない様子で、微塵も疲労の色を見せていなかった。

 部隊は広場に入ると、左端に整列し、軍楽隊もそれに合わせてソ連国家を演奏し終わった。彼女たちは続けて国家の演奏を始め、広場の外で待機していた国軍部隊も続々と広場の右端へと進んで行った。

 双方の部隊が広場で整列し、林彪が国家の演奏を終えると、司令台の傍から両隊の兵士が中央前方へと現れ、司令台に向かってこう叫んだ……「部隊成立完了しました。蒋校長並びにボロディンさま、検閲お願い致します!」

 蒋中正とボロディンは立ち上がり、双方の兵士たちを見渡した。

 「彼らは教会の持つ精鋭たちです」ボロディンの顔には自信の色が浮かんでいた。「それぞれが大革命の激戦の中を生き残った、経験豊富な兵士たちです。教会はあなたの党による北伐に対する支持を表明するため、あなたの軍の兵士たちの訓練に協力するべく、彼らを派遣して来たのです」

 「国民党と黄埔軍校を代表して、私から連合教会に対して礼を言います」

 蒋中正はソ連兵士たちを見ながら、しかしその内心では相当に矛盾した感想を抱いていた。

 彼女は彼らが兵士たちを訓練してくれることを十分に歓迎していた。黄埔軍校は厳格な訓練で知られるところだったが、所属している兵士の大部分は軍校開設後に集まって来た者たちで、実戦の経験を持たないのだ。もしロシアにおける二つの革命において、その凄惨な戦闘を経験していたソ連兵士たちが、軍校の兵士たちを訓練してくれれば、彼らの水準は確実に向上することだろう。

 だが、この采配には同時に、国力を誇示する意図も含まれているのだった。

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