第24話:「國母遺嘱」

 「よろしい。では私に話というのは何のことですかな? 親愛なる蒋中正どの」

 「もう少し真面目にやってくれないか? 私とあなたは『親愛なる』なんて言い合うような関係では絶対にないはずだが」

 「はは、お気になさらず。恥ずかしがるのも女子の特権。私は気にしませんよ」

 「あなたという者は……」蒋中正は辛抱強く内心の怒りを抑え込むと、命令状を片手で掴みあげて彼の目の前で広げてみせた。「余計な話はなしだ。この命令状は一体どういうわけだ?」

 汪精衛は両目を細め、命令状の内容に視線を走らせたが、彼女に対しては冷ややかな笑みを浮かべただけだった。

 「どうとは? どうもこうもないでしょう。そこに書いてある通りですよ」

 「あなたは自分が何を言っているのか分かっているのか?」

 「分かっていますとも。あなたこそ一体何を仰りたいのです?」

 「とぼけて貰っては困る。あなたは軍隊を動かす時には私の同意が必要であることは分かっているはずだ。この事は孫中山女史の遺嘱としてはっきりと書き残されていることだろう」

 「確かに」

 孫中山がこの世を去った際、『國母遺嘱』が世の人々に対する公式の遺嘱として残されることとなっていた。また「革命尚未成功、同志乃須努力」という文言もまた、汪精衛がこの遺嘱にある文言の中から、全国人民に対して中山女史の遺訓を分かり易く伝えるために抜き出したものだった。

 起草の責任者もまた汪精衛であり、遺嘱の内容に関して彼は自分の掌を指さすように理解しているはずだった。またこの世間一般に向けた遺嘱というのは、政治的保険として編まれたものでもあった。これは単純に孫中山の身に何か起こった時のためのものであって、その中では彼女がこの世を去った後の権力の移譲については、詳しく書かれてはいなかった。

 孫中山はもちろんこの問題を認識していた。そこで彼女は自分の命がいくばくもないと知った時点で、個人的に蒋中正に向けて書いた手紙以外に、国民党員だけに伝わるものとして、汪精衛を国民政府主席として指定し、また蒋中正に国軍の指揮権を渡すという、正に権力の処理に関する資料も残していたのだった。

 当時の孫中山は、この遺嘱を秘密にしておくべきかどうかという点を思考する力を、すでに失ってしまっていた。彼女がこの世を去ると、党の要員たちはこの遺嘱を根拠に権力の移譲を進めるべきだと考えたものの、この国内が混乱した状況では仕方のない話だが、その他の軍閥に対して、孫中山は最終的に、民主的な方法によって権力の移譲が行われるべきだという信念に自ら背いてしまった、という点を叱責する機会を与えてしまえば、ゆくゆくは北伐という大義名分にも影響が出かねない。このため、彼らはこの遺嘱を秘密とすることを決め、汪精衛と蒋中正にのみ事実を伝えると同時に、「二人が『國母遺嘱』の遺志を継ぐ」という名目の下、簡単な民主的手法を装い、権力の移譲を行ったのだった。

 しかし、遺嘱の中には両人の意見が対立した場合にどう解決するべきかということは書かれていなかった。この遺嘱に目を通した人々は、蒋中正も含めて、みな「政務は汪精衛に、軍務は蒋中正に帰属する」という風に理解していたこともあり、蒋中正が予算を必要とする際には、汪精衛の同意を得るという規則を設けることになっていたのだ。

 「あなた自身よく理解しているというのなら、どうして私の同意もなしに李之龍に対してソ連に向かえという命令を出したのだ」

 「なぜって、私は軍務については疎いからです。これじゃダメですか?」

 「あなたは私をバカにしているのか!」

 「まさか。あなたを思う気持ちだけでも胸が張り裂けそうだというのに、どうしてあなたをバカにするはずがあるというのです? しかし、今回の件に関して言えば、これは国民政府の外交事務であって、軍事ではありませんからね。だからあなたには通知する必要はないわけです」

 「外交・・・・・・事務だと?」

 蒋中正は困惑しつつ目の前の軽佻浮薄な男を見詰めた。

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