第16話:「共産主義小組、抜けてくれないか?」
周恩来は蒋中正にそう言われると、口調を普段の調子に戻した。
「確かに、僕も疲れてしまっているんでしょう。ですが冷静であることに違いはありません。僕は李之龍について良く知っています。彼はそんな作為を企てるような人間じゃないし、ましてや反乱など有り得ない話です。今回の件にはきっと何らかの誤解が生じているんです。僕はそんな誤解一つで国家があのような優秀な艦長を失うことなど、望んではいません。このままでは北伐という事業にとって、一大損失となってしまうことになります」
蒋中正は周恩来が真面目にそう話すのを見ると、強張っていた表情をゆっくりと緩ませ、溜息を漏らしつつこういった。
「……分かった、分かった。お前のことだ。勝手にするがいい」
「先輩……!」
「だが憲兵の邪魔になるようなことはするなよ。正式な調査単位は彼らなのだからな」
「はい! ありがとうございます、先輩!」
周恩来はわっとその場で立ち上がると、蒋中正に向かって九十度腰を折って礼をしてみせた。
「ま、まったく……毛沢東といい、李之龍といい、どうして共産主義小組の連中というのはどうしてこうも厄介事ばかり起こすんだ。翔宇、お前、一体いつになったらあの集まるを抜けるつもりなんだ」
「僕の答えはよくご存じのはずです」
「お前だって私が共産主義小組を良く思っていないことは分かっているだろう。あの組織に加わっている連中はどれも極端なユートピア思想の持ち主だ。極端な思想を持つ人間というのは、自然その行動も過激になっていく。そんな人間が増えれば、絶対に我が国にとっての利益とはなり得ないんだぞ」
「あなたが仰っているのはごく一部の人間のことに過ぎませんよ。小組にいるのはそんな人間ばかりではありません……」
「仮に大部分が翔宇のように頭脳明晰な連中だったとしても、あの組織はやはり充分に危険だ」
「先輩……」
言葉を失くしている周恩来に、蒋中正はこう続けた……
「だが案じるな。これは私の個人的な意見に過ぎない。現段階で共産主義小組に何かしようなどというつもりはないよ。私がすべきはこの学校の校長として、北伐によって全国を統一すること、それこそが私が引き継いだ中山女史の遺訓だからな。『聯露容共』が中山女史の遺した遺産である以上、私は確実にそれを遵守する。共産主義小組が取返しの付かない間違いでもしでかさない限りは、私は『聯露容共』政策を続けていくと約束するよ」
「そんな日はやって来ないと信じています。小組の同志たちはみな理想を抱いた若者たちです。全ての人間が、国家の統一は必要だと信じていますから、おかしな考えを抱く者などいませんよ。僕は小組の一員として、そんな事態にならないように努めます」
「それでは私の質問には答えたことにはならないと思うが?」
「それは……分かりませんね。先輩は『聯露容共』政策を継続していくつもりなのでしょう。だったらどうして僕個人の身分にそんなに拘るんですか?」
蒋中正は頬を膨らませ、怒っているような仕草をしていった……
「翔宇にそんな危険な組織の中に留まっていて欲しくないからに決まっているだろう! 万が一のことでもあれば、お前の前途に影響してしまうことに……」
「分かっています。そんな風に気を遣って頂いて嬉しい限りです。ですが僕には共産主義小組を離れる理由がありません。仕事の上では公私を別にしています。先輩にもこの点は理解して頂いているはずです。共産主義小組の構成員としての身分が、僕の判断に影響しないことを約束できます。李之龍のことも、僕は公正に判断するつもりです」
蒋中正は笑いながらいった……
「私だって翔宇がそうするだろうことは分かっているさ。よし、この件に関してはもうとやかく言うのはよそう。だが全てには代償というものが付きまとうものだ。お前の要求を呑んでやった以上、私だけに妥協させる気じゃないだろうな?」
「ま、待ってください。僕の説明を聞いて、同意をしてくださったんじゃないんですか?」蒋中正の笑みを見るや、周恩来はとたんに不安になって来た。
蒋中正の笑みは明らかに面白がっている風だった。
「だがここまで来れば、お前だって私の話を聞くべきじゃないか? まさかお前、この後で私が憲兵隊長に話を通す必要がないとでも? 私にもう少し人情を示してやる必要があると思わないのか?」
「えぇと……」
蒋中正に一歩一歩迫られる中で、成す術のない周恩来は、最後には降参するしか手はなかった。
「わ、分かりました。要求を言ってください。僕にできることに限られますが……」
「明日からだ。毎日ここに来て、私と一緒に練習を始める。分かったか?」
「わ、分かりました……」
「なら良し。翔宇、お前は一服入れておけ、また後で会おう」
周恩来は蒋中正が立ち上がり、改めて面を着けながら、今しがたの練習試合の時よりも、ずっと満足気な笑みを浮かべていることに気付いた。
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