第14話:「久しぶりに剣道するぞ、周恩来」
李之龍が捕らえられてから数日後の早朝。
当夜の内に蒋中正と話をするつもりだった周恩来だが、疲労がピークに達していたこともあり、そのまま宿舎でほとんど昏倒するように眠ってしまうこととなっていた。毛沢東としてはとても悠長にしていられない気持ちだったものの、周恩来の具合が悪いのを見ては、宿舎で彼を休ませてやる他なかった。
「喝!」
「うっ……」
周恩来が目を覚ました時には、すでに日が昇ってしばらく経っていた頃合いだった。彼はいてもたってもいられず、夢の中にいる毛沢東を置いたまま、髪だけ簡単に梳かすと校長室まで飛んで行くことになった。
「精神集中! 腰に力を入れろ! 目を泳がせるな!」
「はぁ……はぁ……ど……どうも、かなり鈍ってるみたいだな、僕も」
けれど校長室の外には、蒋中正の秘書の姿があるばかりだった。秘書は彼に蒋中正は校長室にはいないことを告げると共に、彼女は「例の場所」にいることを匂わせた。周恩来は心当たりに気付くと、秘書に礼を言ってその場を離れた。
「まだいけるだろう! もう一回!」
「だ……だめです……降参ですよ……」
彼が目的の場所にやって来ると、そこで見付けたのはすでにコンディションを整えた蒋中正の姿だった。彼女は周恩来がやって来るのをみるや、挨拶も抜きに彼に準備をするようにといった。彼としては気の焦るところだったけれど、蒋中正の様子を見ると、今は彼女に質問をぶつけるタイミングではないことを知り、彼女の要求に従うことにしたのだ。彼は全て支度が整ったことを確認すると、蒋中正の前へと進み出た─
「隙あり!」
「ああ!」
バシッ!
澄んだ音が鳴り響いた。周恩来が手にしていた竹刀は蒋中正の下から上へと振るわれた一撃によって空中を舞い、道場の床へと落ちることになった。
「今日はこれで終いにするか」
剣道の防具に身を包んだ蒋中正は、竹製の面を外し、頭を振って彼女の長い髪を自由にさせると、満足げで嬉しそうな笑みを浮かべた。
周恩来もまた面を脱ぐと、蒋中正に苦笑いをしてみせた……
「先輩はどんどん強くなりますね。今の僕では到底、先輩には敵いませんよ」
「近年のお前に練習が不足しているだけだ。日本にいた当時、翔宇は私と対抗できる唯一の相手だっただろう」
「言い過ぎですよ。ですが日本を離れてからというもの、確かにまともな練習はして来ませんでしたからね」
「そうだろうな。ここに来てからお前が私の練習に付き合ったのは三回程度でしかない。翔宇はもっと沢山鍛錬を続けた方がいいようだ。だいぶ参っているようだし、座るといい。二人で練習していた時のようにな」
蒋中正はそう言うと、床の上で膝を屈し正座し、まるで座禅を組んでいるかのように端正な居住まいとなった。
「はは、全く情けない限りです」
周恩来も彼女の前に胡坐をかいて座った。彼からすると、膝を折る正座という座り方は彼の両足を痺れさせ、短時間の内に立ち上がることができなくなるようにするものだった。
「そういえば、翔宇は覚えているか? 私たちが初めて出会ったのが、道場だったことを」
「もちろん覚えていますよ。あの時、僕はただ見学するだけのつもりだったんですけど、思いがけず同胞に遭ったものですから、そのままあれよあれよという間に剣道部に入部することになってしまったんです」
周恩来と蒋中正が学業に打ち込んでいた時期を過ごしていたのは、日本にある同じ軍事学院でのことだった。蒋中正は周恩来より一年早く入学し、更に一年という短い期間で、周恩来が入学して来るころには、学院の剣道部の主将となっていたのだった。
「私はかなり驚いたよ。あの学院は日本で一、二を争う清英学府、加えて日本人特有の鎖国傾向の強い場所だったからな。相応の能力がなければ入学など叶わないような所だった。当初から私が唯一の中国人学生だと思っていたものだが、それも一年しか続かなかったわけだ」
「そして先輩による地獄の特訓が始まってしまったんです。覚えていますが、毎朝四時には道場で先輩と一緒に素振りの練習です。思い返してみても自分でもどうやってあの時期を乗り越えたのか分からないぐらいですよ」
「お前は得難い人材だったからな。私としてもお前の天賦の才を無駄にすることなど出来ない相談だったんだ。一年後にはお前だって剣道部の副主将になっていただろう。もしお前が日本に留まることを決めていたなら、私はお前に主将の座を譲るつもりだった」
「はい、はい……」
毎回その話題に触れると、周恩来の内心には言いようのない罪悪感が沸き起こって来るのだった。
周恩来が日本に留学していたのは一年間だけだった。彼はヨーロッパに留学するための奨学金を得ることに成功し、日本から直接ヨーロッパに向け求学を続けることになっていたのである。
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