第7話:「蒋中正先輩、ちょっと妙ですよ!」

 「翔宇以外の者は少し席を外してくれ」

数日後。

蒋中正が殺気を漲らせて周恩来の執務室に入ってくるや、仕事をしていた職員達はただならぬ気配を感じ取り、すぐにでも戦場になりそうなその場所から逃げ出してしまった。

 傍に座っていた毛沢東もまた周恩来に言われその場を離れた。彼女は部屋を出る際にドアを閉めることも忘れなかった。

「せ、先輩? 何かあったんですか?」

「基本的に私は貴様の決定には口出ししないことにしている。しかし今回ばかりは問題があると思う」

「えっ?先輩が言ってるのって…」

 「毛沢東を書記として雇うことにしたらしいな。違うか?」

「そうです。それがなにか?」

「翔宇、私は貴様にケチをつけたいわけじゃないんだ」蒋中正は周恩来の正面にどっかりと腰を下ろした。勢い、太ももが露わになる。「貴様があいつを雇用することになった馴れ初めは知らんが、ちゃんと良く考えて決めたのか?」

「先輩は何を仰りたいんですか? 彼女は仕事に就いてまだ数日ですし、態度にも問題はありますが、仕事はちゃんとやっています。先輩がそこまで気を揉む必要はありませんよ」

 彼女は周恩来に言葉を返さなかった。代わりに何枚かの書類を彼に見せた。周恩来がそれを手にとってみると、それは全て毛沢東に関する調査記録だった。

 「あいつはここ何年かの間、各地でデモ活動をしているばかりで、根本的に軍事上の知識を持たないばかりか、正規の軍事訓練も受けていないんだぞ。貴様の書記になる資格がどこにあるんだ? 貴様の部下は何も言って来ないのか?」

 「あいつが言ってた方々での手伝いって、そういうことだったのか……」

「何か言ったか?」

「な、なんでもないです。心配する必要はないですよ。僕がしっかり指導しますから……」

「貴様は私の質問に答えてないぞ」蒋中正はぴんと顔をこわばらせたまま、周恩来を見据えた。

 これ以上誤魔化し通すわけにも行かず、また蒋中正を騙すような真似もしたくなかった周恩来は、その場でさっと立ち上がると、蒋中正に向かって腰を折った……「先輩、すみません。今回の件は僕の独断専行でした」

「座れ。説明してくれるんだろうな」

 周恩来は昨晩宿舎で起こった出来事を蒋中正に向けて説明してみせた。

「……彼女の役職のため公式に費用を捻出するべきではないと思い、自分の給料から彼女の分の賃金を出すことにしたんです。元々、先輩に迷惑をかけようというつもりはありませんでした」

 蒋中正は軽く溜息をつくと、胸の前で腕を組んでいった……「ともかく、貴様のそのお人よしの性格はいつになったら治るんだろうな……」

「すみません」

「まったく……」

蒋中正の表情はすでに緩んでいたが、すぐにまた緊張が走ったようだった。

 「翔宇は普段から仕事が多いというのに、その上奴の面倒まで見るというのは、厳しくないか? 私はな……」

(先輩が僕のことを心配してくれている……?)

周恩来は胸の内に暖かな感情が流れ込んで来るのを感じると、目頭を熱くさせ、疲れた微笑を浮かべた。

 「先輩、心配しないでください。彼女の面倒を見ているとは言いましたが、彼女の仕事ぶりはそう悪くはないんです。それは確かですから」

「き、貴様は何を突然恰好を付けるんだ!」

「先輩、ぜひこの報告書を読んでみてください」

 周恩来は唇を震わせ、顔を赤くしている蒋中正を無視して、引き出しから「機密」と書かれた書類を取り出すと、彼女にそれを手渡した。

蒋中正は数十秒かけて速読し、更に仔細に読み込むと、驚いた様子で周恩来を見た。

「この作戦案は、もしや……?」

 「はい。戦術上にはいくつかマズい点もありますが、全てが首尾よく進めばこの作戦で一個団をもって今回の反乱を平定することが可能になります……細かな部分は僕が修正しましたが、主要部分は彼女のアイデアなんです。先輩、どう思われますか?」

 「そうだな。行けるかも知れん。しかし……」

彼女は渋い表情のまま毛沢東の報告書を適当に捲っていた。

「まさか、あいつには天賦の才があるということなのか……?」

「天賦の才というのは言い過ぎです。彼女が新人であることには変わりないんですから。気にする必要はありませんよ」

 「ただ、どれだけ完璧な作戦計画書を作成できたところで、実際の戦場では必ずしも役に立つとは限らん。あいつは本当にお前にとっての負担とはならないのか?」

「先輩がその点を心配されるということでしたら、彼女にチャンスを与えてやっては如何ですか?」

 「というと?」

「僕に今回の作戦の全権を譲ってくれませんか!」

「本気で言ってるのか?」語気を落とすと、蒋中正は首を振った。「いや、何をバカなことを。翔宇がこう言うのだから、真面目に言っているに決まっているじゃないか……」

 「もちんです! 先輩がこの計画書を評価してくださるというのなら、僕たちにチャンスを下さい。僕たちの能力を証明してみせますよ!」

「僕たち……?」蒋中正は口角を釣り上げた。「ふん。たかが数日一緒に仕事をしただけで『僕たち』とはな……随分息が合うみたいじゃないか!」

 「せ、先輩? 一体何の話をされているんですか? 今日の先輩はちょっと変ですよ?」

「そんなことはない!」

「えっと……」

周恩来は彼女が機嫌を損ねていることは分かったものの、どうすれば良いやら検討も付かなかった。彼女の機嫌を取る方法が、全く浮かばなかったのだった。

 非常に厳格であったり、そうかと思えば自分のことを心配してくれたり、真面目な話をしている途中で突然喧嘩腰になるのだ。

けれど、周恩来にとっては蒋中正という人がこんなにもころころと表情を変えるのを見るのも、また初めての経験なのだった。

 自分のミスだとは分かっていながら、彼は内心では少し嬉しくもあった。

たまに周恩来はこう考えることがあるのだ。彼女が毎日のように北伐の重責に苛まれているのを見ていると、もう二度と普通の女の子として、当たり前の幸福を追うことは出来ないのではないかと。

 但し、彼が知る蒋中正は自分の全てを投げ出し、普通の女の子として生きることを選ぶような人間ではなかった。もし女の子の幸福と国家の未来の二択を迫られたとしたら、彼女は迷うことなく後者を選ぶに違いないのだ。

(先輩はこういう人なんだ。全ての責任を背負ってしまう)

 「……いいだろう。許可する」

周恩来が蒋中正にどんな返事をしたら良いかあれこれ頭を悩ませている内に、蒋中正は元の態度に戻っていた。

「……え? ほ、ほんとですか!」

「お前がそうしてくれと言ったんだろう、今さら聞き返すのか?」蒋中正は周恩来の驚いた様子に、思わず苦笑した。

 「ありがとうございます先輩! きっと失望はさせません!」

「但し」蒋中正は興奮する周恩来をすぐにそういさめた。「まずはこの作戦内容をまとめて、私に提出してくれ……そうだ。今日の夕方ぐらいにはできるか?」

「大丈夫です! すぐに手配します!」

 周恩来は蒋中正の返事を待たず、執務室から廊下に飛び出すと大声を張り上げた……「毛沢東! 早く戻れ、仕事だぞ!」

蒋中正はドアの外で毛沢東と手を取り合ってはしゃいでいる周恩来を見ながら、内心で胸騒ぎを感じていた。

(毛沢東……か……あの小娘、危険かも知れんな)

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