第15話 二つ名は、藁人形のレイ
「今日び、わしらみたいな喫煙者は肩身がせまいのう」
菅原のリーゼントに、紫煙が絡まる。
「へい、おっしゃる通りですわ。アニ、いや、課長代理」
坊主頭の猿渡は、吸っていた煙草を設置してある灰皿に丁寧にもみ消した。
伊佐神興行本社ビルの裏側に、喫煙用のスペースがこぢんまりと設けられている。
まだ出社前の時間であるため、営業課の二人はのんびりと煙草を吸いながら缶コーヒーを傾けていた。
菅原は黒いスーツの下にクールビズ用のボタンダウンのシャツを着用し、胸元を大きく開けている。部下である猿渡は、ショッキングピンクの半そでカッターシャツに、真っ赤なラメ入りネクタイ姿であった。
灰皿は裏の通用口のすぐ横に置いてあるのだが、〈喫煙コーナーにつき、喫煙以外でタムロしないこと。定員は三名まで。なお、必ず直立不動で喫煙のこと。上記違反者は厳罰に処す。総務部長〉という張り紙がされている。
したがって、二人は立ったまま喫煙を楽しんでいたのであった。
猿渡は缶コーヒーを飲み終え、ゴミ箱に捨てようとして何気なく裏通りに目をやる。
「?」
猿渡はそのままの姿勢で固まった。
菅原は腕時計で時刻を確認している。バッタ物のロレックスだ。
「おう、そろそろ上に行って、幹部の机の掃除じゃ。
んんっ? どうした」
缶をゴミ箱に放る体勢のまま微動だにしない猿渡を、菅原は怪訝な表情で睨む。
猿渡のかなり小さい両眼が、いっぱいに開いて見つめる先を追った。
「な、な、なんじゃああ!」
菅原は口をひし形にして叫んだ。
ビルの裏側は一方通行の道路で、両側は大小のビルに挟まれていた。二百メートルほどの直線であり、その先は国道に続いている。
日中には会社関係の乗用車や宅配便のトラックが、隙間を見つけては歩道に乗り上げるように駐車しているのだ。
しかしまだ朝の八時を回ったくらいの時間帯のため、駐車する車はなく、本来なら先の国道が確認できるはずであった。
その直線の道路を、奇声を上げながら走ってくる集団があったのだ。
「か、課長、だいり」
猿渡は震える声を絞り出す。
菅原の脳裏に警笛が鳴った
「で、出入りじゃ! カチコミじゃあぁ」
菅原はおもむろに叫ぶ。
「以前の敵対する組織のやつらが早朝を狙って、殴りをこみかけてきやがったに違いねえ。
おう、わしゃ、すぐ幹部に報告するから、おまえ、ここで食い止めろ」
猿渡は慌てふためいた。
「ア、アニキ、俺ひとりでって、そんなの無理っすよう」
「馬鹿ぬかせ! ここで男をあげるんじゃ、ええなあ」
菅原は逃げるように表玄関に走っていく。
「シエエッ」
猿渡は腰を抜かし、走り去る上司を涙目で見送った。
その間にも、集団は土煙を巻き上げるように走ってくるではないか。
「あ、あ、あれは、ば、化け物っ!」
猿渡の両眼に写る異様な集団。尻もちをついたまま、猿渡は失禁してしまっていることにも気づいていなかった。
菅原はビルを急いで回り、表玄関にたどりついた。
自動ドアを蹴破る勢いでビル内に転げこんだまま、大声で叫ぶが言葉にならない。
「な、な、なななななっ」
ビルの玄関ドアの奥には一流会社そのものの受付があり、常に二人の秘書課女性職員が笑顔で待機している。
正面玄関及び一階のフロアを見渡す限り、外資系企業の洒落たオフィスであった。
革張りのソファや、二メートル近い観葉植物の鉢植え、白い大理石の四方の壁、印象派の大きな絵画が飾られているのだ。
菅原のあわてふためく姿に、かわいらしい営業用の笑みを浮かべていた受付嬢たちは顔を見合わせた。
チーン。受付奥の、エレベーターのドアが開く音が聞こえる。
みやびと珠三郎を社長室まで案内した洞嶋秘書室長が、えりあしを上品な仕草で整えながらエレベーターから出てきた。
「あ、あ、
菅原はすがるように走る。
ジーッ。
直後、玄関の自動ドアが静かに開いた。
どうんっ! いきなり大きな塊が投げ入れられた。
菅原は洞嶋の肩にすがろうとして、ふり返る。大きな塊は、なんと菅原の部下、猿渡であったのだ。猿渡は口から泡を吹き、白目をむいて股間を押さえて悶絶している。
その後ろから数名の人間が入ってきたのだが、差し込む朝陽によって逆光になっているために正体がつかめない。
菅原は
「く、くそう、わしの、わしのかわいい舎弟の
猿渡は気絶しているだけなのだが、菅原が涙を流して顔を上げた時、流れる雲により逆光が遮られ、集団の姿が現れた。
「ば、ばけ、化け物おぉ!」
そこには、髪をふり乱し、化粧の落ちた顔面に無精髭の浮かび上がった、色とりどりのドレスを着たナーティズ☆エンジェルの面々が、ハイヒールを両手に持ち肩で息をしながら立っていたのである。
彼女たちが、ザッと道をあける。
その後ろから、巨大なゴリラが身震いとともに登場した。
菅原は完全にストップした思考の呆けた顔で、洞嶋をふり返る。
「あ、姐さん」
洞嶋は顔色ひとつ変えず、無言でタイトスカートを腿まで捲り上げる。菅原は洞嶋の太腿に巻かれた、真っ赤なガーターベルトを見た。
次の瞬間、洞嶋は右足をきれいに跳ね上げ、そのまま足の甲で菅原の左顔面に、痛烈な回し蹴りを浴びせたのであった。
ズヴァシャ! 菅原は宙に浮き、顔面から床に叩きつけられた。
「あら、あなた、センスの良いお召し物を着用してらっしゃるのね」
ゴリラと見えたのは、ナーティ白雪であった。
紫色のフリルとレースでできた夏用の日傘を開き、左手で肩の上でくるりと廻した。黒いビロードのロングドレスが、ゴリラを連想させたようだ。
洞嶋は何事もなかったように、美しい笑顔でわびた。
「当社社員が大変失礼いたしました。
さあ、どうぞ、こちらでございます。すでに皆さまがお揃いでございます」
「そうなの。貧乏暇なしでしょお、だからって藤吉さんとのお約束を忘れていたわけじゃないのよ。時間ぎりぎりまで、この子たちを働かせちゃったのよう。
お店閉めたら、タクシーですぐにと思うじゃない。ところが、急いでいる時ってつかまらないのよねえ。
だから、ほら」
ナーティの顔が、入口の外側を指した。
「あなた、ご存知かしら。今ワタクシたちのお店のある女子大小路近辺で、流行ってんのよ」
洞嶋はうなずいた。
「人力車、でございますね」
「そうなの。景気悪いからお客さまもタクシーになかなか乗らないのよ、ケチくさい話し。で、登場したらしいのだけど、結構もの好きな酔客が使っているらしいわ」
「あの人夫さん、しゃがみこんで、頭を抱えていらしゃるようですが」
洞嶋は怪訝な表情で外を注視する。
「あら、刺激が強かったかしら。
いえね、ワタクシを乗せて走ろうとしても、あの人夫さんひとりじゃ全然前に進まないからさあ。仕方ないからウチのスタッフたちに、後ろから押してもらってきたわけ。
で、速度に勢いついたから、あの人夫のお兄さんをひょいとワタクシの膝の上に乗せてさ、うふふ」
舌舐めずりするナーティを見て、洞嶋は合点がいったのか、なるほどと相槌をうった。
「シオリコ、みんな、ありがとう。残業代は別につけるから、このあとみんなでご飯でも食べていらっしゃいな」
ナーティの声で、エンジェルのスタッフたちは黄色い歓声を上げ、「お疲れさまぁ」と挨拶をしながら自動ドアから出て行った。
「あっ、シオリコ。その人夫のお兄さんも、ちゃーんと連れて行ってあげてね」
シオリコは、了解でぇすと上腕二頭筋に大きなコブを作って、返事をする。
「さあ、じゃあご案内、お願いいたしますわ」
ナーティは洞嶋の後ろについて、エレベーターに向かった。
エレベーターの中で、ナーティはさりげなく切り出す。
「さすが、
洞嶋は五階のボタンを押しながら、咳払いをした。
「失礼いたしました。何のことでございますでしょうか、お客さま」
洞嶋より頭二つ分でかいナーティは、小声で囁いた。
「さっき、見事な
「お見苦しいモノをお見せいたしましたこと、深くお詫び申し上げます」
洞嶋は丁寧に頭を下げた。
「おほほっ、いいのよ。あなたのお噂はかねがね聞いておりますのよ。伊佐神組きっての武闘派若衆だったって。
敵対抗争している関西方面の組事務所に単身殴りこみに行って、素手で相手を蹴散らしながら、拳銃や日本刀を持った相手には金づちと五寸釘だけで大立ち回りしたっていうじゃない。
中国武術、陳式太極拳の使い手。向かうところ敵なしってとこね。しびれるわ」
「お恥ずかしい、昔のお話でございます」
洞嶋は、ナーティを見上げた。
「お客さまのように、それとなく仕込み刀を日傘にしてお持ちになる、剣呑な方もいらっしゃいますから。
秘書室は、社長および役員をお守りする部署でもございます。私はその部門長でございますので」
慇懃なモノ言いであるが、洞嶋の立ち姿にスキはない。
「あらぁ。やはりあなたくらいになると、簡単にコレがわかっちゃうのね。でも安心して。あなたを敵に回すほど呆けちゃいないし。それに」
ナーティの顔面がファウンデーション越しにもわかるくらい、赤く染まる。
「ワタクシは、藤吉さんにこの命を託す覚悟で、ここへお邪魔したの」
洞嶋の口元に、ちらりと笑みが浮かんだ。ナーティには気づかれないほどの小さな口角筋の変化だ。
チーン。エレベーターが、五階に到着した。
つづく
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