紙園に起きた小さな事件

「ハァ……バエル達あいつらの相手はまだできそうにねぇや。しばらく大人しくしとかねぇと……」


 壁を伝ってよたよたと、自分の部屋を目指して歩くレイジー。廊下の角を曲がろうとした時、その角から見覚えのある者が、いきなりレイジーの眼前に飛び出してきた。


「きゃっ!?」


「うおっ!?」


 その相手とぶつかる直前に、大きく仰け反ったレイジーは、尻餅をついてしまう。痛みを訴える尻をさすりながら、レイジーがふと前を見ると……そこには誰もいない。


 首を傾げて周囲を探すが、辺りには人の影などどこにもない。だが、レイジーは自分の足の先に、キラリと光を反射する物が、いつの間にか落ちている事に気が付いた。


「コイツは……くしか?」


 レイジーの足先に落ちていたのは、透き通った緑色の櫛だ。それを拾い上げたレイジーは、先程聞いた声を頭の中でもう一度再生する。


 そして、それから数十秒間にわたって、その櫛をジッと凝視しつづけた。……すると、櫛がレイジーの手が揺らしているわけでもなく、勝手にプルプルと小刻みに動き始めたではないか。しかも櫛の表面には、水にぬらしたわけでもないのに、水滴が薄らと付いている。


「お前……クシナダだな?」


 レイジーが『クシナダ』と、その櫛の名前を呼んだと同時に、櫛が勝手に動き出し、レイジーの手から逃れようと激しく動き始める。レイジーの手の中から、躍起になって逃れようとしている最中、櫛が唐突に喋り始めた。


「ぶつかりかけたのは謝りますから! 今はそれどころじゃないんですっ!」


「今はそれどころじゃない……? 何かあったのか?」


「とにかく放して下さい! そうしないと話もできませんって!」


「あ、あぁ……すまねぇ」


 レイジーが櫛を宙へと軽く投げた瞬間、櫛が人の姿へと変わった。玉虫色の着物を着た、典型的な和風美人だ。


 彼女が『クシナダ』こと『櫛名田比売クシナダヒメ』だ。あのスサノオの妻と言えば、彼女がどれほどの苦労人かが、よく分かるだろう。


 いつも大人しいはずのクシナダが珍しく、そわそわと落ち着きを無くしている様子であった。レイジーに事情を話している最中も、周囲をキョロキョロと見回しながら話している。


「と、とととにかく! 早くしないとヘラクレス君とスサノオが、見つからなくなっちゃいますよ!?」


 (よっぽど大変な事が起こったのか……)と、レイジーは胸中で面倒臭がりながらも、クシナダの肩を掴んで落ち着くように言い聞かせる。


「……とりあえず落ち着け。そんなの日常茶飯事じゃねぇか。アマテラスがアイツのイタズラにブチキレて、お空の向こうまでぶっ飛ばしたのか? それともまたツクヨミと大喧嘩して、アイツの能力で生き埋めにされたのか?」


 レイジーが適当に思いついた事を口にした。しかし、クシナダはどちらにも、首を横に振る。そんな彼女の反応を見たレイジーは、後頭部に手を伸ばして自分の頭を掻いた。


「それなら……一体何があったんだよ?」


「落ちたんです。ヘラクレスさんと一緒にに!!」


「あぁ、ハイハイ。紙園の外に落ちたのか。そんな事は日常茶飯事……なわけねぇだろ!! 何をしていたら、紙園から落っこちるなんて事になるんだよ!?」


 叡智の紙園は、外部からの干渉を断つために、どの空間とも繋がっていない特殊な空間の中に、浮遊した状態で存在している。……とはいえ、カエデが関わっていた例の一件は、あくまでも例外だ。


 今回の件は、クシナダが言っているように、スサノオが紙園の外へと落っこちた……らしい。


「さ、さぁ……? 私はアマテラスお義姉さまの隣で、クラマさんやツクヨミお義兄さまと、スサノオをどうするかについての話をしていた最中でしたので……」


 (コイツは面倒を通り越した別の何かだな……)と、人知れず胸中で考えながらも、レイジーは頭を掻く。


 面倒な事を後回しにするのが、いつもの彼なりのやり方だが、紙園の女性陣を怒らせると、大抵ロクな事にならないのは、とっくの昔に学習済みだ。


「紙園から落ちるアホなんて、紙園創造以来の珍事件だぞ。落ちた奴をどうやって回収すんだよ。あのアホのバアルですら、紙園から落ちた事が無いってのに」


「クラマさんとアマテラスお義姉さんが、スサノオを探す為に、紙園の外へ降りて行ってしまったんです。探しに行ってしまう前にお義姉さんから聞いたのですが、ツクヨミお義兄さんは、最近紙園にやって来た……え~っと、大きな人の所にクラマさんが預けたと仰ってました」


「大きな人? あぁ、デウスクエスとアラストゥムの事か。って事はクラマがカエデの奴にツクヨミを預けてるのか」


 レイジーは、「クラマに直接聞けば、ある程度は事態を理解できるかもしれねぇな……」と小さく呟くが、肝心のクラマはクシナダが言った通り、出払ってしまっている。


「その騒動の一部始終を見ている奴は、他にいなかったか?」


「え? 私は見てませんね。なんせ、ピクニック感覚からパニック状態になっちゃったもので、とても周囲を見る余裕は……」


「そうか、ピクニック感覚って事は?」


「……? は、はいそうですけど?」


「それだけ分かれば十分だ。恐らく第37位アイツが、その出来事を全部見てると思うぜ」


 そう言ったレイジーは、クシナダを自分の真正面から、背後に移動させた。懐からグリモワールを取り出し、ゴエティアの章の最初から、ペラペラとページを一枚ずつ捲っていく。


 ……そして、そうこうしている内に、数十秒が経った。目的の大悪魔が記されたページを見つけたレイジーは、ジーッとそのページを食い入るように見つめる。そして例の如く、大悪魔を召喚する為の呪文を唱え……るのかと思いきや、グリモワールを閉じてしまった。


「すまねぇ、ちょっと俺の部屋まで急ぐぞ。クシナダ、ちょっと手を貸してくれ……」


「は、はぁ……?」


 クシナダは、レイジーが言い出した事を理解すらできないまま、彼の部屋まで移動する手を貸す事になった。


 そして、それから更に十数分が経過。クシナダとの二人三脚の末、レイジーはやっとの思いで、自分の部屋の前に辿り着いた。


「や、やっと……辿り…着いた……ぞ」


「怪我をしてから一週間ほど、アテナさんの手を借りていたとは聞きましたが……まさかここまで体力が落ちているとは」


 レイジーもクシナダも、揃って肩で息をしながら、目の前にある扉を開ける。すると、施設に収容している化物を監視するモニターが、2人を静かに出迎えた。


 レイジーは念のために、モニターの一つ一つを確認した後、そのモニターの隣にある棚の扉に手をかける。そして扉を開いたレイジーが、棚の中から取り出したのは……。


「そ、それって……じゃないですか! そんなので誰が呼べるんですか?!」


「まぁ、見てろって」


 それだけ言ったレイジーは、容器の中からひとつまみの餌を取り出して、窓の桟に置き、鳥の声を真似てか、唐突に口笛を吹き始めた。


 そして、口笛を止めたレイジーは、自分がいつも座っている椅子に腰かける。


「まぁ数分だけ落ち着いて待て。今は丁度昼前だから、ひょっとしたら数分も待たずに来るかもな」


「え? それってどういうk……あれ?」


 クシナダがレイジーの言った言葉の真意を汲み取れず、質問をしようとした矢先、彼女の視界の隅――――レイジーの部屋にある窓に、いつの間にやら、何者かがやって来ていた。


「これって小鳥――――にしては、どこかが……違うような」


 紅い小鳥が、窓の桟に留まって、先程レイジーが置いた餌を、夢中になってついばみ続けている。クシナダの事など、小鳥の視界には入っていないようだ。


 クシナダは、ジッとその小鳥を凝視しつづける。相手は、クシナダの存在に気付いていないので、一向に逃げ出す気配はない。凝視している内に、クシナダはその小鳥の、奇妙な点に気が付いた。


「あ、あれ……? この鳥のような気g……!?」


 小鳥の羽毛、それをよく見ると……赤い色が、微かに流動しているように見える。風に靡いているような、単純な動き方ではない。一方向ではなく、色んな方向へと羽毛が動いているのだ――――風など一つも吹いていないというのに。


「そりゃあ当然だ。コイツ――――


 レイジーが口笛を吹くと、餌を啄むのを止めた小鳥が、レイジーの方へと顔を向けた。顔を向けた瞬間、ほんの一瞬だけだったが、後頭部の羽毛から、火の粉が少しだけ飛び出した。


 そして、小鳥はレイジーに懐いているのか、彼が小鳥に向けて差し出した指に、何の躊躇も無く飛び乗った。


「この鳥だよ。俺が言ってた『第37位アイツ』ってのは」


 この小鳥、実はグリモワール序列に属する、なのだ。


 正式な名は『グリモワール序列第37位 フルネックス=フェニックス』。不死鳥としての一面が、強く表に出るフェニックスだが、実は魔神としての一面も持ち合わせており、グリモワールの中にその名を連ねる大悪魔でもある。


 実は、人間の姿を取らせることもできる事を知ったレイジーが、一度だけフェニックスに人間の姿をとらせたことがある。


 人の姿に化けたフェニックスは、もちろん人語を解するようになるが、その声は耳を塞ぎたくなるほど聞き苦しい声であった。これ以降、レイジーはフェニックスに人の姿をとらせていない。


「この小鳥さんが……スサノオを見ていると?」


「あぁ。コイツは紙園を空から監視する為に、放し飼いのような状態にしてある。コイツの見た物は、全て俺が見られるようにしてあるからな」


 そう言ったレイジーは、フェニックスの頭に人差し指をあてて、ブツブツを呪文を唱える。そして口の動きが止まっとと同時に、フェニックスとレイジーが同時に目を瞑った。


「……クシナダ。お前も目を瞑れ」


「え? どうしたんですか唐突に……」


 「いいから早く瞑れ」と急かすレイジーに言われるがまま、クシナダも目を瞑る。すると、どこからか音叉を叩いたような音が聞こえてきた。クシナダが怪訝に思っていると、「目を開いてみろ」とレイジーの声が聞こえた。


「なんだったんですかレイジーs……!?」


 結局何がしたかったのかと、クシナダがレイジーを問い質そうと目を開いた時、目の前に広がっていたのは、レイジーの部屋ではなく――――であった。


「え? 私達はさっきまで、レイジーさんの部屋にいて……」


「あ~……簡単に説明するとだな。お前の視界を『フェニックスが見ていた風景に塗り替えただけ』だ。つまり、俺達はちゃんと俺の部屋に立っているが、目に見えているのは、フェニックスが見た紙園を上空から見た景色……って訳だ」


「は、はぁ……」


 (ずっと前から何でもできる人だとは思っていたけど……)と、クシナダは考えていたが、ここまでくるともう何をされたのかすら、理解できない状況だ。無論レイジーの説明など、殆ど頭に入っていない。


「で、この状態になった今、私は何をすれば?」


「なに、簡単な事だ。この視界に映っている景色の中から、お前がいた場所を見つけて、スサノオとヘラクレスの場所を、そこから見つけてくれればいいだけの話だ」


「そんな簡単に見つけられたら、誰もひと探しに苦労なんてしませんよ……」


 言うは易く行うは難し、と言う奴だろう。口ではサラッと言っているが、紙園は相当に広い。なんせ、神々に大悪魔、天使に化物達を住まわせる程の、広大な規模なのだから、当然といえば当然だ。


「まぁ、それもそうか。因みに方角的にはどこら辺にいたかわかるか。この館からどちらの方角だったかとか」


「え、え~っと。確か大きな木がある場所でした」


「紙園から落ちるぐらい縁に近くて、しかもデカい木がある場所か。……って、まさかそれって『アルテミスの森』じゃねぇか?」




 叡智の紙園には、迷路のように入り組み、一度迷うと空でも飛ばない限り、外に出られないとも言われている森があった。


 管理者であるレイジーも、その森にはよほどの事情がない限り、絶対に寄り付かない。


 寄り付かない理由は、至って簡単なものだ。彼はその森に、何度か近づいた事があったが、その度に死にそうな目に遭っているからである。


「私が少し目を離した隙に、一体何があったってのよ。ハァ、全く」


 翡翠のような色に、黒色の髪が混じっている、ポニーテールの女性が、金髪の青年の声に反応して、後ろを振り向いた。


 青年が指さす先には、確かに草花が踏み荒らされ、崩れている箇所が確かにある。それを見た女性は、面倒な事になったと言いたげな表情を見せる。


「クシナダちゃんや仮面の人がいないわね……。何かあったのかしら?」


「えっ、姉さん。この森にひとを入れたの!?」


「し、仕方ないでしょ!? 断りにくかったのよ。アテナの知り合いだったし、私も知らない仲じゃなかったから……」


「それでもちょっと不味いよ。レイジーさんからこの森には極力、ひとを入れるなって言われてたじゃん」


「……ごめん。レイジーの奴には、私から話しておくわ。まさか、この紙園から落ちる人がいるなんて、思ってなかったのよ」


「その必要はねぇ。全部聞かせてもらったぞお前等!」


 その声が聞こえたと同時、空気が震えたかのような殺気が2人の間を、吹き抜けていった。


 その直後、後ろから大きな塊が、こちらめがけて飛んでくる感覚を、瞬時に察知した2人は、後ろを振り向いて臨戦態勢をとる。


 しかし、2人が背中にあった弓に手をかけて、後ろを振り返った時には、2人の眼前に半透明の紫色をした塊が止まっていた。その半透明の紫色をした塊の向こう側に、2人も見慣れた顔が立っている。


「遅ぇよアルテミス。アポロンはともかく、お前がそんなんじゃ、あっという間にハデスのお世話になっちまうぜ?」


 言い終わったと同時に、『アルテミス』に『アポロン』と呼ばれた2人の目の前にあった半透明の紫色をした塊が、風に流されるように崩れ去り、塊のむこう側にいた人物をより鮮明に映し出した。


 彼女達がレイジーとクシナダの話に出てきた、『アルテミスの森』を管理している、『セリオーネ=アルテミス』と彼女の弟である『セリオーネ=アポロン』の姉弟だ。


「レ、レイジー!? こ、これには色々と訳g……」


 「言い訳を聞く気はない」という言葉を代弁するように、2人の頭に拳が叩き込まれる。ゴスッと鈍い音が聞こえたかと思えば、2人が大きなタンコブを頭に作った状態で、一言も発することなく、地面に突っ伏していた。


「話は全部、クシナダから聞いてるぜ。だからお前達からの説明はいらねぇぞ。罰を与えるなら、お前ら2人揃ってからとゼウスからも言われてるしな」


 その言葉が、引き金になったのだろうか。突っ伏した状態のまま、ピクリと反応した彼女が、飛び上がるようにして体勢を立て直し、今にもレイジーに噛み付かんとする剣幕で、彼を捲し立て始める。


「だったらなおさらよ! この森の管理を私達に任せたのは貴方でしょ!? 少しは私達の言い分の聞きなさいよ!」


「なんでこうもギリシャ神話の女神は、俺に対して当たりがキツいんだ……」


 何も、アテナとアルテミスだけが、ギリシャ神話の女神ではないのだが、確かにレイジーに対する当りが厳しいのは、見ての通り事実だろう。


 まぁ、彼女の剣幕に関して言えば、「言い訳など必要ない」と切り捨てたレイジーにも、多かれ少なかれ非があるのだが。


「あ、あのぅ……ここに来て何が分かるんですか?」


 恐る恐る、クシナダがレイジーに聞く。クシナダの方に顔を向けたレイジーは、ガミガミと文句を垂れる、アルテミスの方に向く耳を塞いで、クシナダの質問に答え始めた。


「単純な話だ。同じ場所から飛び降りれば、アイツらと同じ場所にたどり着くだろ。俺が試しにここから飛び降りてみたいんだが、俺はまだ本調子じゃなくってな。誰か丁度いい奴はいないだろうか……」


 そんな事を呟きながら、クシナダから目を逸らしたレイジーの視線が、ある人物と合った。視線が合った人物は、レイジーが自分の方を向いた事に動揺して、つらつらと文句を言っていた口を止め、隣にいた弟と顔を見合わせた。


「「……えっ?」」


「お、丁度いい奴がいるじゃねぇか」


 ニヤリと笑ったレイジーは、回れ右をして逃げ出そうとした姉弟の足元に、グリモワールの魔方陣を仕掛ける。


 魔方陣の中にいた2人は、まるで磁石の様に、背中合わせの状態で、くっ付いた。そこに、まるで縄をかけるように、幾つもの魔法陣が2人を拘束する。


「なんで私達だけがこんな目に遭わなくちゃいけないのよぅ!」


「なんでもなにも、偶々この場に居合わせた、お前たち自身の運の悪さを呪うんだな」


「……姉さん。レイジーさんに噛み付いたら、ロクな目に遭わないって、いい加減に学習したらどうかな?」


「トホホ……」


 アポロンが言っている通り、この2人(全部アルテミスが原因なのだが)に、色んな面倒事が回ってくるのは、今回に限った事ではない。


 レイジーが面倒事を抱えている時に限って、今回の様にアルテミスとアポロンが、なぜかどこからともなく出てくるのだ。


「前回の騒動に駆り出さなかっただけ、ありがたく思え。本当はお前達を使おうかと思っていたが、日頃のアレもあると考えて、俺があえて呼ばなかっただけなんだからな」


「「はい……」」


「今回はお前達がアテナの代わりだ。アイツを連続で呼びつけたら、流石にぶっ飛ばされそうだしな」


 そう言ってレイジーは身震いした後、思い出したような表情をする。


「万が一って事もあるな、お前達だけじゃ不安だ。クシナダ……と言いたいが、お前ではちょっとな」


「私だって一応戦えますっ! スサノオばっかりに目がいってるかもしれませんが、私だってそれなりには……」


「ぼ、僕が……僕が行く」


 自分の背後から聞こえた、とてもか弱い声に、レイジーとクシナダが後ろを向く。そこには藤色の髪と和服に、群青の鎧で身を固めた見覚えのある者が立っていた。


「ツクヨミ……? お前、カエデの所にいたんじゃねぇのか?」


「この子が、どうしてもここに行きたいっていうから……私達もこの子と一緒に来ちゃったのよ」


 そう言いつつ、木陰から姿を現したのは――――カエデだ。彼女の後ろには、服装が変わっているが、熾天使達もいる。


 彼女が言うには、クラマからツクヨミを預かっていたが、整備も大体終わった頃、どうしても行きたいところがあるんだといい始めたらしい。


 整備を手伝ってくれた事もあり、熾天使達も同意した瞬間、気が付けばここに立っていた……という事だという。


 ツクヨミは、レイジーの後ろで、拘束されているアルテミス達を見てから、レイジーの顔をジッと見つめる。


「その人達に付いて行って、僕もスサノオを探したい。……ダメかな、主」


「俺は別に構わねぇけど、お前……すぐ倒れるじゃn」


 レイジーが否定的な意見を、口にしようとした瞬間、衝撃波と共に藤色の光がツクヨミを包み込んだ。


 ツクヨミの隣にいた熾天使やカエデは、ビクッと体を震わせて、藤色の光を纏うツクヨミから後退る。しかしレイジーだけは、熾天使やカエデ達とは違い、後ずさりどころか身動き一つしない。


「向こうに何が待ってるかなんて、到底分かったモンじゃねぇ。それでも行くっていうのなら、俺は止めねぇよ」


「……ありがとう。それなら僕が行ってくるよ」


 そう言い残した後、藤色の光を纏ったツクヨミの体が、音を立てずに宙に浮かび上がる。


 それから、暫くの間を置いた後、レイジーが付け加えるように言った。


夜月造神やつきつくりのかみ月詠命つくよみのみこと。汝に掛けた封じの力、取り払い給え」


「その祝詞は……!!」


 ツクヨミはハッとした表情をしたが、その顔はたちまちにして、藤色の光に隠されてしまう。


 ツクヨミを包んでいた藤色の光が、次第に膨張していき、その光の弾が月そのものに見え始めた時。急に藤色の光球が収縮し、人の姿を形作った。


 しかし、その人の姿は、小柄な人の姿ではない。その身長は、成人した男性のそれだ。


「気が弱いお前が珍しいじゃねぇか。そこまで言うなら、気が済むまで探して来い。なぁに、ここに帰ってくる方法は今思い付いた。安心しろ」


 レイジーがそう言い終わったと同時、藤色の光が花弁を風に散らす様に、人の姿から空に散っていく。そして残された人の姿は――――ツクヨミを大きく成長させたような姿であった。


 藤色の着物の上に纏う、金縁の装飾がなされた藤色の鎧。赤と白の糸で、ポニーテールの様に束ねられた藤色の髪。


 小さいツクヨミと違う点と言えば、子供っぽさが跡形もなくなった中性的な顔立ちと、藤色の角を持つ般若の面。そして、右手に握られた、三日月の柄がある扇だ。


 その『和と趣と風流』を、体で表現したかのようなツクヨミの姿に、アルテミス達や熾天使、果ては義理の妹であるクシナダですら、思わず見入ってしまうほどの美しい姿であった。


「……分かった。スサノオと姉さん達も、ちゃんと連れて戻ってくる」


「やだ……。この子、オリオンよりもずっとイケメンかも……!?」


「お、お義兄さんですよね?! いつも人の影に隠れている、あのツクヨミお義兄さんですよね!?」


 あまりの変貌ぶりに、ツクヨミ本来の姿を初めてみたクシナダが、彼を呼び止める。その声に反応したツクヨミが、クシナダの方に向き、小さく笑って頷いた。


 そして、ツクヨミは思い出したような表情を見せてから、クシナダに向き直って口を開く。


「そう言えば。クシナダは櫛に姿を変えて、スサノオのオロチ討伐にも力を貸していたそうだね。ならその力、少し僕にも貸してくれないかい?」


「はっ、はいっ! 喜んで!」


「あ、あれ。クシナダの応対が、俺やスサノオの時と違うような……?」


 レイジーがクシナダからの応対を、一つ一つ思い返しながら、先程のツクヨミに対する応対と比較している。


 その間にクシナダは、自身の姿を櫛に変え、ツクヨミの手元へフワフワと飛んでいく。


 ツクヨミが宙を舞う櫛を手に取って、藤色の髪に差してから、レイジーの方に顔を向けた。


「……それじゃ、行ってくるよ。クシナダはスサノオに会いたがっているから、連れて行っても良いかな?」


「あぁ、スサノオはともかく、お前と一緒なら大丈夫だろ。……それと、後ろの2人も忘れずに連れて行けよ」


「ま、待ちなさいよ! 私達はまだ……」


「ちょ、レイジーさん!? 僕達はまだ行っても良いなんて言った覚えは……」


「分かった。ひとの手は多いに越したことはない。感謝するよ主」


 そう言ったツクヨミは、両耳を指で塞いでいるレイジーに、ニコッと笑いかけた後、アルテミスとアポロンに目を向ける。


 ツクヨミに見つめられ、2人は蛇に睨まれた蛙の如く、身動きどころか声すら出せなくなった。


「それじゃ、宜しくお願いします。え~っと……」


「女の方がアルテミス。男の方はソイツの弟アポロンだ。仲良くしてやってくれ」


「分かった。どこか僕と姉さんを見ているように感じるね。それでは行きましょうか、アルテミスさんにアポロンさん」


「レ・イ・ジーッ!! 覚えてなさいよ!! 帰ってきたら絶対に眉間を撃ち抜いてあげるんだから!!」


「はいはい、生きて帰ってこれたらな~」


 ツクヨミの超能力によって、アルテミスとアポロンの体が宙に浮かび上がる。


 アルテミスは、ギャーギャーとレイジーに対して喚き散らしていたが、アポロンは観念したのか、終始無言を貫いていた。


 レイジーは、ツクヨミ達を紙園の外へと、姿が見えなくなるまで見送った後、自分の後ろにいるカエデと熾天使達に向き直った。


 するとラファエルが、ウリエルの後ろに隠れたまま、消え入りそうな声で呟く。


「ご主人。今度はどこにいくの……?」


「あぁ、ちょっと今回のキーマンに会いにな。……ラファエルも来るか? だからよ」


 『タナトスがいる場所』と聞いて、ラファエル以外の熾天使達は、レイジーがどこに行くのか察しが付いたらしい。


 それを聞いたウリエルが、慌ててラファエルをレイジーから庇う様な、抱きかかえ方をした。


「まさか、ラファエルを冥界に連れて行く気ですか!?」


「ちょっとぐらい構わねぇだろ? そもそも、ラファエルは穢れの影響を受けつけないって言い出したのはお前等なんだしよ」


「うっ……。そ、それは確かにそうですが冥界はちょっと……」


 他の熾天使や自分はともかく、年端もいかないラファエルを行かせるのは、少々気が引けるのだろう。


「大丈夫だ。子供の天使だからって、取って喰うような連中じゃねぇよ。あ、それとカエデ」


「なによ。まさか私まで冥界に付いて来いなんて、言い出すんじゃないでしょうね」


「ご名答。流石女の勘はバカにできねぇな」


 そういうや否や、カエデの手を掴んだかと思えば、懐からグリモワールを取り出して、木々の間をぐるりと見渡す。


「フェニックス。お前も手を貸してくれ!」


『ピィィッ!』


 いつの間に付いて来ていたのか、フェニックスがレイジーの呼び声に応じて、木々の間を縫うようにして彼の元へと飛来する。


 しかし、フェニックスは何をするでもなく、カエデの肩に留まっただけであった。


「ちょ、この鳥は!?」


「アモン達と同じ大悪魔だ。ソイツを絶対に肩から放すんじゃねぇぞ!」


「えっ。こんな小さい鳥が大悪魔……って、私はまだ行くとは言ってないじゃないの!!」


「ぁ、ご主人……待って……」


「ちょ、ラファエル!? ……あ~あ、行っちゃった」


 カエデの手を掴んで、どこかへ行くレイジーを、ガブリエルの制止も聞かずに、ラファエルが追いかけていった。


 レイジーは、カエデの手を引いて走っている最中、ふとラファエルがいる事を思い出し、カエデの手を放して後方に向かってUターンした。


「あ、ヤベッ。ラファエルの事を忘れてた!」


「あっ!? ちょ、いきなり手を放したr……」


 勢いを殺しきれなかったカエデは、眼前に待ち構えていた木に、顔面から激しく衝突する。フェニックスは、カエデが気にぶつかる直前に、彼女の肩から飛び立っていた為、無傷で済んだ。


 カエデの肩から離れたフェニックスが、再び彼女の肩に留まったと同時、ラファエルを背負った状態のレイジーが追いつく。


「何やってんだよおm……うおッ!?」


 レイジーからの呼びかけに答える代わりに、レイジーの鼻先に拳が一発だけ飛んできた。すんでのところで、しゃがみこんで拳を避けたと思えば、今度は顔面を狙った膝蹴りが飛んでくる。


 それを半身で避けた直後、バッタのように大きく跳躍し、空中で一回転した後に、レイジーはカエデから距離をとった。


「悪ぃ悪ぃ。組手なら、後で腐るほど付き合ってやるから、今は勘弁してくれ」


「勘弁してくれじゃないでしょ!? こっちは死にかけたのよ!?」


「これから行くのは冥界だってのに……。まぁいいか、とりあえず足元を見てみな」


「えっ? 足もt」


 カエデは、レイジーに言われるがままに、自分の足元を見て初めて気が付いた。


 足元の地面が、いつの間にか巨大な本のページへと変わっており、そのページは今まさに、カエデを飲み込もうとしている。


「キャアアァァァアアァァァ?!」


「ハハハッ! さ、俺達も行くか」


「そ、そんなに笑ったら……後が怖いよ。ご主人」


「お、おう。そうだな……用心しておこう」


 背負っているラファエルに、釘を刺されたレイジーは、一つ咳払いをした後、カエデを飲み込んだページの中に飛び込んだ。

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