名も無き化物


「……で、あの化物の事について、私も含めてこれから話し合う事になった訳だけど……何か意見ある?」


 まず結論から言うと、逃走を図ったレイジーは捕まってしまった。掴まった原因は、森の中を逃走している最中に、木の根に躓いて転ぶという、何とも情けない最期を遂げたのだ。


 今、カエデの隣にいる彼の状態を、物に例えるとすれば、『叩かれ過ぎて中身の綿が飛び出したサンドバック』とでも表現すれば適切だろうか。


 グリモワールの回復魔法が、全く追いつかないレベルで、ボコボコにされたのだから、読んで字の如く一瞬の間であった。


 ロキやヘルメス、そしてアモン達は、カエデにボコボコにされたレイジーを、せっせと回復させるグリモワールを見て、カエデの尋常ならざる戦闘能力を見せつけられる。


 いつの間にか、無意識の内に背もたれを使わず、背筋が真っ直ぐになっていた。少々恐れ気味に、ロキがカエデの言葉に回答する。


「あ、あぁ……あの調査を見て分かった事は、敵は一体ではなく、複数体の個体があの建物内をうろついていたよね。そして、多様な種類が、あの建物内部に存在するのだろうとも、容易に推測できる。それに伴って、想定外の事も多数起こるだろうと僕は思うけどね」


 ロキがそこで言葉を切り、それに続いてヘルメスが言葉を引き継いだ。


「そして、僕とロキさんが考えた案は、僕達であの生物を一ヵ所に追い立て、あのデウスクエスという乗り物で一網打尽にする……という案です」


 人間はもちろん、どの生物も火を恐れる本能がある。そこであの生物が生き物であるという前提の元、その習性を利用する事にした。


 やり方はいたって簡単な、追い込み作戦だ。あの建物内部を、四つのブロックに分割し、それぞれのブロックに追い立てる役を配置する。


 そして、四に分割されたブロックの、全てが接する中央部の建物を打ち壊し、全ての化物をその打ち壊した広場に集め、デウスクエスに乗り込んだカエデが一網打尽にする……という算段だ。


 その作戦の内容を、何も言わずに聞いていたカエデは、唐突に「う~ん」と唸って口を開く。その様子を見て、先程から黙っていたアモンが、何が気に入らないのか思って、カエデに向かって口を開く。


『ホゥ、どうかなさいましたか?』


「いや、作戦自体は悪くないのよ? でもね……化物、化物って、なんか言いにくくないかしら? 私としては、ちゃんとした名前を、正式に付けるべきだと思うのよね」


「あの化物の名前……ですか?」


 まさか、そっちのダメ出しをされるとは、微塵も思っていなかったヘルメスとロキは、お互いの顔を見合わせる。


 返答に詰まる二人に、助け舟を出したのはアモンであった。咳払いをした後、暫く蟀谷こめかみつつくような仕草をした後、思い付いたように指をパチンと鳴らす。


『……相手はかなりの残虐性を持ち、己の空腹を満たす為ならば、共喰いすら厭わないような、私達の想像を超えた生物です。略奪りゃくだつ掠奪りゃくだつという言葉をもじって『超常生物 掠奪者達ブランダラプターズ』という名は、いかがでしょうか』


 その名前を聞いた後、カエデは顎に手をあてて、じっと考え込む。程なくして、顎から手を外したカエデは、満足気に頷いた。


「……そこそこ良いネーミングセンスしてるじゃない。どこかの誰かさんとは違って。……他に案は無いようだし、それで決めてしまっても良いと思うわよ?」


 掠奪者達ブランダラプターズ……この名前はカエデにとっても、非常にわかりやすい名前だった。なぜなら奴等が、自分の全てを奪ったのだ。これほどまでに、憎いと思った相手は今までいない。


 その時、グリモワールの治療が終わったレイジーが、徐に単語を一つずつ、口から呻くようにして漏らした。


「……毒……動かない……」


「ちょっと、しっかりしなさいよ。いくら何でも数発殴っただけでへばり過ぎでしょ……!」


 その時、カエデの脳裏に、蠍の尾が突き刺さった、カマキリモドキの姿が映る。そのカマキリモドキは、猛毒の効果によって、途端に動かなくなった。


 だとすれば……だ。カエデは、掠奪者ブランダラプターに、物理的な攻撃は悪手であり、逆に毒などの科学的な物質に、極端に弱いのかもしれないと閃く。


「……まさか、あのサソリの尻尾を持ってる奴以外は、全員毒に弱いのかしら?」


『あのカマキリの様な掠奪者が、蠍の尾を突き刺された直後に沈黙した辺り、その考察は間違っていないかと』


 『奴らが毒に対する抵抗を、既に身につけてしまったとなれば、話は全く違ったものになりますが……』と、少し小声気味にアモンが呟いた。


 それを聞いて暫くの間、カエデとアモン達の間に沈黙が続く。その最中、カエデはふと、アモンの顔を見てある事を思い出した。


「……そうだ。ねぇ、毒が使える人達を、できる範囲で全員集めてもらえないかしら?」



 カエデの提案から、小一時間も経たない間に、あれよあれよと頭数が増え続け、あっという間に人数は五人も集まった。


 ここに集った各自に、共通して言える事は、全員が何かしらの化物を連れている事だ。


 先程カエデに、チラリと姿を見せたラファエルも、二体の小さい生き物を持っている。だが、どちらも傍から見て、一概に可愛いとは到底言い難い見た目をしていた。


 黒い婦人服を着ている女性――――ペルセポネとレイジーが呼んでいた女性は、三つの頭を持つ狼の様な生物を繋ぐ、大きく太い鎖を持っている。


 ……と。この紙園に来て、最初に出会った一人であるスサノオが、見覚えのない男子と、面白そうに笑って会話をしていた。不思議に思ったカエデは、女性陣と会話をしているレイジーの袖を引っ張る。


「……ねぇ、私は毒を使える人達を集めてって言ったのに、なんであんな子が一緒に混じってるの?」


「あ、そうそう。すっかり紹介し忘れてたな。おいお前ら、少しこっちに来いよ」


 レイジーの呼びかけに、スサノオと謎の男子の顔が、同時に二人の方へと向いた。それから二人揃って、こちらへと一目散に駆けてくる。


 その姿を遠目に見ていた、黒いピエロが、慌てた風に黒い婦人服の女性の後ろに隠れた事に、レイジー達は気が付いていない。


「紹介が遅れちまったな。コイツは『エルキューレ=ヘラクレス』っていう神様だ。今はこんな小さい姿だが、腕力や力の強さはスサノオにも負けてない奴だぜ」


「俺とスサノオは似た者同士だ! 俺達は二人揃って、アレスさんみたいなヒーローになるのが夢なんだぜ!」


「ヒーローか……って、それよりも何で、君達がここにいるのよ? 私は毒を使える人達に、ここへ集まるように言ったはずなんだけど?」


「まぁ、そこら辺にしておけカエデ。コイツ等は今回の作戦において、かなり大きな役割を持ってる奴等なんだぜ?」


 レイジーがそう言っても、カエデの顔から懐疑の表情は消えない。


 そこでレイジーは、「口で言っても信じそうにないな、それならアレを見せてやれ。スサノオ、ヘラクレス」と言って、顎で広い場所に出るよう、二人に指示した。


 その言葉に従った二人は、競うようにして広場へと駆けて行く。その二人の姿を見ながら、レイジーはカエデに語り掛けるように呟いた。


「俺は神様以外にも、化物の管理も行っている。万が一今回の様な事が起こらないよう、極力気を抜くまいとしていたつもりだったんだが、あの掠奪者達ブランダラプターズは、俺も知らない奴だったもんでな……」


「……誰もアンタを責めないわよ。誰の目にもつかず、アンタは一人で頑張ってたのね」


「俺一人で……って訳じゃねぇんだがな。それは流石に無理があるから、その化物と縁の強い神様に、面倒を見てもらっていると言った方が正しいのかもな」


『ちょうど――――アイツ等の様な奴に』


 そう言ったレイジーは、二人の向かった広場を指さした。すると、広場で大きな音と共に、途轍もない量の煙が上がる。


 天を衝くかの如き、大きさの煙は突如として現れておきながら、何が起こったのかを、何一つとして一切語らない。


 急に何事かと、カエデが立ち上がった煙を見上げると、向かって右側の立ち上がった煙から、苔生した鱗に覆われる、目を疑うような大きさの尾が見えた。


 地に叩き付けるような形で、その巨大な尾が横たわった後、暫くの時間をおいて、衝撃波の様な風が、レイジーと依純達の間を吹き抜ける。


 すると次は、煙の中から巨大な胸と思わしき部分が露わになる。しかし、先程の尾が鱗で覆われていたのに対し、こちらは鱗が剥がれ落ち、代わりに血が滴っていた。


「血が出てる……ケガしてるのアレ?」


「いいや、アレぐらい何ともない程の、体力と力を持ったタフな化物だ。あの傷は、ラファエルの力でも治せない。アイツには足が無くって、胴体を引きずる様にして前に動くからな。ほら、じきに顔が出てくるぞ」


 そう言ったレイジーが、煙の頭頂部分を指し示すと、既にチラチラと煙の中から、尖った何かが見え隠れしていた。


 見え隠れするだけだが、それでもかなりの大きさがある。下手をすれば――――煙の中に潜んでいる者の全体像は、山そのものにも劣らない大きさなのかもしれない。


「す、少し大きすぎやしないかしら……? 苔が生えてるみたいな緑っぽい尻尾に、あの見え隠れする頭みたいな部分……下手すればそこら辺の山より大きわよ?」


「まぁ、コイツに始まった事じゃねぇからな。他の化物も数えたらきりがねぇ。だが――――コイツは他と明らかに違う」


 一方で向かって左側の煙からも、生物の頭らしきものが見えていた。顔立ちは龍その物だが、煙の塊のあちらこちらから飛び出している。とても『頭が一つだけある』とは、到底思えないような見え方をしていた。


 いい加減に息苦しくなったのか、左右両方の煙から一つの頭が飛び出した。その頭の、いくらか血走った双眸は、レイジーとカエデのいる方向を、寸分の狂いも無くしっかりと捉えている。


「さ、流石に威圧感タップリの顔ね。こんなにデカい生き物がいるなんt……!?」


 そう言い終わりかけた時、左右の煙の中から『もう一つの頭』が、唐突にニュッと生えてきた。どちらも二つの、黒い龍の頭と蒼い龍の頭だ。


 カエデが、自分の目を疑っている間にも、二体の頭数は増え続け、最終的にはどちらも八つの頭を煙から覗かせた。


 しかも、その十六にも及ぶ威圧感タップリの頭が、しっかりとこちらを見つめているのだから、心臓が縮む思いどころではない。


 全ての顔が出てきた瞬間、八つ頭を持つ龍達は煙を振り払う様に前に前進する。確かにその龍の頭達の首元は、共通する一つの胴体としか繋がっていない。


「……アイツ等は、この紙園の中でも指折りの厄介者だ。向かって右側の、山みたいな背中の蒼い奴が、『八岐大蛇ヤマタノオロチ』という龍神。そして左側の、黒い蛇みたいな怪物が『ヒュドラ』って名前の大蛇だ」


 この二体の、色以外に違う箇所と言えば、ヒュドラには翼と足があり、オロチにはどちらもない。だが両者の大きさは、そこまで変わらない。


 カエデの乗るデウスクエスですら、彼らの口の中に、スッポリと納まってしまうかもしれない程の大きさだ。


「オロチの方は、毒が吐けない代わりに炎が吐ける。ヒュドラは、炎よりも毒を吐く方が多いぐらいだ。あまり炎を吐くのは得意じゃない」


 そう言いながらレイジーは、オロチとヒュドラに向かって、大きく手を振り始めた。


 いきなり何をしているのかと、カエデがレイジーの目線を追いかけると……それぞれの頭の上に、人影が見えた。その人影も、レイジーに負けまいと一生懸命手を振っている。


「……アレが、さっきの子?」


「あぁ、アイツ等は『口寄せ』とかいう、召喚方法をとっているらしい。魔法が一切使えないアイツ等だから仕方のない事だが、俺はしようとは思わないな。なんせ自分の血を使って、遠くにいる者を召喚する方法らしいからな」


 特にこの二体は気性が荒く、他の生物を好んで襲う性格なので、頻繁に目の届く範囲に置いておかなくてはならない。


 しかし、周囲に別の生物がいない状況を作る必要があり、その図体の大きさ故に、そんな状況を作る事は、非常に困難な事であった。


 そこで二人が、クラマに相談したところ、彼が知る極東の秘術『口寄せ』を伝授してくれたらしい。これは魔法ではないので、魔力を持たない二人でも、召喚魔法と比べれば、まだ簡単にできる物だった。


「まぁ、口寄せが使える奴も、あの二人とかクラマとか……そこそこ限られてくるんだけどな」


 そう言ったレイジーは、二体の頭に向かって、戻って来いと体を使って合図する。


 すると、二人を乗せた頭が大きく傾き、レイジー達の目の前で止まった。カエデは心底ゾッとしていて、声が全く出ない。


 カエデが危うく、腰を抜かしかけていた時、オロチとヒュドラの頭から、スサノオとヘラクレスが飛び降りてきた。

 

 二人が飛び降りた瞬間、オロチとヒュドラの二体は、自身の体を巨大な煙を変えて姿を消す。


「ヘヘッ、これで分かっただろ? スサノオとオロチは、デカい図体を使った陽動役として、俺は姉ちゃんに言われた通り、毒を扱える化物を使えるんだぜ」


「加えてコイツ等の怪力なら、あの鉄のように硬い装甲を砕けるかもしれない。それがこの二人を呼んだ理由だ」


 そう言って踵を返したレイジーは、後ろに控えている三人を、一人ずつカエデに紹介する。


「お前もあった事がある奴がいるかもしれないが、一応紹介しておこう。向かって右の黒い服を着ている奴が、お前にそっくりだと言ったペルセポネ。傍に控えている黒いピエロがタナトスだ。ついでに、その隣で寝ている狼みたいなのが、『番犬ケルベロス』って奴だ。因みに飼い主はハデスだ」


 ペルセポネの持つ鎖は、紫色の涎を垂らして眠りこける、三つ頭のケルベロスが繋がれた首輪に繋がっている。


 名前を呼ばれた二人は、カエデの顔を見て小さく会釈をした。カエデが、少しぎこちない会釈を返したのを見て、その隣にいる小さい天使に目線を映す。


「コイツはお前も前に会った筈だ。名前はラファエル。腕に抱えている奴はコカトリス。頭に乗ってるのがバジリスクって奴だ」


 そう言って、ラファエルの腕の中と、頭の上にいる生物を指さした途端、ラファエルが急にタナトスの後ろに姿を隠した。


 急に自分の後ろへと、ラファエルが隠れた事に驚いたタナトスは、身振り手振りのジェスチャーで、隠れていないで挨拶をしてみたらどうかと伝えた。


 彼女は、少しだけモジモジとしていたが、バジリスクとコカトリスの後押しもあり、勇気を出したラファエルの口から、蚊の鳴くような声が出た。


「……ジャ、『ジャスティア=ラファエル』……です。あ、改めて……よ、よろしく…お願いしますぅ……」


 そう言った直後、再びタナトスの後ろへ、急いで隠れてしまった。彼女の一連の行動を見ていたレイジーも、頭を掻きながら、彼女のフォローに回った。


「あ~……アイツはいつもあんな調子だ。とても素直な子だが、見ての通り人見知りってレベルじゃない。優しく話しかけてやれば、隠れながらでも、ちゃんと会話はしてくれるが……」


 ラファエルのお守りは、タナトスに任せて、もう一人の女性の前に立つ。蝮よりも少し大きいぐらいの蛇を、何の躊躇も無く首元からぶら下げているのを見て、カエデの顔面は半分引き攣っている。


「コイツが最後だ。名前はヘル、首から垂れ下がっている蛇がヘルの兄貴、ヨルムンガンドって奴だ」


「へぇ、蛇がお兄さん……ん? 何でこの人のお兄さんが蛇なのよ! 私を揶揄からかってるの!?」


揶揄からかってないさ。元人間とかじゃなくて、生まれついての蛇なんだよ。ほら、ヘルからもなんか言ってくれ……」


 胸座を掴まれ、今にも殴り飛ばされそうな体勢になっているレイジーは、ヘルに助けを求める。ヘルは額に手をあてて、やれやれと言いたげに深い溜息を吐いた後、カエデに言って聞かせるような口調で語り始めた。


「……レイジーの言ってる事に、何一つとして嘘はないわ。この蛇が私の兄貴なのよ」


「ほら見ろ! 神話は現実よりも奇なりとは正にこの事だr……」


「それを言うなら、事実は小説よりも奇なりでしょ!!」


 ヘルが本当の事を、言おうと言うまいと、どの道レイジーは殴り飛ばされる運命にあったらしい。


 レイジーの鼻筋を、強かに捉えたカエデの拳は、そのまま力任せに、レイジーを吹き飛ばす。放物線を描くようにして、鼻から噴き出した血と共に、レイジーの体が宙を舞った。


 頭から地面に墜落し、数秒間動かなかったが、グリモワールの力によって、再び息を吹き返す。鼻から噴き出した血が、そのまま残っていた為、それを顔から拭い去った後、立ち上がって一つ咳払いをして、再び場を仕切り直した。


「……ゴホン。あ~、お前達を呼んだ理由は……カエデから説明してくれ」


「面倒臭いからって、私に全部丸投げするのは止めてくれないかしら?」


 「まぁ、私が言いだした事なんだけど……」と言いつつ、自分が言い出した趣旨を、集められたメンバー達に伝える。


「……と言う訳よ。私も、それを実行するとどうなるのかは、レイジーから全て聞いているから、簡単に想像できるわ」


 そう言って、少しだけうんざりとした顔をして、レイジーを流し目でじっと見つめた。当の本人も苦笑するだけで、何も語らない。


「そして大型の掠奪者が出現した場合、状況に応じてオロチやヒュドラ、私が乗るデウスクエスの力を使って対応する。そしてあわよくば、二号機である、アラストゥムの回収も行う……これで全部かしらね?」


「そう言えば、アラストゥムの操縦者は……まだ俺のままになってるのか?」


「えぇ。どこかの誰かさんが爆発させた癖に、当の本人は脱走したせいでね」


「ウグッ……!」


 痛い所を突かれたレイジーは、胸を押さえて苦悶の表情を浮かべる。しかしカエデは、その表情と仕草を演技だと見抜いた瞬間、レイジーの顔面に鋭い一撃を叩きこむ。


「フゴッ!?」


「アンタがそれをやる時は演技だってわかってんのよ! 何年も会ってないからって忘れてないんだから!」


「くッ……相棒の目は、やはりごまかせないのか……」


 レイジーは、虫歯になった子供の頬のように、赤く腫れ上がった頬をさすりながら、恨みのこもった眼差しでカエデをジッと睨む。しかしカエデが、その程度で怯むような人間ではない事も、自分で分かっていた。


「とにかく、オロチとヒュドラがこの作戦のカギを握っているのよ。スサノオにヘラクレス、あの化物を上手く操ってちょうだいね?」


「「応ッ!!」」


 そんな三人の様子を、傍から見ていたレイジーは、ふとある事に気が付いた。確認のため、その場にいる人数を数えると――――呼んだ人数よりも、一人だけ少ない事に、今更ながら気が付いたのだ。


「……あ、ヤバい。『アイツ』の存在をすっかり忘れてた」


 誰にも聞かれないような声量で、レイジーが徐に呟いた言葉が、合図であるかのように、周囲の景色が途端に歪み始めた。


 景色が歪み始めた時、スサノオだけが直感的に、とある気配を察知した。


「この気配……オロチとそっくりだな。ひょっとしてオロチと同じ化物の類か?」


「あのような低俗な蛇と、わらわを混同するでないわ。正しくは『化ける者』と言って欲しいものじゃの。まぁ、神仏の類は、童の様な化生の者など、微塵も知らぬかもしれんがな」


 いきなり、歪曲した空から音も無く降りてきた者の声に、一同が顔を上げる。


 声からして、まず女性である事に間違いはないのだが、その顔は顔隠しに使われる白い布で、覆い隠されている。辛うじて見えるのは、淡い口紅を塗っている端整な口元だけだ。


 その場の誰もが、知らない人物に困惑しているなか、レイジーだけがその人物を知り得ていた。唐衣とも和服とも似付かぬ、胸元が開けた服に、口元しか見えない顔隠しの白い布。


 そして何よりの特徴は――――背面から伸びている『九つに分かれた金毛こんもうの尾』であった。


「なんだ『オサキ』もちゃんといるじゃねぇか。居るなら居ると、言ってくれよ……」


「すまぬのレイジ。少し鬼どもの相手をしておったら、いつの間にやら、集いのときに遅れてしもうての……」


「お前……今到着したばっかりだったのかよ……」


 『オサキ』と呼ばれた女性は、口角を上げて少しだけ笑った後、九つの尾を少しだけ左右に振るう。すると空間の歪みが消え去り、そこには何事も無かったかのように、元通りの蒼い空が広がっていた。


 彼女は、自分の口から『九尾ここのお 御沙狐おさき』と本名を名乗った。


「初めてお目にかかる者も、この中にはおるかもしれぬの。わらわは『九尾ここのお 御沙狐おさき』と申す者じゃ。まぁ……早い話が、『九尾の金毛狐こんもうぎつね』と言うた方が、早いかもしれぬな」


 そう言ったオサキは、口元を手で隠したまま、笑って皆に一礼した直後、オサキはカエデの前へと、瞬間移動をして見せる。


 驚きのあまり声が出ないカエデを、白い紙に隠された視界で見ているのか、オサキはジロジロと物珍しそうな仕草で舐める様に見回す。


「ふむ……人間か。式神一体の気配すら、感じられぬと言う事は、何も持たぬ凡人と見た。レイジ、一体どうしてこのような者を……?」


「ぼっ、凡人!?」


「ソイツは俺の知り合いだ。俺が悪魔を召喚できるようになる前のな……。それと俺はレイジーだ。レイジじゃない」


「なるほど。レイジが、あの式神モドキ達を、自在に召喚できるようになる前の知り合いなのか。最近よく耳にする『がぁるふれんど』とかいう奴じゃな?」


 まさか、初対面の人外生物の口から、『ガールフレンド』という単語が出てくると思っていなかったカエデ。それを耳にした途端、耳の先まで真っ赤になってしまった。


 それはそれとして、オサキはレイジーの訂正する発言を、完全に無視している。レイジーは、今にもオサキに噛み付きそうな口調で話している為、耳の先まで真っ赤になっているカエデに気付いていない。


「だ~か~ら! いつになったらその呼び方を止めてくれるんだよ! お前だけだぞ、いつまでたっても正しく呼んでくれないのは!」


「一々面倒な男じゃのぅ……。集いの鬨に遅れた事は許す癖に、それぐらい構わぬではないか」


 露骨に嫌な顔をするオサキに、レイジーはほぼ相手にされていない状態だ。それとは別に、カエデは冥界の女王と、冥界の王の妻に、背中を撫でられて慰められていた。


「まぁそういう事もあるわよ……私よりも今の貴女の方が、よっぽど幸せだと思うわ」


「思いつめた方が体に毒なのよ。いっそ吐き出してしまった方が、逆に良いかもしれないわよ? 私達が全部聞いてあげるから」


「……ぅん」


 蚊の鳴くような声で、カエデが小さく頷くと、そんな彼女を気遣いながら、ペルセポネとヘルが彼女を連れて、ソッとその場を離れた。


 ペルセポネから、「この子の事少しの間だけ、よろしくね?」と言われて、ケルベロスを繋ぐ鎖を渡されたタナトスは、何がどうなった結果、今の状況になっているのか理解できていない。


 茫然とする彼の袖を、そっと引っ張る者が隣にいた。タナトスが顔を向けると、その者も全く状況が分かっていないようだ。……明らかにタナトスとは違う原因で、全く分かっていないだけなのだが。


 まだ幼い大天使は、タナトスの袖を引っ張って、口にした問いの答えを求めてきた。


「……さっきのお姉さん、どうしたの……?」


 ラファエルの質問に対する返答に、ほとほと困り果てたタナトスは、その場に座り込んで、数秒間腕を組んだまま考え込んだ。


 ……しかし、それでも分からなかったので、服の中から自分の影で作った、黒いスプレー缶をスッと取り出し、後ろにあった壁に小さく文字を書いた。


 彼お得意の、パントマイムで伝える事は、通訳のミネルヴァがいない上に、相手は幼いラファエルだ。パントマイムでは、少々難があると判断したのだろう。


『……恐らくは、大人の女性にしか、分からない事なのでしょう。私には分かりにくい問題ですが……』


「……ふ~ん? そう言えば、タナトスはどっちなの? 男の人? それとも女の人?」


 その問いを聞いて初めて、自分がどっちなのかと考えるタナトス。今まで自分にそんな事を聞いてきた者は、誰一人としていなかった為、考えた事も無かった。


 子供は無邪気故に、突拍子もない事を聞いてくる……と思いながらも、タナトスは再び腕を組んで、その場に座り込んだ。


 そしてまた数秒程考えた後、先程吹き付けた自分の影をスプレー缶の中へと戻し、再び文字を書き始める。


『……大人の女性にしかわからない事が、私には分からなかったので、恐らく男なのではないかと』


「じ、自分で自分の事も分からないの……?」


 ラファエルが驚いた表情をするのは、もちろん理解できるのだが、それ以前にタナトスは精霊だ。


 精霊には、人間や天使の様に、性別が用意されていない者が大半を占めている。従って、ラファエルが驚くのは無理もないが、タナトスの答え方も当然である。


 タナトスの会話を、いつの間にか二人の男子が、相槌をうちながら聞いていた。その二人に気付いたタナトスは、いきなり飛び上がり、道化服の中から自分の影を全て引き上げてしまった。


 その様子を目の当たりにして、茫然と道化服を見ているのはラファエルとスサノオだ。ラファエルは、服の傍にある木陰の中で、黒く小さい塊が震えているのを見つける。


 彼女はその塊の前に座り込んで、そっと話しかけてみた。


「も、もしかして……ピエロさん?」


 するとその塊が、ラファエルの声に反応して、首を縦に振るような動きを始める。その黒い塊が、タナトス本人だと確信したラファエルは、どうしたのかと聞こうとした。


 すると隣から、ラファエルを制止するように手が伸びてくる。その手の主は、ヘラクレスであった。彼は黒い塊になった状態でも、微かに震えているタナトスを見て、笑いかける。


「大丈夫だタナトス。俺はもう、お前を打ち倒す様な真似はしないさ。ハデスもケルベロスも、実際に俺と争ってないだろ?」


 そう言って、豪快に笑うヘラクレスを見たタナトスは、恐る恐る道化服の中へと戻り、元通りの姿を形成する。何が起こっているのか、さっぱり分かっていないスサノオが、ヘラクレスに説明を求めた。


「な、なぁヘラクレス……お前、この人に何かしたのか?」


「あ~……そこら辺は丁寧に話すと、とても長くなるから、掻い摘んで話すとな……」


 大雑把に話すと……。ヘラクレスは、一度死んだ人間を取り戻すべく、その者の魂を追いかけた事があった。その人間の魂を、ハデスの待つ冥界へと運んでいたのが、死の精霊であるタナトスだったという。


 そして彼は、そのタナトスを打ち倒し、冥界へと連れて行かれる筈だった人間の魂を、無事に持ち帰る事に成功した……というエピソードがあったのだと説明した。


「あん時のタナトスは、文字通りの『死神』だったんだぜ? 今の姿からじゃ、微塵も想像できないかもしれないが……」


「ほ、ホントかよソレ……。こ、こんな道化服を着てジャグリングしてる人が、文字通りの死神みたいだったなんてよ……」


 スサノオは、ヘラクレスの言っている事が、全く信じられないと言いたげな表情で、タナトスとヘラクレスの顔を交互に見る。


 そんなスサノオを見て、ヘラクレスは笑い飛ばすと、タナトスに向かって右手を差し出した。


「……まぁ、そんな事もあったが、今の俺は違う。俺達にはレイジーという心強い味方がいるしな! これは仲直りの握手だ!」


 その言葉に納得したのか、タナトスも頷いて、差し出された手を握り返した。


 ヘラクレスとタナトスが、固い握手を交わした一方で、紫色の涎を垂らしたまま、未だに眠りこけるケルベロスの隣に、ラファエルがちょこんと座っていた。彼女は、レイジーとオサキが繰り広げる言い争いを、ジッと傍観している。


 そんな二人の様子を、ジッと見ていた彼女が、徐にポツリと呟く。


「今日も紙園は……平和だなぁ……」

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