Satellite of the Moon

漆茶碗

プロローグ


 つまる所その少女は、この世の規範の中で計りきれない程に、稀有けうな存在だった。

 青年が少女『白月しらつき凛音りんね』に関する任務を与えられたのは、今から一週間前の事である。

 彼は今日に至るまでの七日間、片時も目を離す事なく少女を観察し続けていた。

 少女の動向を監視し、記録を続けると言う、一定の動作だけを繰り返す日々。

 白月凛音は姿形だけを見れば、そこいらにいる普通の少女となんら変わりはない。

 平凡な女子学生として、日常の中に溶け込んでいる。


 だが、その正体を彼は知っている。

 彼だけじゃない。今や彼が所属する『組織』の内部で、彼女の事を知らない者はいない。

 彼女自身に自覚は無いのだろうが、白月凛音は普段日の目を見ない、所謂〝裏の世界〟では、かなりの範囲で名前が知れ渡っている。


 この日、ついに青年が動き出した。

 白月凛音が学び舎から帰宅するこの時間帯に、決まってこの公園に立ち寄る事は、事前の調査で判明していた。

 普段はそれなりに周辺住民達も足を運ぶ場所ではある様だが、この時間帯ならば人気も少ない。

 都合良く、任務には打ってつけな状況であった。

 青年は、今までの七日間とは違う動作を行動に反映する。

 今までは遠巻きに眺めるだけだった彼女の背後へと近付き、道端の設置物や遊具の影に隠れながら慎重に尾行する。


 白月凛音が、公園の中心で立ち止まる。

 彼女はアスファルトで舗装された地面の上で、何をするでも無く佇んでいた。

 何やら両手を腰の位置位まで上げたかと思うと、誰も存在しない筈の空間へと向かって、何事かを話しかけている様にも見て取れる。

 青年はすかさず、普段から持ち歩いている、特殊なセンサーが仕込まれたゴーグルを取り出し装着すると、再び白月凛音の姿を視覚へと収める。


 ゴーグル越しに見たその姿は、この世の物とは思えぬ程に、幻想的な物であった。

 彼女の周囲を漂う、光の波。

 逢魔おうまときの只中、宵闇が迫りつつある空間で、彼女の周囲だけが、不可思議な色彩を持つ、ぼんやりとした光によって照らし出されていた。

 その光景を目の当たりにした青年は「まるで、光のドレスを纏っている様だな」と、感想を抱く。

 光の波が、まるで少女にじゃれつくかの様に、意思を持っているとも感じられる動きで、彼女の周囲を揺らめいでいた。


 白月凛音もまた、光の波を認識しているかの様に、微笑みを浮かべながら、自身に寄り添う輝きに身を委ねている。

 青年はその光景を目の当たりにした事で、自分が異世界と現実の境界線上に立たされているかの様な錯覚を起こす。

 だが、それは紛れも無い現実だった。

 青年は、頭に装着していたゴーグルを外す。

 機械越しの視点では無く、肉眼で再び彼女に目を向けると、先程までの幻想的な光景は嘘の様に消え失せ、今や白月凜音の身を照らしているのは、公園に設置された、白色LED灯の寒々しい輝きだけであった。


 そこで青年は、遂に少女の前へと姿を表す。

 相手に油断を誘う為、通行人を装い、何気ない素振りで彼女の前に立ちはだかる。

 白月凛音が足を止めた。

 彼女は怪訝そうな表情で、目の前に立つ大男の姿を足下から上へとゆっくり観察している。

 唐突な不審者の来訪に、少女は驚き逃げ惑うかと言えば、その様な素振りは全く見せない。

 むしろ彼女は冷めた視線で、怯む事無く青年と対峙していた。


 『組織』から青年に与えられた任務。


 それは――少女、白月凛音の抹殺任務であった。


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