Desire

 廊下を看護師が早足で歩いていく。

 そのまますれ違い数メートル進んだところで──振り返りラングを呼んだ。

「博士」

「何です」

 立ち止まり青年は訊ねる。

「あの……」

 呼び止めておきながら看護師は口ごもった。ラングは大きく息を吐く。

「……また行方不明か」

「はい。──あの」

「分かっています。探しておきますので」

「すいません。見つけたらすぐ」

 慌てて看護師は去っていく。


 『白鳥』の好きな遊びは隠れんぼだ。数日に一度は看護師の目を盗み、巧妙に隠れてしまう。

 験体は自由にこの施設を歩き回ることができる。あくまでも施設の中だけではあるが。

 しかし脱走することはできない。ここへ連れられてきた験体はまずマイクロチップを身体に埋め込まれる。マイクロチップは常に信号を発しており、中央の監視室では常に験体が施設のどの位置にいるか分かるようになっている。その情報は中央の監視室にいる者しか把握していない。あくまでも脱走を謀る実験体を捕まえ、時によっては始末するためだけに使われる。

 もっとも一般の看護師達にはそんな仕組みがあることは知らされていない。過去に験体に同情した彼らが脱走を共謀する事件があったからだ。

「入るぞ」

 扉をノックして開ける。中には誰もいない。

 ざっと部屋を見回すとおもむろに端末の置いてある机に近寄り、椅子をひく。

「……早く戻れ」

 机の下を覗き込んだラングが呆れたように言うとイーリヤはくすくす笑いながら顔を出した。

 インターホンでかの看護師を呼び出すと、先ほど引いた椅子へ腰掛ける。

「せんせ、すごいね。イーリヤまた見つかったね」

 そう彼女が隠れる理由は分かりきっている。だから振り回される必要もない。

「髪の毛の先が見えてた。看護師をからかうのはやめろ」

「あの看護師嫌い」

 言い捨てながらイーリヤは袖をまくる。採血を行う曜日は決まっている。

「好きな看護師(ヤツ)もいないだろう」

 手際よく採血を済ませ、使用済みの針を専用のケースにしまいこむ。

「うん。イーリヤが好きなのはせんせだけね」

 いつものやりとり。もう異議を唱えることもしない。時間の無駄だ。

「せんせ、最近額のシワ減ったね」

 ……少女の言葉が突拍子がないのも相変わらずだ。

「しばらく考えてみたが」

 カルテを開きながら答える。

「100の珍しくもないサンプルを見る代わりに、1つしかないサンプルを自分ひとりで研究していていいわけだ。そう考えれば悪い取引ではない」

 言いながら、枕元に目を落とす。シュタインが以前落としていった旅行パンフがまだ置いてあった。薄い表紙がよれよれになっている。

「……おい」

「何?」

「家を離れてどのくらいになる」

 開かれていたページは、一面の雪景色。

「んー」

 しかしラングの様子には頓着せず、イーリヤは宙をにらみ考え込む。

「だいぶ昔。冬が7、8回来た」

 ということは、5、6歳か。

「弟が熱を出していた」

 幼い頃の記憶がいっぺんに蘇ったらしい。少女は窓の向こうを見つめながら言葉を紡ぎだす。

「うちには男の子供は弟しかいなかったの。でも身体が弱くて──お母さんは弟にかかりっきりだった」

 視線を膝元に落とし、ベッドの上でうつむきながら軽く膝を抱える。

「女の子は大きくならないと、お金を稼げるようにならないから……イーリヤ、家の手伝い頑張ったけど、多分いらなかったの」

 まずしい農村部の光景が浮かぶ。

 本来「イーリヤ」は男性につける名前だ。労働力にならない女の子は嫌がられる。次に男の子が授かるように、と男性名を生まれた女の子につけるのはよくあることだ。

「でもね、ある日、街から偉い人がきたのよ。特別な子供を捜しているって。村中の子供が検査うけて、そのあと偉い人達が『イーリヤがほしい』ってお父さんとお母さんに言った」

 ラングは黙ってイーリヤの言葉を聴く。

「お父さんとお母さんはそのときはイーリヤのことは渡さないと言ったよ。でもイーリヤ知ってた。弟の病気でお父さんはいっぱいお金借りてた。その年取れるはずの作物は雪がたくさんで、家の食事の分しかなかったね」


 こっそり家を出て、『偉い人』を追いかけた。

「イーリヤが一緒に行ったら、お金をくれる?」

 信用できるかは分からなかった。けれど、自分がいなくなれば、その分の食事を弟に回せる。少しは楽になるはずだと思った。


「街では4回くらい冬が来た。ここみたいに、ずっと屋根の下だけど」

 口許に笑みが浮かぶ。

「そのあと、イーリヤここに連れてこられたね」

 ──息を吐く。

 世紀末のロシア。アメリカとの冷戦が終焉した後崩壊が進み、膨大な国土を持ちながら経済的に困窮した国。

 イーリヤを連れて行った『偉い人』は彼女との約束を守ったのか。

 放りっぱなしなのならまだいい。証拠隠滅のため、最悪の場合──いや、考えるまい。

「ここへ連れてきた人は乱暴だったね。この国嫌いって思った」

 口調の温度がすっと下がる。

 秘匿機関からの強奪。持って帰ったのはイーリヤの身柄とその資料だけだったという。

 しかし、その温度は次の言葉で常温に戻った。

「……だから、ずっと喋らなかった。けど……せんせに会えるって分かってたら、もうちょっと喋れるようにしておいたのに」

 よれよれになったパンフをたたむ。

「せんせ、うまくいえないけど、他の人とちがうね。何でかな」

「私自身が『よそ者』だからかもしれん」

「え?」

 ラングは端末のモニターに視線を固定したまま、ノートにボールペンを走らせる。

「父はドイツだが、母はイタリア系フランス人らしい」

「らしい?」

「私と入れ替わりに死んだ。それで父はロベールという名を私につけた。母の名前はロベルタと言ったそうだからな」

 少女が訊ねる。

「でも、お父さんはこの国の人なんでしょう?」

「──父は名前をつけただけで、私をフランスの祖母の許へおいたまま一旦祖国に帰った。だから子供の頃は自分をフランス人だと思っていた。この国に来たのは大学へ進学するためだ」

 当初は学問だけ修めてフランスに帰るつもりだった。だが在学中に祖母が死に、帰らなければならない家はなくなった。フランスの研究機関に魅力は覚えなかった。そのままこの国で研究職に就いたが、まだ父に会ったことはない。

「そうかあ」

 イーリヤは抱えた膝をほどき、ベッドの縁でラングのほうへ向かって座りなおす。

「せんせとイーリヤ、ちょっとずつ足りない同士だね」

 怪訝な顔をしたラングに、にっこり笑う。

「きっとね、『あるはずだったものがない』というのは、自分では気付くことのない不幸せなのよ」

 気付くことのない。……『自覚することのない』という意味か。

「……だが、その『あるはずだったものがない』状態が自分のあるがままの姿だろう。仮定を前提で話しても仕方あるまい」

「うん。……でも自分を哀れむというのではないのね。それは自分のなかでちょっとだけ空っぽで、何かで埋めたくなるのよ」

「『何』で?」

「『何か』で」

「くだらん」

 言い捨てると、イーリヤは声を立てて笑った。せんせ、そういうと思ったね、と。

「私は今日は帰る。看護師を困らせるな」

「頑張るよ」

「頑張らなくてはならないことではないだろう。では、また明日」

 足早にラングは部屋を去った。

 彼が去ったあとを、少女はいぶかしげに見る。 やがて、彼が使用していた机に書類が何枚か残っていることに気がついた。


 綺麗な景色が載っている、薄い本が何種類か。シュタインの落し物とにているけど、違うもの。

 イーリヤは机に近づき──その冊子に触れ、やわらかく微笑んだ。


 エレベータに乗り込むと、ラングは軽く息を吐く。

 ──くだらない。

 あたかも自分の心に言い聞かすように、思う。相手はたかが12歳の少女だ。7年も8年も外の世界をみたこともなく、研究のために飼われている貴重ではあるが無知な験体だ。

 なのに、ときどきひどく心を見透かすような言葉を投げてくる。


 『あるはずだったものがない』というのは、自分では気付くことのない不幸せなのよ。


 だが──その言葉に動揺したということは、私の中にも足りない、埋めたい何かがあるということか。

 ……私の『渇望』とは何だ。

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