第9話 モスキート音(おん)

 日は沈んでしまった。

 潮風が吹くなか、新田たちの姿は港にあった。新田たちの耳には麗華からもらった補聴器がつけられている。これがあれば、モスキート音でピノピナが流れてきても確認できるし、音の出所を探しだすことも可能だ。

 あたりはすでに薄暗い。目を凝らしてみると、かろうじて船着き場に十隻近くの船が停留しているのが確認できた。しかし、すべての船を確認するわけにもいかない。それぞれの船は違う国からやってきており、むやみに捜索などしたら、国際問題に発展しかねない。

「どれが目的の船だか見当もつかねぇな……」鼓動がタバコに火を点けた。「ダメか?」

「ええ」佐藤が眼鏡を赤外線モードにして確認している。「防壁によって、船のなかまでは見ることができないですね。船に関する情報はないんですか?」

「い、いや」佐藤にたずねられた深澤は困惑した。「いかんせん、急だったから……」

「肝心なときに役に立たねぇな」

 鼓動に睨まれた深澤は苦渋に満ちた表情で言葉を呑み込んだ。

 そのとき、背後から物音がした。

「ひっ!」驚いた山下が新田に抱きつく。山下は極度の恐がりなのだ。

「ちょ、ちょっと、山下さん……」こんなことでは、子供たちを助けられない。まして、猫男とやらに遭遇したら、どうなってしまうのか……。呆れながらも山下を押しのけて振り返った新田は思わず声をあげた。「マ、マリア!」

 新田たちの背後に忍び寄っていたのはマリアだった。

「あたしも行く!」

「……無理いうなよ」新田が呆れる。子供の居場所につながる有益な情報を得たいま、マリアにきてもらう必要はない。まして、この先、なにが起こるかわからない状態では足手まといになるだけだ。そう考えた新田は、マリアをラチに預けてここへやってきたのだ。「ラチさんのところへ戻ってくれないか?」

「イヤだ!」

 新田はあわててマリアの口をふさいだ。ここは船の近くなのだ。異変をさとられてしまっては、うまくいくものも、いかなくなってしまう。

 新田の手を離したマリアがつぶやく。「あたしも手伝う……」

 気持ちはありがたいが……。新田はため息をついた。……マリアの気持ちがわからないわけではない。ふたたび仲間たちに会えるかもしれないのだ、いてもたってもいられなかったのだろう。けれど、マリアの身になにかあってはもともこもない。

 新田がはっとする。新田の耳にゆるやかなメロディがきこえてきたのだ。

「これがピノピナか」音に気づいた鼓動たちが身構える。

「なに? どうしたの?」新田たちの反応に気づいたマリアがあたりを伺う。補聴器をつけていないマリアにはきこえないのだ。

 新田は確信した。ピノピナは、やはりモスキート音で流れているらしい。

「ピノピナだよ」新田がささやくと、マリアは息を呑んだ。

「お前は子守りをしてろ」そう告げた鼓動が音の鳴る方へ歩いていく。

「ちょ、ちょっと!」

 あわてふためく新田を無視して佐藤たちも鼓動のあとへと続いてしまった。

 新田の手が握られる。

 新田が視線をおとすと、さっきまでの威勢はどこにいったのやら、不安そうにマリアが新田の手を握っていた。マリアは祈るような表情で鼓動たちの動きを追っている。

「大丈夫だよ」屈み込んだ新田がマリアにささやく。「鼓動さんに任せれば、必ず仲間を助けてくれるから」いくらかかるか、わからないけどね。そう心のなかで続けた新田はマリアの手を握り返してあげた。

 それにしても、心休まる音色だ。新田の脳裏に、母の姿が浮かぶ。もしかしたら、どこの国でも子守唄というのは同じようなメロディなのかもしれない。子供が寝つきやすい音楽というのには一定の法則があるのだろう。

 新田の心がピノピナに奪われていたとき、どこからか猫の鳴き声がきこえた。

 新田の体に戦慄が走る。

 異変に気づいたマリアが新田に視線を移す。手を握っていた新田の手が力んだのに気づいたのだ。

「いま」新田がつぶやく。「きこえたよね? ……猫の鳴き声」

「……うん」

 どっちだ? そっとあたりを見回す。そう遠くにはいないはずだ。

 新田がマリアを守るように歩きだす。

 猫男なんて、本当にいるのだろうか。麗華から話をきいたとき、そんなものは恐怖心が創りだした見間違いだと新田は思った。あまり知られていないが、戦場では数々の都市伝説が次々に発生している。

 最新型飛行機をUFOと見間違えたり、処理された遺体が回収されたことを知らずに、死体が蘇った、ゾンビが現れたと騒ぎたてたり……。

 理解できないことが発生すると、むりやりにでも人間はその理由を創りだす。なぜなら、知らないということは、一番の恐怖だからだ。そして、創りだした理由をいいきかせて安心したがるのだ。

 けれど、それは必ずしもわるいことばかりでなない。死傷者の幽霊話などは、遺族や仲間の心を苦しみから解放することもあるからだ。ときには抱えきれない恐怖から根拠のない陰謀論を産みだしてしまうときもあるが……。

 おおかた、猫男も赤外線ゴーグルをした兵士でも見間違えたのでもないかと思っていた。写真に写ってしまった赤外線を猫の瞳と勘違いしたのではないか。新田はそう考えていたのだ。いまのいままでは……。

 新田は息を呑んだ。

 暗闇の向こうに二つの瞳孔が輝いていからだ。高さは新田の視線より少し高いぐらいだろうか。猫の高さではない。これが猫男なのか。縦に細長い瞳孔はあきらかに人間のそれとは違っていた。

 鳴き声がひびいた。

 それはたしかに猫の鳴き声だったが、太く響くその鳴き声はあきらかに小柄な猫のものとは違う。少なくとも、可愛らしさを感じるようなものではなかった。

 目をこらしたが、暗闇に紛れているため、正体をしっかりと確認できない。

 二つの瞳孔がゆっくりと近づいてくる。

 新田がマリアの手を握りしめる。

 鼓動たちは、モスキート音の出所を調べに船へ行ってしまった。

 頼れるのは自分だけだ。

 新田は懐から懐中電灯をとりだした。船員に気づかれないよう明かりを点けていなかったのだが、そんなことを気にしている場合ではない。下手をしたら、殺されるかもしれないのだ。

 この明かりに鼓動たちが気づいてくれればいいが……。

 そう願いながらも、新田が懐中電灯を猫男に向けた瞬間、猫男は新田の頭上を飛び跳えて向き直った。

 猫男が叫び声をあげる。威嚇しているのだ。

 凄い跳躍力だ。やはり、人間ではない。まさに猫だ。

 震えを抑えながら、新田が懐中電灯を向ける。

 猫男の姿が照らされた。大きさは成人男性と変わりなかったが、全身を包んでいる、異常に長い体毛と、暗闇にもかかわらず、らんらんと輝いている瞳。そして、尾てい骨から伸びた長い尻尾はくねくねとうねっていた。その姿は人間と猫の遺伝子を組み合わせて作られたようだった。いや。実際にそうなのだろう。そう説明された方がまだ理解できる。

 二の腕を舐めて毛繕いをしていた猫男が新田に向かって駆けだした。

 こんな奴を捕まえられるだろうか……。いや、この場から逃げ切れるか? 少なくとも、マリアだけは守りきらなくてはならない。そう思いながら新田は身構えた。

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