怒雷蔵
鳴神蒼龍
第1話 月光
このままでは、殺される。
必死に駆けていた凛(りん)が振り返った。何かに追いかけられているような気がしたのだ。しかし、月が照らす江戸の夜道に人影はなかった。息を呑んだ凛が再び駆けだす。最近、このあたりでは女の遺体が発見される事件が相次いでいた。しかも、犯人はただ殺すのではない。遺体の一部を持ち去っていくのだ。
先週、発見された女は右足。
一昨日、発見された女は左腕。
そして、きょう発見された女は左足が持ち去られていた。
一体、なにが目的なのだろう。鬼によるしわざだ、と次に狙われる犠牲者や鬼の噂で町人たちの話題は持ち切りになり、凛自身も興奮しながら毎日のように友達と語りあっていた。
腹がひどく痛む。息切れをおこした凛がわき腹をおさえた。元々、走るのが苦手なのだ。そのため、鬼ごっこをしてもいつも最初に捕まってしまう。だいたい、鬼はどうして人間を追うのだろうか。凛は鬼ごっこをするたびに不思議に思っていた。食べるためだろうか。鬼は食べるために人間を追うのだろうか。いや。もしかしたら、追われているのは鬼の方なのかもしれない。だとしたら、鬼を追いかけているのは人間だろうか。鬼はどうして人間から逃げているのだろうか。
いつも足が遅いと友達にからかわれている凛だが、いまは捕まるわけにはいかない。
なにせ、捕まったら殺されてしまうのだから。
寺子屋で授業を終えた後、友達とかくれんぼをしていた凛は神社の本殿裏に取り残された小屋を見つけた。神主にすら忘れ去られていそうな小屋はひどくさびれ、強い風が吹いたら崩れそうなほどもろく見えた。
ここなら絶対に見つからない。いままで足が遅いと凛をバカにしていた奴らを見かえすことができる。そう思いながら小屋に隠れて鬼を待ち構えていた凛は気がつくと眠りに落ちていた。どうやら、待ちくたびれていた凛を捕まえたのは鬼ではなく睡魔だったらしい。
目を覚ました凛はあわてて小屋からでたが、あたりはすでに闇に支配され、友達の姿を見つけることはできなかった。
みんな、あたしのことを探さずに帰ってしまったのだろうか。だとしたら薄情な奴らだ。そう思いながら凛が家路を急ぐ。日が沈むまでに家へ帰るよう母に強くいいつけられていたのだ。
せっかく八回目の誕生日を迎えたのに。朝、寝坊をしてしまった凛は、寝起きの機嫌の悪さもあって、母に強く当たったまま家を飛びだしてしまっていた。誕生日当日からこのありさまではかっこうがつかない。家に帰ったら、朝のことをちゃんと詫びよう。家では母が待ちくたびれているはずだ。早く帰らないと。母にだけは心配させたくない……。
母のことを思うと、凛はひどく申し訳ない気持ちになった。産まれたときから母と二人だけで生きてきた凛にとって、母だけがたった一人の家族なのだ。母の口から父のことを聞いたことはなかったが、母と二人でいられればそれだけで充分満足だった。
それだけで充分幸せだった。
凛の悲鳴が夜の静寂を打ち破る。
前方から、なにかが飛びだしてきたのだ。鬼か。怯えながらも、身構えた凛が目をこらして確認すると、それは近所をうろついている野良猫の空次郎(そらじろう)だった。
「びっくりさせないでよ」凛が安堵のため息とともにこぼす。いつも母にバレないよう、こっそりご飯をあげているのに。恩を仇でかえすとはまさにこのことだ。
冷や汗をふきながら空次郎のそばを通り過ぎると、凛が住んでいる長屋が見えてきた。凛が産まれたときから住んでいる貧乏長屋。近所の住人もみんな勝手知ったる仲だ。
「ただいま!」凛が勢いよく家の戸を開ける。しかし、いつも凛を出迎える母の姿は見えず、室内は真っ暗だった。
怒っているのだろうか。それとも、あたしを探しに外へでてしまっているのだろうか。そう思いながらも凛がロウソクに明かりを灯すと、壁に寄りかかった母の姿がぼんやりと浮かびあがってきた。
「かくれんぼしてたら眠っちゃって……」駆け寄ろうとした凛が言葉を呑む。
暗闇に浮かびあがった母の頭は持ち去られ、首から下の胴体しか残っていなかった。
呆然とした凛の手元から落ちたロウソクの火が一面にひろがった血の海にのみ込まれると、あたりはふたたび闇に包まれた。
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