281区 数歩
「聖香さん! 前と6秒差です! まだいけます! 絶対追い付けますし。頑張ってください! 都大路走りましょう!」
100mのスタート地点付近に紘子が立っていた。
紘子は大声で叫んで来るが、もう完全に涙声だ。
あーあ、私、紘子を二度も泣かせてる。
晴美ならきっと、「相変わらず聖香は罪作りな女かな」と言ってきそうだ。
それにしても、えいりんの姿がここまで大きく見えるとは思わなかった。
紘子は6秒差と言っていたが、走っている私からすればそんなに差があるようには思えない。
と、競技場内に私が帰って来たことを告げるアナウンスが流れる。
その声で事態を察したのだろう。えいりんが初めて振り返る。
「おかえり、さわのん。待ってたよ」
まるでそう言っているかのように、私の姿を見てえいりんが微笑む。
こういう所が、なんともえいりんらしい。
ここで私の姿を見て焦ってくれれば、どれだけ楽になれたことか。
「まったく、楽をさせてくれないんだから。まぁ、だからこそ、えいりんのことをライバルと呼べるのかな」
心の中で考えながら、えらく余裕を持っている自分に失笑してしまう。
私の姿を見て、えいりんがペースを上げたのか、それともトラックに入りラストスパートをかけたのか、手が届きそうなほど近くに見えたえいりんとの差は、追いかけ始めたころと違い、本当に少しずつしか縮まらなくなってきていた。
トラックを100mほど走り、ラスト400mとなる。
これが紘子だったら、一瞬で追い付いてしまうのだろうか。
私と紘子ではランナーとしての質が違うことを、一緒にいてまざまざと感じてしまう。
私もこの3年間で記録を残して来た。
昨年は1500mで4分19秒01を出し、県ランキング1位を取った。インターハイには出場出来なかったが、全国高校ランキングでも8位だった。
それに、3000m障害では高校新記録を出している。
それでも、紘子には記録の面で絶対に勝てないと思う。
紘子は高校生になってから、トラックでは3000mしか走っていないが、800mや1500mを走れば私の記録をあっさりと抜かしてしまうだろう。
それに、私が今3000mをトラックで走ったとしても、9分10秒を切るのがやっとだ。とてもじゃないが、紘子のように8分台は出せそうにない。
今年の夏合宿前に、そのことをみんなの前で話したら、麻子から
「随分と贅沢な悩みね。あなたの記録にどう頑張っても勝てないあたしはどうなるのよ」
と苦笑され、紘子には、
「自分からしたら聖香さんの勝負強さが羨ましいですし。自分は高校生になって、一度もトラックで県優勝をしたこともなければ、駅伝で区間賞を取ったこともないですし」
と、随分とふて腐れた顔で言われてしまった。
レースも残り300mとなり、私はバックストレートに入る。
ホームストレートで見た時よりも、えいりんとの差もどうにか縮まって来ている。
えいりんが一歩進むたびに跳ねる髪の毛もハッキリと見えるし、必死に酸素を取り入れようとぜいぜい呼吸をしている音さえ聞こえるところまで私は迫っていた。
今、私の気持ちをどうにか繋ぎ止めているのは、間違いなく、前へと進むたびに大きくなるえいりんの後ろ姿だ。
2キロ地点を通過した時に、えいりんのフォームが中学生の時と全く変わらないことに気付き、懐かしさを感じてしまった。
こうして、トラックの中で後ろ姿を見ると、最後に対戦したあのレースが、つい数時間前のことのように細部まではっきりと思い出せてくる。
私が、その年の中学県ランキング1位で優勝した最後のトラックレース。
世間では三強と言われていた、私とえいりん、それに山崎藍葉はスタートのピストルと同時に、我先にと先頭へと躍り出た。
最初にレースを引っ張ったのは藍葉だった。
そのすぐ後ろに私が付く。
えいりんは、勢いよくスタートしたものの、私達のスピードの方が速いと悟ったのか、私達に並びかけながらもペースを落とし、私の後ろへとついた。
ちなみに、今にして思えば、このレースには紗耶と貴島祐梨、それに紘子も出場していた。
そうだ。1年生の時のナイター陸上でも、永野先生に話したが、私は当時、紘子に負けるなんて微塵も思ったことはなかった。
正直に言うなら、えいりんと藍葉さえ気にしておけば、それで事足りていたのだ。
まさか、高校生になって立場が逆転してしまうとは。本当に世の中分からないものだ。
その後、そのトラックレースは、藍葉が800mまで先頭で走り、そこから1200mまでは私が先頭を引っぱった。
ラスト300mでえいりんがスパートをかけ、それを私と藍葉が必死に追う展開となる。
まさに、今こうして追いかけているのと同じ状況だ。
ただ、あの時はラスト200mで私は一度藍葉に抜かれ、3位へと後退している。
そこから、ラスト130mで藍葉に追いつくと、ホームストレートに入る直前でえいりんにも並び、ラストの直線はえいりんと競り合い、残り50mで私がリードして、そのまま逃げ切ったのだ。
どんなレースでも最後の方は相手と競り合い続けて、その相手に競り勝つのが基本的な私の勝ちパターンだと自分でも自負している。
競り合ってしまえば、私は自分のトップスピードを生かして勝ちに持ち込むことが出来る。
だからこそ、今の状況にはわずかながらに焦りが出始めていた。
ホームストレートを抜け、最後のカーブも半分近くまで来ている。
ちらっと右側に眼をやると、3000m障害の水濠がトラックの一番外側に設置してあるのが見えた。
まさか自分が高校新を出したり、日本一になるとは思ってもみなかった。
本当にあれは、高校生活の中でも最高の思い出だ。でも、それを一番の思い出にはしたくない。一番の思い出は、やはり都大路出場にしたい。
そのためにも今頑張らなければ。みんなはしっかりと頑張ってくれた。その頑張りを確認するかのように、私は肩に掛けたタスキをギュッと握る。
タスキは今までで一番汗ばんでおり、その分みんなの期待も今が一番かかっている気がした。
だからこそ、心の片隅に焦りが出始めているのだ。
これは、私の勝ちパターンに持ち込めないかもしれない。
もう少しでカーブを抜け、ホームストレートに入ろうとしている。
だが、未だにえいりんに並べずにいた。
後、ほんの数歩足りていない。
そのたった数歩が簡単に縮まってくれないのだ。
思い返してみれば、ここ数年、公式戦で私が残り100mで誰かに完全にリードされているのは初めてのような気がしていた。
1年生の時に高校駅伝で1区を走った時や、2年生の時のトラックレースなどで、宮本さんや千夏に並ばれていることはあったが、私が追いかけているというのは経験がない。
カーブを抜け、えいりんと私は最後の直線に出る。
泣いても笑っても残り100mで決着が付く。
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