280区 縮まる距離
残り約650m。競技場に入るまで後150mとなる。
今までずっと直線を走って来たが、ここで左折して山口県総合スポーツ公園の敷地内を走る。
敷地内は小刻みにカーブが続き、今までと違って見通しが良くない。
つまりは、目標物であるえいりんが見えないのだ。
きっと、次に見えるのは競技場に入った時だろう。
中学生の時に教わったことがある。
目標物が見えない時こそ、全力をもって追いかけろと。
そうすれば、次に見えた時に距離が一気に縮まっており、それが更なるやる気を引き出すからだそうだ。
逆に、次に見えた時、相手に離されてしまっていたら、追う側として精神的に大きな痛手となると教わった。
それに、この公園内は走路がそこまで広くないため、観客も立ち入り禁止となっており、応援者が誰1人いない。
まさに、自分との戦いだ。
えいりんを追うと決めた時から、私の中で覚悟は決まっている。
周りの状況に左右されるつもりは微塵もない。
追われる側のえいりんは、私が追って来ていることに気付いているのだろうか。
少なくとも私が追い始めてから、えいりんは一度も後ろを振り返っていない。
それとも、沿道の応援で気付いているのだろうか。
だが、気付いているとしても、どれくらいの勢いかは知らないだろう。
一度倒れた人間がものすごいペースで追って来るなんて想像もしていないはずだ。
いや、そもそもえいりんは私が倒れたことを知っているのだろうか。
正直、私自身、あの状況から自分がここまで復活出来るとは思っていなかった。
晴美の応援に完全に救われた。
もちろん晴美が亡くなったことは分かっている。
それに、今となればあの声が誰だったのかも分かる。
でも、そんな事実は関係ない。
あの声は私にとって晴美の声であり、晴美が私に力をくれたのだ。
その真実だけで十分だ。
そんなことを考えながら、私は小刻みに続くカーブを走り抜けて行く。
と、私の頭の中である言葉が蘇る。
「澤野は走力があるのに、それを生かしきれてないなあ。なんと言うかさ、クロスカントリーは位置取りや走り方……いや、重心のかけ方と言った方がいいか。とにかくそういう技術が大きく結果に左右するんだよ」
明彩大合宿の時に、クロスカントリーコースでペース走をした後で、キャプテンの岡江さんが、私に声をかけて来てくれた。
その後、岡江さんの丁寧な解説が始まったのだが……。
「あー、上手く説明できない。よし、澤野。後付いて来て。直接走って教えてあげるわ」
と、岡江さんは私の承諾も得ずに走り出してしまった。
私は断るわけにもいかず、ペース走をしたにもかかわらず、2キロコースを1周ほど岡江さんと一緒に走るはめになったのだ。
ちなみに私と岡江さんが1周して戻って来ると、小宮さんが
「塩を送った。岡江キャプテンが澤野に塩を送った。憎き澤野に岡江キャプテンが塩を送った」
とまるで念仏のようにブツブツと呟いており、その後ろで木本さんが必死に両手を合わせて私達にごめんなさいとポーズを取っていた。
あの時は、走り出した岡江さんを恨みそうになったが、今は非常に感謝している。
だって、この小刻みに続くカーブがまるでクロスカントリーコースのようだからだ。
私は今、連続するカーブをなるだけ直線的に走り抜けているが、これも岡江さんに教わった方法だ。岡江さんは確か、アウトインアウトと言っていた気がする。
こうすることで、最短距離を走ることが出来るのだそうだ。さすがに、大きな道路でやると、「公道を走る選手は左端から1m以内を走ること」と言う大会のルールに触れてしまうので出来ないのだが、幅が5mもない公園内の走路なら問題はないだろう。
だが、都大路だとどうなのだろう。テレビで見る限り、道路を封鎖しており、選手も道路の真ん中を走っていた気がする。
と、実際に自分が都大路を走れば分かるだろうと言うことに気付き、思わず笑いそうになってしまった。
公園内のカーブを抜け、競技場へと繋がるゲートの前へと出て来る。
ゲートまでの約20mは、コーンとバーで道が作られ、その後ろに観客が何重にもなって立っていた。密度だけで言えば、5区のスタートからここまでで一番多いだろう。
「頑張れ、桂水」
「前はすぐそこだぞ!」
「抜かせるよー」
「ラスト500m。しっかり!」
いくつもの声が重なって私の耳へと入って来る。
その応援から、間違いなく公園の敷地内でもえいりんとの差を詰めれたことを実感する。
だが、決して私はペースを緩めようとはしない。
むしろ、その応援を聞き、今以上にペースを上げようと、体を必死に動かす。
相変わらず脚は重いが、まだ腕はしっかりと振れている。
先ほど倒れた時に擦りむいたせいで、左手の手首辺りから出血をしていたが、そんなことに構ってはいられない。
手首がユニフォームに当たるせいで、ユニフォームにまで血が付いていた。
どうしよう。洗濯して落ちなかったら、都大路を走る前までに新しいユニフォームにしてもらおうかな。
いや、それもゴールしてから考えよう。
まだ、勝負は終わっていないんだから。
そう思いながら、ゲートの下に入る。
時間にして2秒もあれば潜り抜けてしまうが、競技場のスタンドの下ということもあり、ちょっとしたトンネルのような感じで、周囲が暗くなる。
さらには、ゲートを出た場所が100mのスタートよりもややメインスタンド側となり、ホームストレートに入るには、そこから鈍角に右手側へ曲がらなければならない。
きっと曲がった瞬間にえいりんが見えるはずだ。
気持ちを引き締め、ゲートを潜り抜ける。
一瞬の間だったが、視界が暗くなったせいで、競技場内がすごく眩しく感じる。
そして、右手に曲がり、ホームストレートに入り、視界が開ける。
手を伸ばせば、えいりんに届きそうな気がした。
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