243区 復活の第一歩

確かに私はこの一ヶ月近く落ち込んでいたせいで、視野が狭くなっていたようだ。


戻ることが私のゴールではない。

むしろそこはスタート地点だ。

そこからどうやって都大路を目指すのか。

それを考えなければいけない。


そして、ここが私の我慢の限界だった。


倉安さんの声が晴美にそっくりなせいで、まるで晴美に諭された気がした。


先ほどまではぐっと我慢していたが、ついに耐えきれなくなり、私は2人の前で泣き出していた。


私が泣き続けている間、倉安さんは優しい顔でじっとこっちを見ていた。


「若いっていいわね」

「はい?」

倉安さんの急な一言が理解出来ず、私は涙を拭きながら聞き返す。


「いや。本当は黙っておこうかと思ってんだけどね。さっきコンビニで聖香ちゃんに会た時、それこそ死んだような眼をしてたの。でも今は随分と眼が輝いてる。そうやって、気持ちをすぐに切り替えられるのも若さゆえかなって」


「とんでもないです。さっき電話で話したじゃないですか。この一ヶ月近く、私はずっと部屋に引きこもっていたんですから。私も黙っておこうと思ってましたが、こうやってまともに御飯を食べたのも随分と久しぶりなんですよ。晴美が亡くなってしばらくは、食べてもすぐに吐いてましたし。終いには食欲すらなくなってましたから」


「聖香ちゃん、随分と大変だったのね。まぁでも仕方ないよね。一番の親友なんだし……。あ、そうだ。それだったら、せっかくだし、うちに泊りに来ない?」


我ながらナイスアイデアと言わんばかりに、倉安さんは胸の前で手を叩く。


いや、何をどういう風に思考すると、私が泊まりに来た方が良いと言うことになるのか。


それに、いきなり誘われても返事に困ってしまう。

そもそも親が何と言うか……。


「よかったね、椎菜。聖香ちゃんがうちにお泊りに来るって」

返事も返していないのに、なぜかすでに私が泊まりに行くことになっていた。

椎菜ちゃんも「せいちゃん、おとまり?」と私に聞いてくる始末。


ふと、1年生の時の部活紹介で、麻子と出会った時のことを思い出す。

この強引さは、まさにあの時の麻子そのものだ。


とりあえず母親に聞いてみようと電話を入れる。


まずは来週から学校に行こうと思うと伝えると、安心したような声で返事が返って来た。


その後に泊ることを言うとあっさりと了解が出る。


まぁ、倉安さんが電話を代わり、説明してくれたおかげでもあるのだが……。

母親との電話を切った後で、私はもう一件電話を掛ける。相手はすぐに出た。


「お久しぶりです。永野先生」

「どうした澤野? 妙によそよそしい喋り方で」

 一ヶ月振りに永野先生の声を聞く。

たった一ヶ月なのに、妙に懐かしい気がした。


「どうにか、こうやって電話が出来るくらいまで気持ちも落ち着きました。すみません。この一ヶ月間ずっと落ち込んでました。学校には来週の月曜日から行こうと思ってます。もちろん部活にも。迷惑をお掛けしました」


電話の向こうで、しばらく沈黙があった。

その沈黙が妙に長く感じられる。


「別に私も部員も、迷惑だなんて思ってないぞ。澤野が帰って来てくれて嬉しいよ。これでようやくスタート地点だ。もう一度、全員で都大路目指して頑張ろう。園村のことでお前も苦しかっただろう。私は話を聞いてやることしか出来ないが、なにかあったら深夜でも良いから、遠慮なく電話して来いよ。来週の月曜待ってるから」


永野先生の言葉に「ありがとうございます。これからもよろしくお願いします」とお礼を言って電話を切る。


「聖香ちゃんの周りには優しい人がいっぱいいるのね」

「倉安さんも十分に優しいですから。あと……聖香ちゃんは恥ずかしいです。せめて聖香でお願いします」

倉安さんの言葉に、私は照れながら返事をする。

自分で聖香ちゃんと声に出すのが妙に恥ずかしかった。


「そう? 聖香ちゃんって可愛いと思うけど。じゃぁ、聖香。あたしと約束しようか」


「約束……。ですか?」


「聖香は月曜日から頑張って練習をして、11月の県高校駅伝でレギュラーとして活躍すること。その代りあたしは、その時会場に行って全力で聖香の応援をする」

倉安さんがそう宣言して、椎菜ちゃんを抱えて私の方に近付けて来た。


「椎菜。せいちゃんと指切りして」

「ゆびきり~?」

倉安さんに言われ、椎菜ちゃんは手を私に差し出して来る。


そのしぐさが何とも可愛かった。

私は椎菜ちゃんの小さな指に自分の指を絡ませる。

倉安さんが「指切りげんまん~♪」と歌うと椎菜ちゃんも真似をして歌い出していた。


ファミレスを後にして、倉安さんの車で私の家へと向かう。


倉安さんには駐車場で待ってもらい、急いでお泊りセットを準備すると、再び車に揺られて倉安さんの家へと向かう。


驚いたことに一軒家だった。


旦那さんが単身赴任をしてると聞いていたので、なんとなくアパートだと思っていたのだ。


「そうなのよ。この新居が完成したわずか三ヶ月後に旦那が転勤になってね。その時はどうしようかと思ったわ。まぁ、あたしの実家が車で10分だから、あたしはこっちに残ることにしたのよ。旦那も二年したらまた戻って来れそうだし」


言われてよく見ると、倉安さんの家は随分と新しかった。

家に入ると廊下もリビングも、ものすごく綺麗に掃除されている。


この家に姉が住んだらどうなるのだろうか。


そんな怖いことが一瞬頭の中に浮かぶ。

私は全力で頭を振り、その考えを追い出した。


泊めてもらうのに何もしないのも気が引けるので、倉安さんが家事をする間、私は椎菜ちゃんと遊ぶことにした。


倉安さんは「無理しなくて良いのよ。ゆっくり座ってなさい。

子供の体力ってすごいから」と言ってくれたが、たかが子供、どうってことないと思っていた。


しかし、自分の認識が甘かったとすぐに気付く。

椎菜ちゃんは飛び跳ねるように遊び、目を離すと走ってどこかへと逃げて行く。

だからと言って捕まえると暴れ出し、離すとまた飛び跳ねるように遊ぶ。


1時間もすると私の方が先にダウンしてしまい、秘密兵器のボタンを押す羽目になった。


「ごめん椎菜ちゃん。私もう無理」

私は倉安さんから渡されていたHDDレコーダーのリモコンのスイッチを押す。


「椎菜に耐えられなくなったらこの再生ボタンを押してね。一瞬で大人しくなるから」

遊び始める前にそう説明され、リモコンを渡されていた。

まさか使う羽目になるとは。

ボタンを押すと同時に、子供に大人気のアニメがテレビに映し出される。


今までのはしゃぎ様がウソのように椎菜ちゃんは大人しくなり、じっとアニメを見始めた。その突然の変わりようが面白く、私は吹き出してしまう。


しばらくすると、倉安さんが家事を終えて戻って来る。


「やっぱりダメでした。子供ってすごいですね」

「でしょ? でも今日は特別元気だったけどね。聖香のことが気に入ったみたいね」

苦笑いする私とは対照的に、倉安さんはニコニコと微笑む。


それから晩御飯の前にお風呂を借り、3人で御飯を食べる。


その後、倉安さんと椎菜ちゃんがお風呂に入る。

その間に、断る倉安さんを押し切って食器を洗う。

洗い終わってしばらくすると2人がお風呂から上がって来た。


「はい、椎菜。聖香お姉ちゃんにおやすみなさいは?」

「おやすみなさい」

椎菜ちゃんが一生懸命にそう言って頭を下げる。

私が「おやすみ」と返すと2人はベッドへと行く。

20分もしないうちに倉安さんが帰って来た。


「今日は随分とはしゃいでたからね。すぐに寝たわ」

リビングに戻って来ると、倉安さんはお茶を出してくれた。


「椎菜が生まれる前は、これがビールだったんだけどね」

お茶の入ったグラスをじっと見つめながら倉安さんはため息を付く。

と、私の顔をじっと見て来る。


「あたしはさぁ、剣道しかやったことがないからよく分からないんだけど。聖香ってここ一ヶ月近くずっと引きこもってたんでしょ? でも後二ヶ月したら駅伝よね? それって大丈夫なの? 体力的な面から見て。ほら、食事もあんまり食べてなかったって言うし。随分と体力が落ちてたりしない?」


なんともきつい質問だった。そのことについては私自身色々と考えていた。


「まったく問題ありませんよ。とは、口が裂けても言えないですね。私達が全国に行くためには城華大附属高校に勝たないといけないんですが……。かなりの強敵です。現に二年連続で負けてますし。でもどうにかしてみせます。晴美が待っていますから」


自分に言い聞かせるように、最後の方は力を込めて喋る。

倉安さんは「そっか……頑張れ」と静かにつぶやきお茶を飲み始めていた。

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