220区 日本選手権女子3000m障害決勝
いよいよ私の出場する女子3000m障害決勝の日がやって来た。
「それでは、女子3000m障害決勝に出場する、選手の入場です!」
場内にアナウンスの声が響き渡ると同時に、テンポの良い洋楽が流れ始める。
100mのスタート付近のゲートに待機していた私達が、係員の合図で一斉にトラックへと走り出して行く。
トラックへと入るとホームスタンドの前を走り、障害を一つ越え、3000m障害のスタート地点へと並ぶ。
その間、ずっと音楽が鳴り続け、観客の拍手も止むことがなかった。
さすが日本選手権。見に来たお客さんを楽しませるための工夫があちこちにしてある。
この、入場の仕方だってそうだ。選手が一斉にトラックに入り、障害を越えてスタートラインにやって来るのを見るだけで、きっと面白いに違いない。
「それでは女子3000m障害決勝に出場する選手を外側より順にご紹介いたします」
全員がスタート地点へ並ぶと選手紹介が始まる。
名前と所属が順番に紹介され始める。
呼ばれた選手は、手を上げてスタンドに一礼した後で、目の前のカメラに向かってアピールをする。
そうなのだ。なんと、各選手を撮影するために、カメラマンがやって来ているのだ。こう言う所も「さすが日本選手権だな」と、感心してしまう。
「マイナーな種目だからテレビ放送はないかもしれないが、最近は公式ホームページでの動画配信もあるしな。一応映るつもりできちんとしとけよ。桂水のユニホームを着ている以上、学校の名前も背負っているんだからな」
昨日の夜に永野先生が言った一言が蘇る。
ちなみに、テレビ放送がどうかは分からないがカメラの映像はそのまま、競技場内のオーロラビジョンに映し出されていた。
「続きまして柏場さん。十六夜銀行。柏場さんはこの種目におて、現在日本選手権4連覇。さらには日本記録保持者でもあります」
私の3つ隣にいる柏場さんが紹介されると、会場中から拍手が起きる。
私も最終コールで初めて見たばかりだが、やはり一昨日の氷室さんのように威圧感がすごかった。身長は私と同じくらいなのだが、その威圧感のせいでもっと高く思えてしまう。
持ちタイムでいえば、私より速いのは、この柏場さんだけだ。ただ、10分一桁がベストの選手も3人いる。その辺りでレースが作られて行くだろうと、昨夜、永野先生は語っていた。その上で「受け身になるな。つねに積極性を持っていけ」とアドバイスを受けた。
もちろん私もそのつもりでいる。相手が誰であろうと引く気はない。
と、私の前にカメラマンが移動して来る。
「続きまして澤野さん。桂水高校。澤野さんは現在、この種目の高校記録保持者並びに、昨年度の全国ランキング2位であります。また、この種目唯一の高校生での出場です」
紹介が終わると私は手を上げて一礼をする。
スタンドから柏場さんの時と同じくらい大きな拍手が起こる。
その大きさに少し驚いた。
もしかして、高校生だから注目されているのだろうか。
そして、その拍手が鳴り止まぬ間に、カメラに向かって決めポーズをとる。
笑顔で、首をちょっとだけ右に傾け、左耳の側でピースを作る。
晴美と写真を撮る時によくやっているポーズだ。
まぁ、このくらいなら永野先生も許してくれるだろう。
って、なんだか、歓声が上がったような気がしたのだが……。
きっと気のせいに違いない。
ちなみに女子3000m障害決勝に出場するのは12人。
内訳は、社会人が7人、大学生が4人、高校生が私1人となっている。
全員の選手紹介が終わると、「オン・ユア・マーク」と係員の声がする。
私達がスタートラインに付くと同時に、大きな国立競技場全体が静寂に包まれる。
何千人と言う観客がいるにもかかわらず、静寂に包まれ、時が止まってしまったような不思議な時間が流れる。
そしてそれを打ち破る、「パン」と言う乾いたピストルの音。
一斉に動き出す私達。
日本選手権女子3000m障害決勝のスタートだ。
スタートと同時に12人全員が最初の障害へと向かって走り出す。
私は密集した状態で、さらには人の後ろで障害を飛び越えるのが嫌だったので、わざとインには入らず2レーン辺りで障害を飛び越える。
まあ、私が一番最初に障害を飛び越えたのだが……。
言い換えると、私がいきなり先頭へと出たのだ。
でもこれは最初から予定どおり。
「柏場の3000m障害を調べてみたら、最近は大体最初の1000mは抑えて来てるな。だから澤野が先頭に立つこともあるだろうが、気にせずに行ってしまえ」
昨夜、永野先生からアドバイスをもらったこともあり、私はいきなり先頭に立っても気にすることなく、最初から積極的に行く。
なにより自分のリズムで走った方が、障害を飛び越えやすいと思った。
1台目の障害を飛び越え、2台目に向かう途中で横に誰かやって来る。
ちらっと見ると緑色のユニホームが見えた。
たしか、10分一桁を出している大学生だ。
これも永野先生は予測していた。
「10分一桁の選手がスタート直後から、澤野に付いて来るかもしれない。だがそれは気にしなくていいぞ。ついて来ても1000mまでだろうから。相手の調子が良ければ、最後まで付いて来るかもしれないが、それは落ちついて対処だな。最後の水濠を超えた辺りからスパートで制しても良いと思う」
2台目の障害は、私とその大学生が並ぶような形になった。
この2台目を飛んではっきりと分かった。
永野先生の知り合いが作ってくれたお手製の障害物。
あれはかなり効果があったようだ。
前回の時に比べ、障害の飛び方が上手くなっているのを自分でも感じる。
おかげで随分と落ち着いてレースに臨むことが出来た。
私と大学生が並ぶような形で走っているが、若干相手の息が上がっているのを感じる。これも余裕を持って障害を飛べるから気付けることだ。多分前回だったら、次の障害に意識が行きすぎて、相手を観察する余裕などなかっただろう。
3台目の障害に関しては、一度気持ちを落ち着かせ、明彩大の木本さんに教わったことを頭の中で復唱するゆとりさえあった。
「障害を飛ぶまでは、踏切位置に視線を置いてね。障害を越える時は、頭の高さは変えないで、体を小さくたたんで。着地は自然体で。真下に落ちようとせず、無理に遠くに跳ぼうとせず、自然と体が落ちる感じ。絶対に障害を越える時に無駄な体力を使わないようにね」
頭の中に蘇った木本さんの声が妙に懐かしい。
このレースが終わったら、久々に明彩大の人達と連絡でもしてみようかと考える。
何の問題もなく、3台目の障害を飛び越え、最初の水濠へと向かう。
この時点で、大学生は私の横から真後ろへ付くような形となっていた。
そして迎える最初の水濠。
私は障害に足をかけ、思いっきり前へと飛ぶように心掛ける。
これもあのお手製の障害で練習したことだ。最初はただ遠くへ飛んでいただけだったが、
「実際に、水濠が終わる辺りの場所に線を引いておくと、目安になって分かりやすかな」
と晴美がアドバイスをしてくれた。
言われて私は、明彩大で木本さんも同じように線を引いてくれたのを思い出した。
前回のレースと違い、一回目からふくらはぎ辺りが水に浸かるだけで済む。
前回は恐怖心から、腰のあたりまで水に浸かってしまった。
私とほぼ同じくらいのタイミングで大学生が水濠に着地する音が聞こえた。
そして私が水濠から出る瞬間に別の着地音が聞こえる。
「美代、落ち着いて行こう。先頭と2秒差」
水濠を出ると同時に、すぐ上のスタンドから女性の叫ぶ声が聞こえる。
柏場さんと同じ実業団の人だろうか。
声の主は分からなかったが、柏場さんが3位にいるのは分かった。
トラックを1周して1500mのスタート辺りの障害を飛んだ所で、大学生が私から離れて行くのが分かった。3000m障害は障害を飛び越える時の音などで、後ろの状況が判断出来るのが有り難い。とは言え、すぐ後ろの状況だけだし、きつくなって音を聞く余裕がなくなったら無理だろうが。
もう1周してこの障害を飛び超えた辺りが1000m地点となる。
昨年の明彩大合宿の時にも木本さんから聞いていたが、すっかり忘れてしまっていた。
今回は永野先生が色々と調べてくれたのだ。
2度目の水濠は私が単独トップで飛ぶ。
1周目と同様、水濠を出る辺りで別の着地音が聞こえる。それも今回は複数だ。
片方は柏場さんだろうと思う。
後は、先ほどまで並んでいた大学生だろうか。
柏場さんが先ほどと同じくらいの差で、後ろを付いて来ているのが何とも不気味だ。まるで、「いつでも追い付けるけど、今は先頭を走らせてあげる」とでも言われている気がした。
だからこそ、最初から少しでもリードを広げておきたかったのだが、どうも思ったほど広がってはいないらしい。
その後も何度か障害を飛び越え、1000mを通過する。
永野先生の情報によると、柏場さんはここ最近のレースで、1000mまでペースを抑えていることが多いらしい。
そのおかげもあってか、1000mを私は単独トップで通過した。
でも私自身、自分でも満足出来るくらい綺麗に障害を飛び越えて来ている。決して相手の調子に左右されただけのトップではないはずだ。
が、そう思った直後だった。
後ろから呼吸音が聞こえて来る。
あきらかに距離を縮められている。
障害をひとつ飛び越え、水濠に向かう途中で私の横に人が並ぶ。
並んだまま2人同時に水濠を飛び越える。
水濠を出るのは向こうの方が速かった。
スッと、その選手が私の前に出る。
黄色と白のユニホーム。予想していたとおり、柏場さんだ。
ここで先頭が入れ替わる。
柏場さんに抜かれ、2mくらい後ろを、私が2位で追いかける形となった。
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