221区 勝負のゆくえ

柏場さんが先頭に出て次の障害を越え、残りは4周となる。

私は相変わらず2m差で柏場さんの後ろを着いて行く。


この差が私の中で、前に選手がいても自分のリズムで障害を飛び越えることが出来る最小距離だ。


「まぁ、向こうは実業団選手だからな。意地もあるだろう。多分、1000m過ぎたら先頭に出て来るはずだ。でも、4年くらい前の柏場ならいざ知らず、今の柏場と澤野のタイム差を考えたら一気に離されることはないだろう。抜かれたからすぐに抜き返すのではなく、冷静に付いて行け。必ずもう一度勝負出来る場面が来るはずだ」


昨日、永野先生が私にアドバイスをくれた時、そんなに上手くレースが展開するだろうかと心の中では思っていた。


だが、ここまでは永野先生が言ったとおりのレース展開になっている。


つまり、もう一度勝負出来る場面が必ず来るということだ。

それを信じ、今は落ち着いて柏場さんに付いて行く。


日本選手権という大舞台で、こんなにも落ち着いて走れるのは、間違いなく永野先生が付いていてくれるからだ。


今まで2年3ヶ月ほど永野先生の指導を受けて来たが、今日ほど顧問が永野先生でよかったと思った日はない。


トラックを1周して来て残り3周となる。


前回は残り3周を通過した直後に脚が重たくなったが、今回はまだ持ちそうな感じがした。


逆に、前を走る柏場さんのリズムが悪くなっているような気がする。

障害を飛び超え着地した瞬間、一瞬だけだが柏場さんの動きが止まった。


普段だったら、私も気付かなかったかもしれない。

でも今日は意識して柏場さんの走りを観察していたので、まるでスローモーションのようにはっきりと分かった。


ここがもしかしたら、もう一度勝負出来る場面なのか。

そう思いながらも、まだ柏場さんの後ろについたまま、障害をひとつ越える。


この障害を越え、次にある水濠を超えた所で2000m。残りは1000mだ。


どうするべきか私は悩む。


ここから前に出て行くべきか。

それともギリギリまで柏場さんの後ろについて、ラストで勝負に出るか。


自分の脚の動きを確認する限り、まだまだ脚は元気だ。


私は決心を固める。

ここから前に出て行こう。


柏場さんの横に並ぶようにして障害に足を掛ける。

2人同時に水の中に入る。


だが、水から出たのは私の方が先だった。


先ほど柏場さんに先頭を奪われた地点で、今度は私が先頭を奪い返す。


「柏場選手、澤野選手を先頭に先頭は2000m通過。2000m通過は6分32秒。この1000mは3分17秒であります」


わずかに風が吹いていたせいか、競技場内に流れるアナウンスが耳にしっかりと入って来た。


ホームストレートを先頭のまま走り、残りは2周となる。

ゴールライン直後の障害を飛び越えた時にすぐ後ろで音がした。

どうやら、柏場さんはぴったりと後ろを付いて来ているようだ。


油断すると再度逆転される可能性もある。

最後まで絶対に気を抜いてはいけない。


その後も私が先頭のままレースは進んで行く。


極端にペースを上げたつもりはなかったが、さっきから障害を飛び越えるたびに、脚がどんどん重たくなっているのが分かる。


水濠のひとつ前にある障害を飛び越えた時、リズムを崩し、着地がふら付く。

このレース初めての失敗だ。


さすが3000m障害。

楽には終わらせてくれないようだ。


もしも私が柏場さんのように何度もレースを経験したら、最後まで綺麗に飛ぶことが出来るのだろうか。


そんな考えを脳が一瞬でシャットダウンさせる。

バランスを崩した瞬間に詰められたのだろう。

再び柏場さんに並ばれてしまったのだ。


今まで冷静に走って来たが、ここで並ばれ私は焦り感じる。

それでもどうにか、水濠は綺麗に飛び越えることが出来た。


私と柏場さんは同時に水から出て並んで走る。


ただ、柏場さんは並んできただけで、再び前に出ようとはしなかった。


ホームストレートを並びながら走っていると、私の中にある考えが浮かんでくる。


「大丈夫。ただ並ばれただけ。相手に余力が残っていたら、とっくに前に出られている。まだチャンスは十分にある。それに相手は実業団選手。それも、昨年までこの種目4連覇中の上に、日本記録保持者。下手な小細工なんて通用しない」


その思いを確認すると、不思議と決心が固まった。


ラスト1周の鐘が鳴ると同時に、私はありったけの力を振り絞り、スパートをかけた。


私がスパートをかけても、柏場さんは付いて来なかった。


また私が単独1位になる。


だが、油断は禁物だ。

現にさっきも、障害でバランスを崩した時に追いつかれた。


そう思った直後、バックストレート入口前、1500mのスタート地点にある障害を飛び超えようとして、バランスを崩してしまう。


幸いにもバランスを崩しながらも、なんとか綺麗に着地出来た。


しかもこのロスがありながらも、まだ柏場さんには追いつかれていない。

それとも、一応綺麗に着地が出来たから、そこまでロスになっていないのか。

そんなことが頭を駆け巡るが、すぐに振り払う。

まだレースは終わってはいない。

まずは目の前に集中すべきだ。


次の障害は綺麗に飛ぶことが出来た。


でも、脚は悲鳴を上げそうなくらいに重たくなっている。


残すは水濠が1回と障害が1回だ。


左手で太ももをパチンと叩き気合いを入れる。


渾身の力を込めて障害前で加速し、最後の水濠を飛び越える。

上手に、ふくらはぎが浸かるくらいの場所に着地出来た。

私が水濠から出る時には、柏場さんが飛び越えて来る音は聞こえなかった。


「大丈夫。ある程度の差はある。落ちついて行こう」

自分に言い聞かせるようにして最後の障害へと向かう。


私がホームストレートに入ると同時に、スタンドから大歓声が起こった。


その歓声の中、最後の障害も無事に飛び越える。

後はゴールまで駆け抜けるだけだ。

差があるのは分かっているが、油断は絶対にしない。


「今年の目標は、最後の一歩まであきらめない。最後の一歩まで油断しない」

梓が入部して新体制になった時、麻子がみんなを集めてそう宣言した。


もちろん、それが何を意味するのか全員が理解していた。


昨年の県高校駅伝。

私達は後一歩と言うところで城華大附属に負けた。


だからこそ麻子の立てた目標がどれだけ重要か、はっきりと分かっている。


私は体に残っている力をすべて出し切るつもりで必死で走る。


残っているのは、もはや気力のみだ。


でも大丈夫。

後ろからは足音も呼吸音も聞こえない。


ラスト10m。

電動計時をちらっと見る。


「あ、自己ベスト更新だ」

一瞬そんな考えが頭を過ぎる。


そう思ったら、ゴールの時に自然と左手でガッツポーズを作っていた。


ゴールラインを越える瞬間、笑顔が込み上げて来る。


ゴールして振り返ると、電動計時は9分52秒66で止まっていた。


よく考えると、自己ベスト更新は高校記録の更新ということにもなるのだ。


自分でも信じられなかった。

初出場の日本選手権。

人生2度目の3000m障害。


そんな状況の中で、私は高校記録を更新し、見事に日本選手権を制したのだった。

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