26区 突然の来訪者

「葵先輩、お疲れ様です」

ゴールした葵先輩に声をかける。


5月下旬の暑さのせいか、それとも必死さの表れか、葵先輩の全身が汗で包み込まれていた。


「きつかったぁ。最後負けちゃったわね」

葵先輩の顔は清々しかった。きっとすべてを出し切ったが故の満足感だろう。オーロラビジョンに発表されたタイムも9分43秒44とかなり良い。


藍葉のタイムが気になり私は視線を上に向ける。


9分30秒31。


そのタイムは藍葉の飛び抜けた実力と、このレースでの必死さを表すには十分なものだった。


「どう? 澤野聖香?」

「恐れ入った。やるわね」

後ろから声をかけて来たのが藍葉だと分かり、私は振り返りもせずに返事をする。


「どうも。あなたも早くこの場に上がって来なさい。直接対決で叩きのめしてあげるから」

藍葉はそれだけ言うと私の後ろから去って行く。


葵先輩が給水をして、座ってスパイクの紐を解いていると、その横に誰かが座って来る。その相手を見て私は驚く。なんと今のレースで優勝したばかりの宮本さんだった。


「葵、高校に入っても頑張ってんの? 昨年は見なかったから、どうしてるんだろうって思ってたけど」


「あ、加奈子先輩、お久ぶりです。相変わらず速いですね」

2人が普通に会話をしているのにさらに驚く。


「聖香。こちらは中学時代の先輩で、城華大附属3年生の宮本加奈子さん」

私に宮本さんを紹介してくれる葵先輩。


「で、加奈子先輩こっちが」


「昨年、県中学ランキング1位になりながらも、城華大附属の推薦を断り、一時期は引退説まで流れたのに、どういったわけか桂水高校の陸上部に入部した澤野聖香。でしょ?」


葵先輩が私を紹介しようとすると、宮本さんがスラスラと語り出す。


「加奈子先輩、陸上部じゃなくて駅伝部ですよ」

そこに大きなこだわりがあるのか、葵先輩が即座に修正を求める。いや正直に言うと、私も駅伝部と言う響きがかなり気に入っているのは確かだが……。


「まったく。藍葉だけじゃなく澤野と市島もいれば、今年は全国優勝も夢じゃなかったんだけどなあ。澤野、なんで城華大附属の推薦断ったん?」

宮本さんの質問に、思わず苦笑いをしてしまう。


どうやら宮本さんは、私だけでなく、えいりんのことも知っているようだ。


葵先輩がシューズを履き替え終わると、宮本さんにあいさつをして私達はみんなのいる場所へ戻る。戻りながら、今のレースや葵先輩の走りについて、お互いの意見を交わす。


「2人ともお疲れさん。大和、初3000mながら良い走りだったな。落ち着いた走りが出来てたぞ」


葵先輩は永野先生の一言に照れながらもお礼の言葉を返す。


「本当にすごかったです大和先輩。記録を計りながら見てて感動しました」

晴美が笑顔で微笑むと先輩はますます照れる。それを誤魔化すように、そそくさとダウンジョグへと出かけてしまった。


その間に私は、ラップのまとめ方を聞いて来た晴美にやり方を教える。とはいうものの、この一ヶ月半で晴美もすっかりマネージャー業が板に付いており、教えることもほとんどなかった。晴美はマネージャーとして、短期間で大いに成長しているようだ。


少したって葵先輩がダウンから戻って来ると、今度は永野先生が、「ちょっと用事があるから席外すな」と言い残して軽い足取りでどこかに行ってしまう。


部員が全員が揃ったところで、私はあることを思い出した。駅伝部の発足した経緯について先輩方に聞こうと思っていたのだ。それを言おうとしたまさにその時、私達が座っている場所より3段上の通路から男性の声がする。


「すいません。桂水高校の生徒さんですよね。永野綾子先生はどちらにおられますか?」


年齢は60歳を越えているだろうか。髪には随分と白髪が目立ち、白いポロシャツ一枚の上半身はビール腹で少しお腹が出ていた。だが、それすらも全体の雰囲気に合っていると言いたくなるくらい、表情も優しそうな男性だ。何というか、七福神の恵比寿様のような感じだ。


その男性の一言に葵先輩が対応する。永野先生がいないと分かると、男性は名前も告げずに立ち去ってしまう。みんなは「誰だろう?」と不思議そうにしていたが、実はその男性が誰か私は知っていた。一度会ったことがあるからだ。でも、それをみんなには言い出せないでいた。

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